-11- 最初の見送り
それから、少し時間が経って――
「――では、私も行ってくる」
そう言って、太蝋は玄関へ上がった八重と当主を見上げた。
その肩には荷物をぶら下げており、いつでも出発できる状態にある。
「しっかり、働いてきなさいな」
「えぇ、勿論ですよ」
実の親子同士、気楽なやり取りをする太蝋と当主。
そんな二人を交互に見ながら、八重は出発しようとしている太蝋に、なんて声をかけて良いものか悩んでいた。
これから太蝋は一ヶ月と言う長い期間、軍務に就く。
その間、火焚の屋敷には帰ってこない。
夫婦になったばかりだと言うのに、またも会えない期間が続くことになる。
しかし、それに名残惜しさを感じられるほど、太蝋との関係は親密ではない。
夫婦と言えど、昨日今日になって知り合う機会を得たようなものだ。
そんな相手に掛ける言葉が見つからなかった。
すると。
「八重」
太蝋は八重の名を呼びながら、手を差し出した。
その手が何を意味するか分からず、八重は目を丸くして太蝋の手の平を見つめる。
すぐに太蝋の意図を察せなかった八重を見上げつつ、太蝋は半ば無理やり八重の手を握った。
「え……っ?」
太蝋に手を握られている状況の意味が分からず、八重は困惑しながら目を泳がせた。
そんな八重をじっと見上げ、太蝋が言う。
「行ってくる」
「……い、いってらっしゃいませ」
やっと太蝋の意図を理解した八重は、辿々しくも見送りの挨拶を口にした。
「うん」
八重の見送りを聞き、太蝋はホッと息を吐いてから手を離す。
そして、今度こそ火焚の屋敷を出発して行くのだった。
その後ろ姿を見送りながら、八重は今になって熱が灯り始めた手を抱き込む。頬にも血が通うのが分かった。
特殊な軍役に就いている〝旦那様〟の無事を願うくらいには、何らかの情を感じ始めているのだと自覚する八重だった。
△ ▽ △
太蝋が出発した直後。
「――八重ちゃん。ちょっと良いかしら?」
当主が手招きしながら、声を掛けてきた。
火蝶一族の当主であり、夫の実母であり、自分にとっての義母となった女性に八重は緊張しか感じなかった。
「はっ、はい……っ」
何を言われるのか恐々《こわごわ》としながら、八重は当主の後をついていく。
屋敷内の長い廊下を歩いていった先で到着したのは、太蝋の部屋から少し離れた一室。
その部屋の障子を開けて当主が入っていくのを見ていたら「八重ちゃんも入ってらっしゃい」と声を掛けられた。
何の部屋かも分からずに足を踏み入れると、そこには見覚えのある箪笥やら机やらが並べられていた。
八重が火縄の実家で使っていた家財道具一式だ。
「ここは八重ちゃんの部屋だから、好きに使って頂戴ね。あぁ……着物に関しては荷を解いてないの。自分の好みで箪笥に入れておいてね」
「あ……えっと……」
前以って火焚の屋敷に嫁入り道具が運ばれていたのは知っていたが、しっかりとした部屋が用意されていたとは知らなかった。
嫁入り道具は何処へ行ったのか――などと考える余裕すらなかったのである。
「あ、ありがとうございます……ご当主様……」
何はともあれ、礼は伝えなければ。そんな思いで八重が言った途端、当主は「あら……」と眉根を顰めて言った。
「ご当主様――だなんて、他人行儀な呼び方は嫌だわ」
「え……っ」
「太蝋の嫁になった以上、八重ちゃんは私の娘――でしょう?」
だから、そんな呼び方をするんじゃない。
――と言いたげな無言の圧を感じ、八重は目を泳がせながら何と呼べば正解か考えた。
「は、はい……っ。え、ええと……。お、お義母様……で、宜しいでしょうか……?」
無難な提案を怖ず怖ずとしてみると、当主はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「そうね。それが良いわ。あぁ……娘って良いわねぇ……」
噛み締めるように言う当主の姿を見て、八重は嫁入りしてきたことを、これほど喜ばれているとは思わずに面食らった。
所謂、政略結婚であるため、本当は半端者の娘を嫁にもらうのは嫌だったのではないか? などと言った不安が、八重の中にはあったからだ。
しかし、屋敷内に用意された自室と言い、持ち運びこまれた家財道具一式への丁寧な扱いと言い、義母である当主の態度からは、八重への嫌悪感がまるで見られない。本当に歓迎されているように思えた。
「あぁ、そうそう。太蝋が任務に行ってしまった後で悪いのだけれど、私も本宅を離れなければならないのよ」
「えっ?」
てっきり、これから一ヶ月、当主と二人で生活していくものかと思いきや、どうやら違うらしい。
目を丸くさせている八重に、当主は憂鬱げに言った。
「元々、八重ちゃんがお嫁に来たら、火蝶神社近くに構えてる別宅で過ごすつもりではあったの。新婚の二人の邪魔をしちゃいけないと思ってね? その為の理由付けに色んな仕事を入れておいたら、太蝋の方まで緊急の任務が入っちゃって……。本当、これからの時期は、太蝋も私も忙しくなってしまうのよねぇ……」
「そ、そうだったのですね……」
火焚の本宅に一人残されてしまう事情を聞き、八重は一気に心許なさに背中を丸めた。
当主や太蝋はともかく、火焚の屋敷に仕えている使用人や女中達は、八重に良い顔を見せてくれないからだ。
明日から――いや、恐らく今日から、八重にとって居心地の悪い時間が始まるのだと思うと、気が重くなって仕方がない。