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-73- 寂しさに寄り添う存在

 

 旦那様に手袋を贈った。そこまでは良かったはず……。

 問題はその後に起こった。私は旦那様から求められていることに応えられなかった。


――唇に口付ける。たった一つの簡単な要求を、私は受け入れられなかった。

 旦那様は私に謝罪の言葉を残して、部屋を出て行ってしまった。

 合わせる顔がなくて旦那様を見送ることはできなかった。


 どうしても、頭の中に旦那様と姉様が恋仲であった過去がちらついてしまった。旦那様と口付けることで、姉様――二人の気持ちを裏切るような気がした。


 祝言の夜に、旦那様と肌を重ねたと言うのに、何を今更……とも思う。ただ、あの時は務めを果たさなければ、と言う思いでいっぱいいっぱいになっていて、旦那様の姉様に対する気持ちを考えていられなかった。


 愛する人の妹を義務で抱かなければならなかったなんて、旦那様はどれほど嫌だったのだろうか。私は自分の保身を考えることしかできなかった。なんて情けない……。


 お義母(かあ)様へ贈る帯揚げの刺繍を始めて、一週間になろうとしている。旦那様にとってしまった態度への後悔を思いながらの作業で、思うように進んでいない。これではお義母様にも申し訳ない。


 そんなことを思っていたら、部屋の中に急に強風が吹き込んできた。


 驚いて縁側の障子を閉めようと立ち上がると、足元をするりと抜ける白い影が見えた。シロがまた訪ねに来てくれたらしい。


 外を見ると、湿った空気が流れていて、西の空に暗雲が立ち込めていた。きっとこれから大雨が降る。シロは雨宿りするついでに立ち寄ってくれたのかもしれない。


 私は障子を閉めて、部屋の中へ戻った。少し前に旦那様型の指人形でシロと遊んで以来、シロはこの部屋にある白い布は遊んで良いものと思っているらしい。刺繍途中の帯揚げに爪を立てられては困るので、私はシロに悪戯しないようにお願いしながら、いつものにぼしをご馳走した。


 シロはにぼしを美味しそうに食べて、毛繕いを終わらせると畳の上にごろりと寝転がった。そのまま昼寝を始めようかと言った態度が微笑ましくて、私は口元を緩めた。


 少しすると、外で雨が地面を打つ音が聞こえてきた。随分と横殴りな降り方をしているようで、時々障子にも当たっている音がする。思っていたよりも強い雨が降るのかも。雨戸を引くべきかもしれない。


 そう思っていたら、縁側の外で動く人の気配がした。どうやら使用人や女中達が、屋敷中の雨戸を閉めて回っているみたいだった。私の部屋の雨戸も閉められた音が聞こえる。


「雨がやむまで、シロが出て行けなくなってしまったわ……。大丈夫かしら?」

「……にゃふん」


 私の心配を聞いて、シロは長い尻尾をぱたりと動かして返事をした。たぶん、少しの間閉じ込められているくらいは許容すると言ってくれている。


 段々と雨音が強くなってくるのを遠くで聞きながら、私は刺繍に没頭した。それまでの一週間、手間取っていたのが嘘のように刺繍が捗った。雨音しか聞こえない環境が却って良かったのかもしれない。


 進んでいく刺繍を時折眺めながら、私はシロと言う存在が部屋に居ることに安堵を覚えながら独り言を口にした。


「……元々、私は火焚家の嫁になれるだけの素質を持っていなかったの。片翅(かたはね)の半端者だから火蝶の一族や、その周りの人からは、よく思われていないし……。火蝶の本家である火焚家の嫁は、優秀な火蝶である姉様しかあり得ないと言われていたの」


 シロは何の返事も返してくれない。それが心地よかった。


「……けれど、姉様が巫女になられて……。その功績に報いる形で次の婚約者に私が選ばれて……。火焚家の後継を産むことだけが、私の務め……。それ以外は何も望まれていない。何処へ行くことも許されない。ただ、ここで旦那様の帰りを待って、務めを果たせる日を待つだけ。……それなのに……」


 刺繍の手が止まってしまった。旦那様との口付けを拒否した日を思い出してしまった。


「……旦那様が求められていることにも応えられないようじゃ、務めを果たすことなんてできないって分かってるのに……。私は……――」

「にゃむん」


 次から次へと漏れ出ていく暗い言葉を封じるように、シロは私の背中に寄り掛かってきた。少し驚いて振り返ると、背中を向けているシロの耳がこちらを向いていて、私の反応をよくよく聞いている様子が見えた。


 ただの泣き言を聞いてくれようとしているシロの存在が、涙が出てしまいそうになる程、有り難かった。


「……シロは、優しいのね」

「……にゃうぅん」


 シロは耳を前に向けると、そのまま小さな寝息を立て始めた。私を背もたれにして。


 背中に感じるシロの暖かさと重みが心地よくて、くさくさしていた心が晴れていくのを感じた。また刺繍に集中できるだけの気力を取り戻せた。


 いつの間にか雨は、やんでいた。西の空に浮かんでいた暗雲はすっかり消えてしまったらしい。夕日に照らされて小さな虹も出たのだと、あとからヨネに聞いた。


 けれど、私は部屋に篭って刺繍をしながら、シロと静かな時間を過ごすだけで幸せを感じられていた。

 次に旦那様と顔を合わせた時は、普通に接することができると確信が持てるほどに気力を取り戻すことができた。


 これはきっと、シロが私に勇気を分け与えてくれたから。

 自由気ままに過ごしているシロが、少しの時間を私に使ってくれたから。

 それが例え、雨宿りの間だけだったのだとしても。

 

  △ ▽ △


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