-10- 母の温もり
祝言翌日の早朝。
「――おはよう」
ぼんやりとする頭と視界に映ったのは、完璧に軍服を着こなしている蝋燭頭の男――夫の太蝋だった。
縁側に続く障子の向こうから、うっすらと朝日が差し込んできている。
完全には昇っていないことが分かる程度の光だ。
太蝋が使っていた布団は部屋の隅に畳まれている。
太蝋の足元には当分の着替えが入っているであろう荷物が置かれていた。
それらの光景を見て、八重は夫よりも遅く起きてしまったことに焦りを覚え、慌てて起き上がった。
「も、申し訳ありませんっ。す、すぐに支度を整えます……っ」
あわあわと目を回しながら、自分の格好が乱れていることにも気付かず、八重は布団を畳んで片付け始めている。
「そこまで急がなくても良い。朝餉の時間まで、まだ少しある」
「で、ですが……っ、だ、旦那様より遅く起きてしまうなんて……っ」
それこそが罪であると言いたげに話しながら、畳んだ布団の皺まで直し始めている八重。
そんな様子が見ていられず、太蝋は八重の手を掴んで言った。
「務めを果たした翌日に寝坊するくらい、どうってことない。だから、落ち着きなさい」
「え……っ」
「いや、そもそも、寝坊と言うにはまだ早い時間で――」
そこまで言ったところで、太蝋は八重の頬が真っ赤に染まっていることに気が付いた。
〝務め〟が何であったかを思い出したからこその赤面だと気付き、太蝋は人に感知されない目を泳がせた。
――と同時に、乱れた浴衣の下に見えるものに対しても動揺が走る。
太蝋は固定されそうになる視線を根性で明後日の方向に向け、不自然な咳払いをしてから立ち上がった。
「……部屋の外で待っているから、ゆっくり着替えなさい」
「え。あ……――」
八重の返事を待たず、太蝋は部屋を出ていった。部屋の中に荷物を置いたまま。
ぽつんと部屋の中に残された八重は、色々と巡る思考で困惑しながらも、何とか身支度を始めた。
袖を通し慣れた薄物――夏用の着物に着替え、鏡がない環境下で何とか髪を整え終えると、廊下に続く障子を怖ず怖ずと開けて顔を覗かせた。
右、左と視線を巡らせ、左を向いた瞬間に腕を組んで立っている太蝋の姿が見えた。
スッと伸びた背筋に軍服がよく似合っていて、太蝋が鍛えられた軍人であることが素人目にもよく分かる。
「ん……。支度は終わったか?」
八重の視線に気付いた様子で太蝋が口を開く。
――と言っても、白い蝋燭から声がしていることくらいしか分からない。
飲食している時になら、口が何処か分かるのだが……。
「は、はい……。あ……だ、旦那様……」
「ん?」
部屋から顔を覗かせていた八重が、また部屋の中に引っ込んだかと思いきや、すぐに出てきて太蝋に何かを差し出した。
「こ、これ……お忘れでしたので……」
「……」
八重が差し出してきた物は、太蝋が自身で用意していた荷物である。
それに気が付くと同時に太蝋は置き忘れてしまった原因に思い至って、頭を抱えそうになった。
「……ありがとう。助かった」
忘れた理由を悟られまいと太蝋は礼だけ告げて、八重の手から荷物を受け取った。
そして「居間に行こう」と言って、八重に背を向ける。
その背中を見上げながら、八重は後をついていく。
何気なく伝えられた太蝋の礼の言葉を嬉しく思いながら。
△ ▽ △
居間に到着した後は、八重、太蝋、火焚当主、火縄夫妻で朝食を囲んだ。
昨日、祝言の場で呂律が回らなくなるほど飲んでいた桑治郎は、祝言が終わった後もヤケ酒していたらしく、今は立派な二日酔いに見舞われているそうだ。当主の厚意で用意された、しじみ汁を有り難がって飲んでいた。
その隣では母の透子が呆れた顔をして「自業自得でしょうに……」と呟いている。
そんな朝食の場を囲んだ後、火縄夫妻と太蝋の出発を見送る時間となった。
先に火縄夫妻が火焚の屋敷を出発することになり、八重、太蝋、当主の三人が屋敷の門前で見送りに立った。
未だ二日酔いによる頭痛に見舞われながら、桑治郎は透子と揃って、当主と太蝋に向かって頭を下げる。
「――どうぞ、娘をよろしくお願いいたします」
昨日の祝言の場に於いても、散々言われた言葉。
如何に火縄夫妻が八重の身を案じているか伝わってくるようだった。
それを受け、当主がにこやかに微笑みながら応えた。
「勿論ですわ。八重ちゃんは、私にとっても可愛い娘ですもの。宝のように大切にさせて頂きます」
当主の言葉を傍で聞いていた八重は内心で驚きながら、信じ難い気持ちで俯いた。そんな八重を見ていた透子が言う。
「八重。出発前に言った言葉、覚えてるわね?」
「え……?」
母が言った〝出発前の言葉〟が何であったか、八重は頭を巡らせた。
『――どうしても向こうでの生活が嫌になったら報せなさい』
当主と太蝋の前では大っぴらには言えない言葉だ。
しかし、透子はそのことを留意しておくように八重に釘を刺している。
そのことを理解し、八重は義母になった当主や、夫になった太蝋の顔色を気にしながら、小さく頷いて応えた。
それから、両手をぎゅっと握り込んで両親に言う。
「父様、母様……。道中、気を付けて……」
離れ難いほどの寂しさを覚えるが、家のことを思えば二人を引き止める訳にはいかない。
せめて、火縄の屋敷に帰るまでの旅路が無事であることを祈りたい気持ちで八重は言った。
すると、透子――母は八重の不安を見抜いた様子で、そっと優しく抱き締めた。
「大丈夫よ。また必ず会えるわ」
「……っ。はい……っ」
「ちゃんとご飯を食べて、健康でいるのよ」
「はい……っ」
「夜もしっかり寝なきゃ駄目よ」
「はい……っ」
「あまり、考え込みすぎないようにね」
「……はい…………」
母からの助言を受け、八重は溢れ出そうになる涙を堪えるように両手を強く握り込んだ。
次に、この温もりに包まれるのは何時になるだろうか。
離れていってしまうことが分かっているからか、今包まれていても切ない気持ちになった。
父の桑治郎も八重の頭を撫でながら「達者でいるんだぞ」と言ったら、透子と共に名残惜しそうな様子で火焚の屋敷を後にして行った。
その姿が見えなくなるまで見送る傍ら、太蝋はずっと腰を折って頭を下げていた。二人への敬意と感謝を表すかのように。