第1章「覚醒」-----1
壁一面を支配する巨大な窓の向こうには緑が生い茂り、耳をすませばその合間を縫って流れる水のささやきが聞こえてくるようだ。
都市ハバロフの一角、三万人弱の睡眠者の意識の上に構築された都市セトアの中で、青年は壁に向き合い、外の風景を眺めていた。夢の病巣の有無を確かめることと、訓練を目的にこの夢の都市に同調してすでに二ヶ月。見慣れた風景は美しい。地上の楽園と呼んでも過言ではないだろう。
セトアは美しく平和な都市で、政は《川辺館》と異称される館の主に一任されていた。異称の理由は、広大な館の背後を流れる清冽な川にある。川は西から東に街を横断していた。
青年の向いている方向、川辺館の東側には緑に覆われた庭がある。その向こうには、公園が広がっているはずだった。庭には川辺館の裏手の川から引き込まれた水が流れ、川辺館から一歩外へ出たならば、絶えず流れる美しい水のささやきを聞くことができる。
無論、空間を完全に遮断する透明の壁のおかげで、この館の中にあって水のささやきを聞くことなど、己の枠を越えぬ幻想に過ぎなかった。だが人の意識は時として、ありもせぬ幻をとらえ、伝達する。そして空想は、幻を現実により近づける力を持っていた。だからこそ人類はまたとない発展を遂げたと言ったのは誰だったか。
力強い壁の内側、青年の後方では、柔らかいソファに体を沈めた少女が白昼夢をみるようにぼんやりとした視線を緑に向けていた。先ほどから、ほとんど瞬きをしていない。やがて水の力によって動作するしかけの時計が午前と午後の分かれ目を告げると、少女はゆっくりと瞼を伏せた。
「あなたたちは」
開く直前のつぼみのようにかわいらしい唇と瞼をほとんど同時に開いて、少女はささやくように声を発する。
話しかける声を風の音のように聞き流して、青年は緑の向こうにある公園に意識を馳せていた。
「心身のすべてを政府に捧げていながら、政府を批判しないというわけではないのね。……とても不思議」
青年は瞼を伏せ、淡々と流れる少女の声を聞く。声が途切れても、振り返ろうとはしなかった。
「盲目的になれるほど、情報が限られているというわけではありませんよ」
心の目を凝らしさえすれば、向き直るまでもなく背後のようすを網膜の裏にとらえることができる。そうやって作られた青年の第二の視界で、ソファの上に上半身を起こし、少女は穏やかにほほえんでいた。
「直轄地の外で暮らす人々は、限られた情報を鵜呑みにして政府を信奉していますがね……。それを言うなら、あなたのこの都市だって」
せりふの途中で青年は瞼を開き、くるりと体の向きを変える。
「あら」
少女は口もとに手をやって、くすくすと笑った。
「わたしは何も隠しごとなどしていないわ。それにこの世界は、そんなことができないしくみになっているのよ」
せりふの途中で、少女はソファに上げていた両足をそろえて下ろす。体の前に流れる白金の長い髪を両手で背中側に流した時、その髪にほのかな輝きが宿ったような気がして青年は瞬いた。
顔を上げた少女の薄青の瞳は、丁寧に磨かれた宝石のように輝いている。白い頬の側を流れる髪は癖のない白金の糸のようで、柔らかな表情に調和していた。美しい。
「ここはこの街に暮らす皆の心の奥に存在する世界。心をごまかすことはできないの。だから嘘などつけるはずもない」
ほほえみながら、少女は断言した。
青年は返事をせず、代わりに小さく息を吐いて背後の透明な壁にもたれる。壁はひやりとして、気持ちがよかった。そういうものだと誰もが認識しているからだ。
「あなたたちはそう、鍵のようなものね。最初からそうあれと定められているのか、それとも望んでそうなるのか……」
青年は瞼を伏せ、ささやくような少女の声を耳にとらえたが、反応は薄い笑みを返すだけにとどめる。
「あなたたちの世界で、あなたたちはなんて呼ばれるの。結局、そういうことについては何も教えてくれないのね」
冷凍睡眠によって現実世界から切り離され、およそ百年の後まではこの夢の世界に生きることになる少女は、現実の世界を遠い異世界のように呼んだ。そういう認識はあながち間違いではないのかもしれない、と青年は思う。ここは人々の無意識が作り出すおよそ現実とはかけ離れた架空の空間、集積した精神世界の一地点だ。現実の世界は、明らかにこの外側に位置している。