ACT.1 忘れもの
清掃屋の朝は早い。
寝ずの番をする者はもちろん、それ以外の乗組員も早朝のうちから黙々と自分の作業に打ち込み始める。
清掃人であるリュウゾウとカナメは筋トレや体力維持や向上を目的にされた個々のトレーニングメニューを朝一番にこなし、ポッドの調整や打ち合わせをマイリーやアレックスと行う。
副船長兼機関士のアレックスは起きてすぐにおんぼろ船のあちこちを調整しないといけないし、普段サボってそうな雰囲気のマイリーも小難しい話をモニター画面に向かって交わしていることもよくある。
どう考えてもこの中で一番暇なのはヒカルだ。
せいぜい点検と掃除と連絡の取りもちくらいしか役目はない。
だがそうだからと言って先日大暴れしたこの老人の世話を押し付けられるのに、抵抗がないわけではないし、文句の一つも言いたくなるのはきっと仕方がないことだ。
「坊主」
「僕の名前は藤堂ヒカルです」
「名前なんてどうでもいい。儂をこの船から出せ」
「できるわけないでしょ」
ずっと憧れていた英雄の正体がこんな偏屈頑固じいさんだったとは、詐欺もいいところだ。一方的に不機嫌になりそれを隠そうともせずにジャンにぶつける。
ジャンはベッドに腰を下ろしたままヒカルを睨みつけた。頬に、額に、眼尻に刻まれた深い皺が無言でヒカルに彼の感情を伝えている。
勘弁してくれよ。と内心肩をすくめながらヒカルは黙って掃除を続ける。ジャンが荒らした部屋の掃除は予想以上に重労働で、ヒカルの腰はひそかに抗議の鈍い痛みを訴えている。
「おい坊主」
「無理、無理ですよ。僕だって拾われてここにいるんですから勝手に出来るわけないでしょ。それにもうちょっとすればもっと大きなとこがあなたを引き取りに来てくれるんですから、それまで我慢してください」
そう、キマンダが彼を保護すると連絡をよこしてきたのだ。
回答に丸一日かかったが、マイリーにとっては予定通りことが運んだのだろう。珍しく朝からご機嫌だったのはおそらくそのせいだ。
逆にヒカルは朝っぱらから気分がすぐれない。
理由は明白だ。キマンダが自分の保護を拒否したから。
確かにテロ事件の関係者を身の内に置くと言うのは、トラブルを引き起こす原因になるだろう。
しかし目の前の老人と比べて自分の待遇の悪さに、妬みよりも何よりもまず一番に情けなくなってしまったのだ。
「ふん、一度追い出された場所になど誰が戻るものか」
手を差し伸べられる温情に対し、鼻息荒くその手を突っぱねようとする老人とずっと部屋に二人きりでいると本当に気が滅入る。ヒカルは一日近く床に転がっていた雑誌を拾い集め、リュウゾウのベッドに放り込む。
どさどさと緑色のシーツに散らばる雑誌を眺め、ヒカルはため息を吐いた。
あこがれの英雄と実物の落差が激しすぎて、目の前にある事実が虚像のようにしか思えない。
「坊主はポリスの人間だったよな」
「ええ、あなたのこともたくさん知ってますよ。なんたって希望を造った英雄でしたから」
敢えて過去形にして嫌みたらしく言ってみたヒカルだが、言われた本人は鼻で笑ってばっさりと切り捨てた。
「希望ね、そんなの儂を利用するやつらが作りだした虚像にしかすぎん。お前は目の前に与えられたものを本物か否か確かめようとせずに手を叩いて喜んでる赤子みたいなもんだ」
鼻っ柱を折られたようなガツンとした衝撃に、ヒカルはムキになってジャンに突っかかる。
「螺旋型連絡用地下トンネル、水質浄化装置、酸素供給システム、他にもポリスで人が生きるために必要なものをすべてに携わってきて、しかも研究者という立場でも一番に人類移住計画を発案したのはあなただろ? 確かに僕はリアルタイムでいた訳じゃないがこれ全部嘘だっていうのかよ」
一気にまくしたてたヒカルに、ジャンは白く染まった眉を触りながら呆れたように肩をすくめる。
そしてふいとベッドに横になってヒカルの背を向け、一言だけ背中越しに言い放つ。
「何にもわかってないな。まあいい、儂はもう寝るから出ってくれ」
簡単に突っぱねられ、行き場のない怒りを押し殺しながらヒカルは自動ドアのロックを外側からひねって、ジャンを部屋の中に軟禁した。
「偏屈じーさんめ」
分厚いドアに向かって恨めしそうに呟いたとき、笑いを含んだ声が頭の上から声とがさがさの手の平が降ってきてヒカルは髪の毛をくしゃくしゃに掴まれた。
「してやられたのか、ヒカル」
「……アレックスさん」
見上げると薄いオレンジ色のつなぎを着て、汚れたタオルを首に下げているアレックスが笑いながら立っていた。左手には大きな工具箱と腰のベルトにはスパナなどが無数にぶら下がっている。
「ジャン氏は今日も元気そうだな」
「ええ元気すぎるくらいです。あんな元気な人だとは全然思ってませんでした」
毒を吐くヒカルに苦笑して、アレックスは壁に寄り掛かった。
「そういやファンとか言っていたものな」
「ええ、というかどこのポリスにも彼のファンじゃない人なんてほとんどいないでしょ」
それだけの偉業を成し遂げた人だ。今自分達が生きているこの時代の半分はジャン・ウェインが作りだしたといっても過言ではないのだから。
そう信じて止まないヒカルだったが、アレックスは肩をすくめるだけだ。
「今までヒカルが想像していたジャンの半分は自分が作り出してたってことだ。良かったじゃないか、現実の彼を知ることができて」
「こんなことなら知らないほうが良かった」
ぐったりと大げさに肩を落とすヒカルの背中を強く叩き、アレックスは大きく声を出して笑う。
「言ってやるなよ。ほら、マイリーが呼んでたぞ、行ってこい。じいさんのことは俺が見てるから」
はーい。気のない返事をしながら歩こうとしたヒカルの耳元で、低く唸るような声が一瞬したが、ヒカルは振り返ることができなかった。
「知ってしまったらもう戻れない……そうだよな?」
その声の正体を知ってしまったら、何かが壊れてしまう。
そんな予感がしていたから。