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痛覚

「ありがとう。お姉ちゃん」

「いいのよ、また来てね」

お菓子のセットを渡して女性がにこりと微笑む。彼女の名前はグレース・エヴァンズ、ストレートのブロンド髪は肩に少しかかるかどうか、顔立ちはくっきりと整っているがどこかあどけない。国内有数の食品メーカー、エヴァンズ・フーズのご令嬢だ。

今日が各市で開催してきたフード・サイクルの今年最後のイベントだった。

「すごいな、グレースは。これだけの人を動かして困窮者への食品提供を実現させてしまうのだから」

「わたしはほとんど何もしてないよ。こうしてイベントを少しでも多く開催することが大切だと感じているの。アレンこそ忙しいのにありがとうね」

「いや、僕はたまにこうやって少しの間きてるだけだからね。君には遠く及ばないよ」

彼女は子供たちをみて目を細めた。

「どんな子にだって栄養のある食事をおなか一杯食べる権利があるのよ」


年の暮れ。

僕が友人と大学までの道を歩いていた時の事だ。友人が足を止め、目を丸くして言った。

「ちょっとあれを見てよアレン、グレースじゃないか?」

僕は友人が指し示す方に目を凝らした。かなり遠くの、道路をまたいだ歩道で一人の女性が車に乗り込もうとしていた。

「たしかに」

あのシルエットはグレースに間違いない。傍には中年男が立っていた。男は恰幅の良い40台ほどで全身は黒のスーツ、黒縁眼鏡をかけていた。あごひげも蓄えていた。道路の脇には白くて威圧的な図体をしたロールス・ロイス・ファントム。男はグレースを助手席にエスコートし、それから運転席に乗り込んだ。そして僕たちの目前をゆるやかに通り過ぎていったのだ。まるでこれから盛大なパーティに向かうかのような優雅さを醸し出しながら。

「知り合いだろうか」と友人が言った。

「うーん、どうかな。まぁ彼女はエヴァンズ・フーズのご令嬢だから交友関係が広くても何もおかしくはないけど」

「まぁ、気にすることもないんじゃないか?君と彼女の間は固い愛で結ばれているのだから」


 僕はとても不安だった。

 彼女はとても誠実な女性だ、心配する必要なんてない。もちろん、だからといって彼女が私に何の連絡もなく、3年ほどの交際を終了させ、別の年配の男に心を寄せるということが

起こりえないわけではない。だがそんなことはありえないことだと思いたかった。

 そしてその日の夜、彼女から私の家に一通の手紙が届いた。それはとても短い、最低限の文章だった。

――

親愛なるアレンへ


わけあってもう会えないの

ごめん

     グレース

――


次の日、意を決して友人に手紙を見せると、友人は驚いて言った。

「信じられない。やはりあの男か?」

「俺にもどういうわけか分からないよ」

あまりに混乱して、悲しいとか怒りといった感情さえ湧いてこない。

「なにか裏があるとしか思えない」

友人は私の肩に触れて言った。「気を落とすなよ。俺だってこのようにアレンとグレースが終わってしまう結末は認めたくない。しかもあのおやじが相手?悪夢だ。力を貸すよ」

「すまないな、俺のために」

「おいおい勘違いするな。すべてはグレースのためだ。あんな子が不幸になるこの世界にしたくないだけだ」

僕の友人は信じられないほど面倒見のいい奴だった。友人は続けて言った。

「それに、君がプライマリースクールのころから、ずっと彼女にぞっこんだったことも知っているしね」


 一週間が過ぎた。

友人とともに調査して様々ことがわかってきた。

「グレースが一緒にいた中年男はフード・サイクル・ウォールという非営利企業のジャック社長だ。この会社は地域の恵まれない子供たちのために食品提供事業を行っている。

そして、そのフード・サイクル・ウォールとエヴァンズ・フーズは密接な関係にある。

食品を提供販売する側がエヴァンズ・フーズで、政府からの助成金を元にその食品を買い付け食品提供事業をしているのがフード・サイクル・ウォールというわけか。だがその2社が密接な関係になるのは理解のできる話だ」

友人が言った。

「ちょっと調べたところ、エヴァンズ・フーズはいままでライバル企業に売り負けていたが、現在では圧倒的に売り買っているようだ」

「たしかに最近、売り上げも好調のようだな。株価も堅実に上昇し続けている」

「そのとおりだ。さすがに彼女に関わる情報は詳しくチェックしているんだな」

「だが気になる点がある。そもそも、グレース・フーズはライバル企業に売り負けていたのだ、そこからどうして反転攻勢に成功したのか、そして、ジャック社長がここ数年で急に金回りがよくなった、そしてついに国政選挙に打って出ようとしているっていう話。この二つはもっと深堀した方がよさそうだ。」


 僕たちはある目的をもって、友人宅で飲み会をすることにした。

僕はひさびさにおじさんに会う前に、買い物をしていくことを提案した。そして近くのスーパーマーケットに寄った。カートに乗せたバスケットに食事の材料、お酒、つまみなどを放り込んでいく。

「アレン、これをみてくれ」

友人はそう言って、二つの缶詰を手に持ってきた。

「エヴァンズ・フーズのビーンズ缶だけど、ライバル社と同じ価格設定だ」

「それがどうかしたのか?」

「この商品、販売価格は同じだがまったく定価が異なっている。エヴァンズ・フーズの商品はライバル商品の3倍の定価だ」

「つまりエヴァンズ・フーズ社は製造原価が高く、たくさん値引きをしているってことか?よほどブランド価値のある高級豆を使っているとか?」

「まさか。もともとの値付けが高いんだろう。つまり定価で売ることにより利益がかなり出るように値段設定されている」

「でも売値は同じなんだろ、何のために?」

「そもそも、商品価値以上の高すぎる定価設定をするとどうなると思う?」


 私たちはそこそこで買い出しを切り上げ、友人宅へ車で向かった。友人の自宅は調査機関会社のオフィスを兼ねていた。そして、友人の父はその筋では名の通ったベテランだった。

「なんかすみません。お邪魔してしまって」私は友人の父に言った。

「アレン君久しぶりだね。うちの息子と仲良くしてやってください」

「ありがとう、おじさん。ところでおじさんが好きなウィスキーを買ってきましたよ」

「お、さすが。気が利くな」

それから2時間ほど私たちは食べて飲んだ。おじさんが酔いつぶれたころに私たちは目的を遂行した。おじさんの仕事部屋にこっそり侵入し、パソコンを立ち上げる。

「俺は何度かアルバイトで仕事を手伝っていたからな、だいたいの操作方法は分かる」

友人はそう言いながら、キーボードをパチパチと軽やかに叩き、いくつかのソフトを使って秘匿情報を閲覧した。

「フード・サイクル・ウォールからエヴァンズ・フードに流れている金額が非常に多い。そしてこれは、そのまま国の支援金がフード・サイクル・ウォールに流れているとみていいな」

「つまり、定価を高くして、大きな利益を得ている。そしてこの利益について二社の間でなんらかの取引がされているということだ」

「そしてこのジャックという男、かなり顔が広いようだ。政界にも顔が利く。だからこそ政治転身を考えているのだろうが。エヴァンズ・フードに対してなにか裏で便宜を図っているということもあるかもしれない。」

「密接な間柄。そしてそこに、娘に対する要求があったと考えると、考案したのはフード・サイクル・ウォールのジャック社長だろう」


 翌日の朝、私たちはおじさんに呼ばれて部屋へ行った。

「君たちがしたことはすぐに分かった。どうしてこんなことをしたのか言いなさい」

あれだけ顔を赤くして酔っぱらっていたおじさんの表情が険しい。僕と友人は顔を見合わせた。どうやら言い逃れはできないらしい。パソコンの操作ログやら、カメラやらで犯人として僕たち二人がすぐに特定されてしまった。私たちは事の経緯を説明した。

「たしかにそうだな。君たちの言う通り、これは非営利団体であるという承認が取り消されるかもしれない。そうすれば、国からの支援金も中断されるし、もしかしたら、過去にさかのぼって支援金分の取り立てもありえる」

 それから私たちはグレースの父親であるエヴァンズ・フーズの社長と話をする場を得ることになった。おじさんは事情をきいて味方になってくれたのだ。勝手に情報を入手していた件についてはその理由と正義感に免じて、一年間の小遣い無しという形で決着がついたらしい。


 私たちはエヴァンズ・フーズ社に赴き、面会することとなった。

エヴァンズ社長はとてもやつれてみえた。

「ひさしぶりだね。うちの子と仲良くしてくれていたよね。そういえば有名国立大学に通っていると娘からきいたよ」

彼女の父親は私と友人に言った。昔から彼女の家にはよく遊びにいってよく知った仲だった。

「本当にうらやましい限り。うちの子は、まぁ、いいところもあるんだけど、少しいまいちなところもあってね」

彼女の父親はいつもへりくだりすぎるところがあった。

それから私たちはフード・サイク

ル・ウォールとエヴァンズ・フードの関係性について調べ上げたことを説明した。

 一通り聞いた後、エヴァンズ社長は言った。

「しかし、ジャック社長のやっていることはなにも違法な事ではない。国が認めている業者でもある。非営利活動法人だ。やっていることはお国のためであって…」

「しかし、わざと低価を釣り上げて国からの助成金で利益を得て、それを2社で裏で取引していたとなるとまずくはないですか?わかりますね?非営利団体としての登録は取り消しされるかもしれないし、ジャック社長の政治活動にも影響が大いにある」

おじさんはそれから、いくつかの証拠資料を提示した。そして言った。

「妥協点を見出して、このような関係を続けるのはやめませんか。会社の名声に傷がつきますよ。購買拒否運動が起こる可能性だってある」

エヴァンズ社長はため息をついた。それから言った。

「おっしゃる通りだと思っています。しかし、一時競合にことごとく競い負けていた時期に助けていただいた恩がありました。もちろん、その時もよくないことだとわかってはいましたが、従業員を養うにはそうするしかなかった」

おじさんは諭すように言った。

「人は、痛みはできるだけ少ないほうがいいと考える生き物だ。誰だって痛いことは嫌ですからそれを避ける。しかしながら通すべき信念も必要だ。それは会社経営においても同じことではないです」


 何週間ぶりだろうか。僕とグレースはようやく再開することができた。

「ようやく会えてとても嬉しいよ、グレース」

彼女は最初に申し訳なさそうに言った。

「いろいろと父を助けてくれたみたいで、本当にありがとう」

「僕たちが動かずとも結局は明るみにでてしまっていただろうから、早めに事が収まってよかったよ。ただ、ジャック社長の悪行が不問であるという状況には納得いかないがね。まあ、互いに事を荒立てないという条件がある以上仕方がないか」

私は彼女との再会を心の底からよろこんだ。これからまた彼女との楽しい日々が始まるのだと信じて疑わなかった。


しかし、彼女の様子は以前とは様変わりしていた。

私は見かけてしまったのだ、ジャック社長とグレースが二人でいるところを。彼女はサングラスをかけていたけれど僕にはすぐにグレースだと分かった。彼のロールス・ロイス・ファントムの助手席に乗って、どこかへ向かうところだった。もう彼女がジャック社長と行動を共にする理由はないはずだった。ただ一つの理由を除いては。

僕はその日の夜、彼女に連絡をいれた。

「君はウォール通りでジャック社長の車に乗ってどこかへと向かったよね?どういうわけなんだ?俺はこのことを確認しなくちゃならない」

彼女の声はややトーンが低かった。意を決したように彼女は話し始めた。

「彼はそれほど悪い人ではないの。たしかに方法は間違っているかもしれないが正しい行いが目的であればいいのではと思っている」

「それが法すれすれの所業であっても?」

「彼は政治家になって、貧困について真剣に取り組もうとしているのよ」

もう彼女は変わってしまったのかもしれない。

間違った形で得たお金で、正しいことをやることなんてできやしない。

「僕たちはもう、会わない方がいいかもしれないな」

僕は自分の気持ちがよく分からなくなった、ただ、彼女が嫌いになったわけではないと思う。これは彼女の問題だ。彼女が解決すべき問題だと思った。


それから5年がすぎた。

僕は父が経営する会社に就職していた。就職とともに故郷を離れ、ロンドンに移り住んだ。仕事も私生活もそれなりにうまくやっていた。しかし僕には付き合っている異性はいなかった。ロンドンに越してから交友関係はそれほど広がることなく、出会いもなかったのだ。

 僕はときおり、リーン・ウォールにいくことがある。仕事柄、各所に飛び回って商品の取り扱いについて各社と打ち合わせをすることが多い。そこで偶然彼女と出会ってしまった。取引先の商談相手の部下として彼女が同席していたのだ。僕は商談の話が全く頭に入らなかった。彼女は最後にあったときからよとんど容姿は変わっていないようだった。整っていて気品があり、どこかあどけない顔つきだった。仕事が終わった後、僕らは簡単な声を交わしあった。

「久しぶりだね」と最初に彼女が話しかけてきた。彼女の声を聴くのは一体何年ぶりだっただろうかと懐かしい思いになった。

「どうなの?調子は?」

「私はそれなりにうまくやってるよ」

ジャックが市長になったということは聞いていた。だがそれ以降、ジャックと彼女の間柄がどうなったのかは全く知らなかった。たまに友人がその事について話したがっていたが僕は聞かないことにしていたのだ。

「君が幸せならそれでいいよ、じゃあ僕はこれで」

僕は気まずい雰囲気に耐えられそうになかった。僕にとって何も気まずいことなどありはしない、何も感じる必要もなかったはずなのに。


彼女は背中を向けた私に言葉を投げかけた。

「うまくやってると思う?うまく歩めたと思う?」

「・・・え?」

僕が振り返ると彼女は下を向きうつむいていた。

「なにが必要なのか、私にとって何が大事なのか、あの頃の私には何もわかっていなかった」

僕はなにを考えるわけでもなく、ほぼ条件反射的に言葉を発していた。「あの頃の俺も何もわかっていなかった」

しばらくの沈黙があった。

自分の中にあるわだかまりが一体何であるのか、その時、ようやくはっきりしたのだった。

それから僕は言った。

「じゃあ、今からでもいいんじゃない?もし、君に差支えがなければ」

彼女は涙を浮かべて言った。

「ありがとう」



おわり


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