ACT.0 地上の遭難者
視界がぼやける。耳の奥が酷く痛い。四肢が重い。鼻骨がジンジンと痛む。頬にできた擦り傷が邪魔になる。
瞳を開いた瞬間、全身から発せられる無言の抗議にヒカルは顔をしかめた。抗議する部分を一つづつ触ってようやく、ヒカルは自分が硬いベッドに寝かされていることに気がついた。
二段ベッドの一段目なのだろう。低い天井と緑色のカーテンを引かれて、外とは完全に隔離されている。仰向けになると、今旬のアイドルの壁紙が貼ってある天井が視界いっぱいに広がりヒカルは驚いて飛び起きアイドルの腹辺りに頭突きをかまし、頭を押さえた。
涙目になりながらも、ヒカルは呟く。
「僕は生きているのか」
この全身の痛みもさっき打った頭の痛みも、きっと生きている証拠だろう。
生を実感したとたんヒカルの思考は生きている喜びよりも、なぜ生きているのかという方向に疑問を感じ、ここはどこなのか。という当たり前の疑問につながるのも時間の問題だった。
重い腕を伸ばしてカーテンを開くと、前方に同じような二段ベッドと散らかった床が姿を現した。
細長い部屋の両側の壁にベッドが置かれているのだ狭いのも当然だが、床に散らかった大人向けの雑誌はヒカルの目には毒で、ふいと目を逸らし分厚いドアの前に歩いて行った。
一応自動ドアらしくシュッという音と共にドアは姿を消し代わりに、これまた細長い廊下が現れる。
恐る恐る顔を出して辺りを伺うが、重厚な機械音と水の滴り落ちる音以外は何も聞こえないしなにもいない。唾を飲み込み、一歩外に出てみる。
天井にも床にも何本ものパイプが通じていて、自分が出てきた部屋の他にも2、3室のそれらしきドアが見られた。
立ち尽くしたままぐるぐると廊下を眺めていると、突き当りのドアの向こうから何やら人の声と、ドアの下から光が漏れていることに気がつきヒカルはふらふらとロウソクの光に寄せられる羽虫のようにドアの前に立った。ドアは先ほどと同じように、少し間をおいて姿を消した。
その瞬間ドアの向こうから非常に暴力的な声量が光景が、ヒカルの鼓膜に飛び込んできた。
「ふざけンな。事件に巻き込まれたってのに即仕事ってのは堪えられても、報酬がこれっぽっちってのは我慢できん、俺達上半期は優秀成績だったじゃねえか!」
部屋の中央にある椅子から立ち上がって男が一人吠えていた。血管をこめかみに浮かびあがらせていて、手には給与明細らしき紙が握られている。
「俺は何を我慢して地下に潜ってたんだよ。特別給与が出るから頑張ったってのに!」
「残念ですねリュウゾウ先輩。特別給与はそこそこありますけど、先輩手続き間違ってましたよ。多分そこに付け込まれたんじゃないんですか」
上はそういうの厳しいですからねぇ。と男の向かい側に座る女性はくしゃくしゃになった明細と、自分のを見比べて面白そうに笑う。
「……月城、お前気づいてたのか?」
「いやぁでも先輩に聞かれなかったし、って痛いですよ!」
こめかみに浮かぶ血管の数を増やしながら、リュウゾウと呼ばれた男はボールペンで思い切り女性をデコピンし、女性はおでこを押さえながら机に突っ伏す。
「マイリー、なんとかならなねえか。俺今月ほんとにヤバいんだよ」
月城という女性をノックアウトしたリュウゾウは、上に向かって嘆願する。
この部屋はヒカルが目覚めた場所と比べると少し広いくらいの大きさだが、ロフトのように上にもフロアがあるらしくその奥から女性の声が聞こえてきた。
「知らないね。なんとかそれでやりくりしな、それよりもいつまでも下でギャーギャー騒ぐなっての。アレックスはもうとっくに寝たってのに」
「アレックスはもう歳だからな。誰よりも早く寝て誰よりも早く起きます――」
「ほほう、いい度胸だなリュウゾウ」
机に座り頬杖をついて軽口を叩いたリュウゾウだったが、マイリーと呼ばれた女性と同じ上の階から野太い声が聞こえ冷や汗を垂らす。
「ア、アレックス起きてたのか」
「そうだな俺は歳だから当直もきつくてなぁ。こういうのって若いやつが働くべきだ。そうだよなリュウ」
「じょ、冗談きついぜ」
一歩引くリュウゾウを見て、アレックスの快活な笑い声が部屋を包んだとき、ふとマイリーがほがらかな声で下の二人に声をかけた。
「ほらお客さんが困ってるみたいだ。リュウゾウにカナメ、よろしく頼むよ」
同時に四つの視線がヒカルに向けられ、ヒカルは気まずそうに頭を垂れた。
あっ目が覚めたんだね。とにこやかに迎えた月城という女性と対照的に、リュウゾウと呼ばれていた男はむすっとして見向きもしない。
「狭いだろうけどくつろいでって。あ、ここに座って」
「え、いやでも――」
「いいからいいから」
しどろもどろになるヒカルの手を引っ張って月城は自分の席を譲り、戸惑うヒカルの目の前で中腰になる。
鉄製のごつごつした椅子が同じ材質の机に2つくっついていて、1つはヒカルが座り向かい側には男の背中がこちらを向いている。
「じゃ自己紹介しようか。私は月城カナメ20歳、で向こうでむくれてるのが満井リュウゾウ先輩。先輩いま何歳でしたっけ」
リュウゾウは無視を決め込んでいるのか、こちらに背を向けたままぴくりとも動かない。沈黙を嫌って、ヒカルは慌てて口を開いた。
「藤堂ヒカルです! 助けてくださりありがとうございます!」
大きな声が缶詰のような部屋の壁や床を転がって、低い機械音に消えていった。
「やっぱ日本人か。日本人ってこんなに数多かったっけ」
大柄な男がロフトのような所からにょっきりと這い出てヒカルを見下ろした。スキンヘッドの肌の黒い男で一見いかつい容姿だが、瞳は柔らかく澄んでいる。
「俺はアレックス・モールトン副船長だ。んで今運転してんのが船長のマイリー・サイラス。よろしくな」
「は、はい。よろしくお願いします!」
「そんなかしこまるなって。何カ月もそんなのだともたないぜ」
え? とヒカルは目を開いてアレックスを見る。瞳の中の戸惑いと驚きを見てアレックスは肩をすくめると、机に腰を下ろしている月城に話を丸投げした。
「カナメ、あとは頼む。俺はもう歳だから眠くてたまらん」
「えー……了解っす」
文句を言おうとするが、アレックスが一睨み聞かせると渋々ヒカルの方に視線を向き替える。
「じゃあよく聞いてねヒカルくん。キミにとってすごく大切なことだから」
内心聞きたくないと思いながらも、ヒカルは小さく頷いた。
どこから話せばいいのかな。と月城は口に軽く人差し指を添えて上を向く。
東洋人らしく小柄な体に短く切りそろえた髪と目が大きく、まだ学生と偽っても十分通じるほど月城カナメの容姿は若々しくそこにヒカルが想像していたような、地上で暮らしている疲労や病的なものは感じられなかった。
「ケリー・ブルー・テリアにヒカルくん乗っていたよね」
「はい」
「あの連絡船テロにあったの。エンジン部分に爆発物が仕掛けられてたらしくてね、それ自体は大した威力じゃなかったのだけどエンジンの火種に引火しちゃって、駅に着く前に地上の土砂や破片がトンネルの入り口を塞いじゃったの」
『駅』とは地下トンネルからやってきた連絡船を月のポリスへと続く空中トンネルへ路線変更させる転轍機のある場所のことだ。駅自体は地上から数メートル空中にあるのでおそらくそこに着く直前に爆発したのだろう。
「それで……言いにくいんだけど多分地上に落っこちちゃったのはヒカルくんともう一人の女の子だけなの。エンジンは船の一番後ろにあるでしょ、火種に引火したといっても後方部分が壊れただけで、船自体は駅に無事に着いたのただ――」
「一番後ろに座ってた僕らは巻き込まれてしまった」
「そういうこと」
あの時、人の影が見えなかったのは地上に二人以外誰も爆発に巻き込まれていなかったから。思い出してみると、確かに燃えていた船体も船尾のほうだったような気もする。
なんとも単純で不運な事実に、ヒカルは全身の力が抜けがっくりと肩を落とした。
なんてことはない。要はあのまま廃墟の街を目指すよりも「駅」を探すか、このひと達のような救助隊を大人しく待っていればよかったのだ。
すべてが裏目に出てしまったことを知り、ヒカルは力なく俯いた。
月城はヒカルの様子に気づき肩をすくめる。
「ところで同伴してた女の子はどこに行っちゃったの? 藤堂くん一人であそこに倒れてたけど」
ガタンッと重たい椅子を倒してヒカルは勢いよく立ちあがった。
思い出せる機会はいくらでもあったのに、目覚めてから彼女の存在を完全に忘れていたのだ。
「ここにはいないんですか」
「うん。さっきも言ったけど私たちが見つけたのは君だけだよ」
ここにいない。しかもこの人達でもわからないことが、ヒカルにわかるわけがない。
「先に他の方に救助されました。なんか僕は見捨てられましたけど」
ヒカルの言葉に黙ったまま満井が眉をしかめる。
「なんか引っ掛かりますよね先輩」
「知るか。そんなことより坊主、お前これから最低でも半年はこの中で生活するんだ。お前のくだらねぇ考えをさっさと変えないと外にほっぽり出すからな」
びしっとごつごつした指をヒカルに向けて、なんの前置きもなく満井は鼻息荒く言い放った。当然のことだがヒカルにはなぜ目の前の男が始終不機嫌なのかさえ、知るすべはなく救いを求めて月城に視線を向けた。
「忘れていそうだから言うけど私たち最近出会ったあるんだよ」
言われて、ヒカルは腰に手を当てて苦笑する月城と、相変わらず不貞腐れた様子の満井を交互に眺めあっと声を上げる。
「ケリー・ブルー・テリアの君たちの前に乗ってたんだ」
そうだあのおかしな行動をしていた東洋人だ。ヒカルはまぶたをしばたたかせて確認した。
本当になぜ思い出せなかったのだろうか。
「もう一つ、ヒカルくんは多分私たちを救助隊か何かだと勘違いしてるかもしれないけど、違うよ」
もったいぶって単語と単語の間を取りながら月城は笑って言った。
「私たちは清掃屋『ジョン・リック・クリーナーズ』、これから少しの間私たちの仕事を手伝ってもらうからね藤堂ヒカルくん」
数秒後にヒカルを襲っためまいの正体は、疲労でも地上にいる影響でもなく現実を受け入れたくない脳みその必死の抵抗だったのだろう。
もしくは自分の言っていた正真正銘の彼らの悪口を聞かれていた。という事実からなのかもしれない。
とにかく、翌日から宿代分きっちりとヒカルはこの「ジョン・リック・クリーナーズ」の面々にこき使われることとなるのだった。