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-61- 呼ばれたい声

 

 自身の手元が柔らかな光で照らされ、太蝋が目の前まで迫っていることを知って、八重は顔を上げた。

 汚れを落とした奇麗な手で、太蝋は八重の頬を包み込みながら言う。


「お前とは、違う」


 太蝋の炎が情熱的に燃え上がった。そして、ゆっくりと頬に口付けが落とされる。


「……こんなことは千重にしていないし、されてもいない」


 そう言って、太蝋は額にも口付けをする。

 太蝋は千重に口付けの一つもしていない。それは二人の間に恋慕の感情がなかったから。

 それが本当か嘘かを確かめる術は、無い。二人のことは二人にしか分からないのだから。

 けれど、太蝋が真剣に言い募る姿を見ていると、信じたいと言う気持ちが湧き上がってくる。そうであって欲しいと思ってしまう。


「……良かった」


 きっと、太蝋の言う通りだったのだろう。そう思った瞬間に零れ落ちた安堵の言葉は、太蝋の焦りも溶かしてくれた。


……と同時に、堪らなく八重に触れたい気持ちが膨れ上がってくる。

 太蝋は八重の唇に親指を這わせた。その感触に驚いて目を見張る八重。

 ふっと目があった瞬間に、太蝋は八重に窺い立てた。


「口付けたい。……良いか?」


 余裕を感じられない切羽詰まった苦しげな声色で言う太蝋。

 何処に、とは言わず、指でなぞることで口付けしたい部分を八重に伝える。

 丁寧に、ゆっくりと形を確かめるような動きで唇を撫でられ、八重は頭の芯がカッと熱くなるほどの恥ずかしさを覚えた。

 だが、唇への口付けを望んでいたのは太蝋だけではない。八重もまた、望んでいた。何度、口付けが叶わなかった夜にガッカリしたことか。


「はい……」


 太蝋に求めてもらえることへの嬉しさに胸を高鳴らせながら、八重はそっと目を閉じて顔を上げた。すると、太蝋の熱い手の平が八重の両頬を包み込んだ。


 そして、そっと静かに――二人の唇が重なった。何の音も立てることなく離れていく唇。


 二人はゆっくりと目を開き、至近距離で見つめ合う。


 片や真っ黒な大きな瞳を潤ませて。片や目の色も形も、位置さえも分からない。それでも、二人は確かに見つめ合えていた。


 太蝋はもう一度、八重の唇を塞いだ。今度はしっかりと。八重の唇の柔らかさを、己の唇で確かめる為に。


 三度目、四度目――何度も角度や強さを変えて、八重と太蝋は唇を重ね合った。それまで叶えられなかった夢を堪能するように。


 軽く唇を吸い上げられると、八重の身体にさざなみのような震えが沸き立つ。腰から背中にかけて這い上がるような波が押し寄せてくる。目の前に星が舞い、思考が奪われていってる。


 太蝋はほぼ零距離の位置で八重の目を見つめながら、囁き声で言った。


「もう一つ、我儘を聞いてくれないか」

「なん、でしょうか……?」

「名前で呼んでくれ」


 懇願するような声色で言いながら、太蝋は八重の額に額をくっつけた。

 太蝋はこれまで八重から「旦那様」と呼ばれてきた。

 間違ってはいない。だが、使用人や女中達と同じ呼び方をされるのは不服だった。最初こそ、それでも良しとしていたが、最近はそうでもない。


 しっかりと名前を呼んで欲しい。八重の口から、自分の名前を聞きたい。

 そんな願いを口にすると八重は、太蝋の目をじっと見つめながら、そっと小さな声で言った。


「太蝋、さま……」


 顔を赤に染めて、目の淵に小さな涙を浮かべながら言う八重の顔は、太蝋の中にあった不満も不安も全て掻き消した。

 ただただ、嬉しいと言う感情で溢れている。


「その方が良い」


 そう言って、太蝋はまた八重の唇を塞ぐ。


「んっ……」

「……ずっと良い」


 唇を離す瞬間に喜びを噛み締めながら言われる言葉は、八重の心も喜びで満たした。


「もう一度、呼んでくれ」

「……太蝋さま」

「もう一回」

「太蝋さま」

「もう一つ」


 妖艶な雰囲気で名前を呼べと言ったかと思えば、今度は言い方を変えて要求してくる。何だか随分と小賢しい真似をするものだ。


「……もう……ふふっ……」

「呼んでくれないのか」


 ついつい笑い零してしまった八重に、太蝋は子供のように口を尖らせた。そんな姿も愛おしく感じて、八重は太蝋の手に手を重ねて言った。


「太蝋さま。……これで、宜しいですか?」

「……うん。これからも、そう呼んでくれ」

「ふふっ……かしこまりました」


 八重が笑顔で答えたあと、太蝋はまた唇を重ねた。

 それまでに積み重ねってきた(もや)を一つ一つ振り払うように。

 

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