ACT.0 地上の遭難者
胸を鈍器で思い切り殴打されたような痛みに、ヒカルは一瞬息をするのをためらった。痛みに耐えながらうっすらときつく閉じたまぶたを開く。
視界が真っ白に染まった後見えたのは生まれて初めて見る青い空、そのすぐ後に視界に入ってきたのは青い空に立ち上る真っ黒な煙だった。
「何が起きたんだ」
胸を押さえながらヒカルは立ち上がる。
丘陵地帯なのだろう、緑色の草が見渡す限り広がっている。そしてすぐ近くに惨状と絶望的な光景が横たわっていた。
連絡船が通っていた天までのびる灰色のトンネルは途中で大破し、爆発した連絡船は無残にも原形を残していなかった。炎と黒煙に包まれた光景は、今ここいる場所にはとてもじゃないが似つかわしくはない。
恐る恐るヒカルは連絡船に近づく。一歩づつ歩を進めるたびに、きつくなる熱と鼻をつく臭いに思わず顔をしかめる。
無骨な船という名の乗り物の外装は吹き飛び、僅かに残った船内からは煌々と炎が外に向かって噴き出している。中にいる人はどうなったのか考えようとして、ヒカルは慌てて頭を振って思考をかき消す。考えたくなかったし、考えたところでどうしようもないと諦めも半分入っていた。
誰か生存者は――。
その場に突っ立ったまま目を凝らして辺りに散らばっている破片らを見つめる。大半はどうしようもなく破損した船体の一部だったが、そのなかに見覚えのあるものを発見した瞬間、全身の力が一気に抜けヒカルの腕はだらりと垂れ下がる。
数ある破片の中でひときわ大きく目立つ黒こげの車輪。その下から伸びる腕に巻かれているものは、ついさっき自分がはめたものではないだろうか。あの白い腕はついさっきまで横にいた友達のものではないだろうか。
異様な寒気が全身を襲ったあと訪れたのは、我を忘れるほどの焦燥感だった。
「アンナ!」
叫ぶと共にヒカルは地面を蹴った。
車輪に踏みつぶされているのかと思いきや、ちょうどいい具合に大きな亀裂の入ったその隙間に、アンナの細い体が挟まっていた。だがこのままではいつ崩れるかわからない。
五トン程度の中型サイズの連絡船とはいえ、宇宙まで垂直にレールを辿っていく無骨な車両を支えていた鋼鉄の車輪は重くて巨大だ。たとえ一部だけでも人の体はたちまちぺしゃんこになってしまうだろう。
アンナの両腕をしっかりと握り、慎重にヒカルは自分の側に引き寄せる。細い割には意外とアンナの体は動かない。
唾を飲み込んで両手に力を込める。その際に音にならない脈が指を伝わって、ヒカルはほっとして再び作業に移る。
今度は比較的簡単にずるずるとアンナの上半身が車輪から外に引き出すことに成功した。仰向けに目を瞑っているアンナの顔は驚くほど白い。
「アンナ大丈夫か!」
頬を軽く叩くが、反応はない。
なんとか下半身も引き出すことができ、ヒカルは安堵の息を吐いた。
アンナのトレードマークの青い動きやすそうなジーパンは数か所破れて、顔にも幾つか擦り傷があるが目立った外傷はない。
緊張の糸が切れて地面にぺたんと座りこんだヒカルはぼんやりと辺りを見回した。そして不思議なことに気がつく。
人がいないのだ。
生存者も死者もいない。がれきの山に埋まっている可能性もあるがそれにしたって約100名近くが乗っていたのに一人もいないなんて少しおかしい。
「あと3時間でパルスが発生致します。お客様方は万が一の為に窓際のボタンを押して遮光シートを下ろしてください。後に車掌がチェックに回ります」
突然女性の声が辺りに響いた。驚いて声の方を振り向くと、座席についているスピーカーがまだ生きているらしくまた、女性の声を録音している機械も都合良く壊れてはいないらしい。
そう言えば人件費削減との名目で、中型以下の連絡船には運転手と車掌二人しかいない。予告された時間にでも流れるように設定されていたのだろう。
しばらくぼんやりと繰り返される言葉を聞いていたヒカルだったが、慌ててアンナの腕についていた時計を見た。
今は3時過ぎ、これから3時間ということは大体日没間近にパルスが発生することになる。
さっとヒカルの背に冷たい汗が流れた。
3時間。これがヒカルとアンナに残されたこの地上で生きることの出来る時間。この時間を境にこの緑豊かな大地は一瞬にして地獄に変わる。
「ちくしょう」
ヒカルは歯を食いしばり地面を殴った。
そしてアンナを背中におぶって立ち上がる。顔には狂ったような表情が浮かんでいる。
「死んでたまるか。こんなとこで死んでたまるかよ!」
憎き大地と太陽にそう吐き捨てた後、ヒカルは我を忘れたように丘を下って行った。
勢いよくその場を駆けだしたヒカルだが、ただ闇雲に走っているわけではなかった。遠くに霞む何かの物体をその瞳にしっかりと捉えていたのだ。
丘の向こうに遠くに見えるそれは、間違いなくヒカルにとって最初で最後の希望だ。
この地上は、人間が生きることを諦めた土地だ。だが人が全くいなくなったわけではなく、少数ながらもそこに居る人間もいる。
その代表格が清掃者と呼ばれるパルスによって汚染された大地を浄化する作業を糧として生きる人々だ。
彼らは地上再進出を狙う大企業の末端組織、ポリスに直接属する公務員、また自立した企業などいろいろあるが総じてこの地上を絶え間なく移動している。
限られた期間ではあるが、彼らに出会えれば救いの手を求めることもできる。また、もしかしたら捜索隊や救助隊も地上に派遣されるかもしれない。そうなると何の目印もない場所にいるより、今目指している場所のような遠まきからでも見える場所にいる方が良いのではないか。ヒカルはそう考えていたのだ。
もちろん現場に残っているのが一番良いのだろうが、そうもいかない。少しでも長く生きたいのなら、身を隠す場所のない事故現場は条件が良いとは言えないから。
「違うな」
頬を伝った汗が口の中に入り、舌を出して唇を軽く舐めながらヒカルは呟く。
いろいろ理由を付けているが結局自分はあそこにいるのが怖いのだ。だから背を向けて逃げている。
いつものことだ。
頭の中で自嘲してヒカルは、立ち止まってアンナを背負い直し前を向いた。生まれて初めて感じる本物の風が頬を撫でて、頬に張り付いた髪がほんの僅かにたなびく。
これからの自分たちの未来が頭によぎり、ヒカルはほんの少しだけ俯いた後、再び歩を進め始めた。