ACT.1 忘れもの
足元にある黒ずんだ船外活動服を横目に見ながら梯子を上り、暗く狭いコックピットに到着すると、フロアの大半を占拠する画面に向かってマイリーが何かを喋っていた。
気配を察したのか、頭半分を上に出して梯子に足をかけたまま様子を伺っていたヒカルにマイリーはちょいちょいと振り向かずに手招きし、それにつられるようにヒカルはやっと這い出てくる。
「その方がそうですか」
「ああ、名前は藤堂ヒカルで出身は西壁だ。トンネルが開通するまで身柄を保護しとこうと思ってな」
「身柄を保護ですか、ただ働き手が欲しいだけなのでは」
モニター越しに冷めた視線を送ってくる色素の薄い髪を後ろで束ねている少女は、歳もヒカルとそう離れてなさそうで、緑に近い瞳の色と白い肌はまるで人形のようだ。
「ヒカル紹介するよ。キマンダの対外オペレーターのヒルコだ。キマンダはうちのお得意様なんだよ」
「よ、よろしくお願いします」
頭を下げたヒカルだったが、返事は返ってこず少し不思議に思いながら頭を上げると少女の視線はもうマイリーに向けられていた。早い話、相手にされなかったのだ。
「マイリー・サイラス船長報告はこれだけですか」
「いや、あともう一つ。どっちかっていうとこっちの方が重要だ」
どうせジャンとは格が違いますよ。と頭の中で呟いたヒカルを余所に、二人は真剣な表情をして話し込んでいる。
「ヒルコ、ジャン・ウェインが失踪したって情報知ってるか」
「ええ捜索願いが地上向けに出されたようです。どうやら船を一つポリスから持ち出して地上へ出たらしいです。なんとも元気な御方ですね」
手元に置いてあった紙を片手で拾い上げて読むヒルコは、チラリと視線だけをマイリーに向けた。
「まさか、拾ったのですか」
ヒルコの視線は委縮するほど鋭いが、当のマイリーは参った参ったと頭を掻いていて怯む様子はない。
「うちの清掃人が拾って来てさ、ほらこいつと同じ感じに」
マイリーの笑い声と、ヒルコのため息が同時に耳に入りヒカルは自分はどうすればいいのかただ戸惑って、困ったようにマイリーを見た。
「さすがに著名人を黙って預かっとくわけにはいかないだろ。よかったら引き取ってもらおうかと思ってさ、うまくすればそっちの手柄になるかもしれないよ」
世界中のポリスの住人に知られていて英雄扱いされている彼を保護したというニュースは瞬く間に世界を駆け巡るだろう。そしてキマンダと言えば大手中の大手で知られている企業の一つだ。彼がイメージアップに物足りない材料。ということにはならないだろう。
「いつもいつも面倒事ばかり拾って来てあなたたちは……」
「おいおいちゃんと仕事もしてるだろ」
「上に連絡しておきます。ついでにそこの少年も」
「ありがとう、助かる」
もし彼女の上司が自分に同情してくれて、ジョン・リック・クリーナーズに代わって保護してくれると言ってくれればこれほどありがたいことはない。キマンダは優良企業で大手だしこんな不当な扱いはきっとしないだろう。
どうかいい人であるようにと祈るヒカルに、とんでもない言葉が飛び込んできた。
「ジャン氏の体調には細心の注意を払っていて下さい。彼、余命半年らしいですから」
会って間もない彼女の言葉が、ずしんとヒカルの心の奥に鈍い衝撃を与えた。あまりのことに、ヒカルは呆然とモニターを見やる。
「やっぱあの噂は本当だったのか。ガンだっけか」
「ええよくあの体で外に上がってこれたものです」
すぐ傍で交わされる二人のやりとりも、どこかずっと遠くで行われているかのように曖昧にしか聞き取れない。英雄の命の灯があと僅かしか残されていないなんて、到底信じられなかった。
だからだろうか、マイリーに頭を叩かれるまでヒカルは半ば放心状態で真っ黒なモニターにかつての英雄の影を探していた。目覚めた時にはもう何も見えなかったのだが。
先ほどののやりとりを三人にも伝えるよう言われて、肩を落としながら寝室の自動ドアの前に立った瞬間、正面からの強い力で体思い切り突き飛ばされてドアの向かい側にある壁に背中からぶつかる。
その拍子に熱々の蒸気がパイプから吹き出し、ヒカルは情けない悲鳴を上げた。
「痛ってー。ぼさっと立ってんじゃねえよヒカル」
「うるさいあんたがいきなり出てきたのが悪いんじゃないか」
前で頭を抱えて尻もちを付いているリュウゾウは相変わらず口が悪い。他の面々の前では大人しくしているヒカルも、このリュウゾウには敵意がむき出しになってしまうのだ。
「何急いでたんですか」
「あっそうだ。お前も手伝え、じいさんが起きたと思ったら暴れ始めたんだ」
肩越しに部屋の中を覗き込むと元々散らかっていた部屋なのだが見るも一目見て分かるくらい、余計にめちゃくちゃになっている光景が広がっていた。
カーテンは千切られ床に転がり、ベッドの布団は半分床に落ちかけている。部屋の中心にはカーテンを踏みつけ、吠えるジャンを必死に抑えるアレックスとカナメの姿がある。
「離せ! わしは行かんと行けんのだ。わししかおらんだ!」
喚く老人の口からは泡沫が飛び散る。
「あのじいさん錯乱してるんだ。ほらさっさと布団に押し込むから手伝え」
言うや否やリュウゾウは駆けだす。ヒカルも後に続いて、部屋の中に飛び込んだ。
ようやくジャンが落ち着いたのは、ヒカルの頬を三回ほど平手打ちしリュウゾウの腹に拳を二発程度打ち込んだ後だった。体力を使い果たしたのか、ぐったりとベッドに横たわる老人を恨めしそうに睨みつけ、リュウゾウはみぞおちをさすって自分のベッドに腰掛ける。
「やっと静かになったか。くっそめちゃくちゃ痛いぞ」
「僕も傷口をもろぶたれました」
愚痴る二人をカナメは面白そうに見て、くすりと笑う。
「でもジャンさんは紳士だね。女と老人には手を上げなかったし」
「誰が老人だ。俺はまだ五十過ぎだぞ、それにしても元気すぎるな地上に出してても簡単に死にそうにない」
アレックスの言葉に、ヒカルはようやく三人に会いにきた理由を思い出し、ヒルコとマイリーのやりとりをかいつまんで説明した。全てを聞いた後一番に反応したのはリュウゾウだった。
「ヒルコか。イリアじゃなくてよかったぜ、またヒステリックな声聞かねえといけなかったからな」
「ヒルコさんだけじゃないんですか、キマンダのオペレーターって」
「ヒルコと双子の妹がいてな。性格は似てないが外見はそっくりだ」
そんなことより。とリュウゾウは立ち上がり、つなぎのズボンのポケットに手を突っ込んだままジャンの顔を覗き込む。
「さっきの本当なんだろうな。このじいさん余命半年って全然見えないぞ。さっきも気が済むまで暴れてくれた――」
突然リュウゾウの声が消え、代わりにゴンッという鈍い音が狭い部屋に響いた。
リュウゾウは額を抱えて尻もちをつき、彼を突いた本人はゆっくりとベッドから腰を持ち上げる。一瞬の出来事に一同はポカンと口を開け、部屋の中は静寂に包まれた。
「黙って聞いていれば人のことをミソッカスに言ってくれおって。いくら温厚な儂とはいえ我慢出来んぞ」
「だ、誰が温厚だと。ていうか目ぇ覚ましてるんならさっさと起き上がれっての」
ギロリと鋭い目を剥くジャンに負けじとリュウゾウは言い返すが、まだ額が痛むのか情けない姿を晒したままだ。
「で、ここはどこだ」
スーツの下に着る分厚いつなぎの服を脱ぎながらジャンは傍らにいるアレックスに尋ねた。
「ここはPOCK10、メイフラワーの船内で地域でいうとアメリカ大陸の端っこだ。旧メキシコ領内っていうとわかりやすいか」
「なるほど旧型清掃船か。道理でおんぼろなわけだ」
剃り上げた頭を掻きながらジャンは胡坐をかく。挑発でもバカにしているわけでもなく、ただ素直に感想を述べただけなのだろう。ヒカルもジャンと全く同じ感想を目覚めた瞬時に持ったのだから。
「じゃあ儂をさっさと下ろしてもらおうか。これ以上時間を無駄には出来んのでな」
「わかってないな。ジャンさんあんた死にかけてたんだぞ」
アレックスがなんとか頑固な老人をなだめようとするが、ジャンは聞く耳を持とうとしない。
「儂はやらんとならんことがあるんだ。こんなところで道草食っとる場合じゃない」
ジャンが幾度も呟く言葉の意味を、まだ彼らが知る余地などあるわけがなかった。