序章「街」------5
「ボウは慣れてるかもしれないけど、わたし、こんなに寝てばかりいるの久しぶりだよ。おかげで夢見が悪くてさ。これから少尉のところで寝直すんだ」
「ああ」
つい先ほど不自然に切ったせりふを、ユウリができるだけさりげなくつないだことにハロルドは気づかなかったようなふりをした。本来の階級でも名前でもなくユウリが《少尉》と呼ぶ相手が八歳年上の元養父であることは、この小都市の中では常識と言い換えることができるほど知られた話だ。
「じゃ、ユウリ。頼んでもかまいませんか? ダグラス・リウィウス《少尉》に」
上官の愛称を強調して笑い、ハロルドは一枚のデータディスクをユウリに差し出した。反射的にユウリは手を出しかける。
「ナンバー十三、都市アルダンの夢のデータです。発表は三日後の予定ですが、あなたにはその限りではないと上層部が判断しました。ただし、少佐を通じてという条件がついていますが」
上がりかけたユウリの手が、中途半端な位置で止まっていた。ハロルドは声もなく笑みを作り、動かないユウリの手をそっと両手で包む。
手を離した時には、ディスクはユウリの手の中にあった。ユウリの視線は軽いディスクの上に落ちる。
「では、ユウリ。よい夢を」
返事を待ちもせずにハロルドは歩き出し、すれ違いざまにユウリの肩を軽く叩いていった。
残されたユウリは掌に乗った小さなディスクをまじまじと見つめ、肩越しに後ろを振り返る。ハロルドは歩調を緩めることなく、住居区に向かって歩いていった。
正面に向き直ると、ユウリはごくりと喉を鳴らす。視線を上げると、目の前には巨大なセンターがそびえていた。この中にあの街はある──都市アルダン。はるか昔は鉱山都市であったという街にちなんでつけられたブロックの名。あの無慈悲な青いタイルの街。
ディスクの角を額に当て、ユウリは唇を歪めた。よい夢を──よい夢を。ハロルドのみならず、この小都市のすべての政府関係者はユウリの都市アルダンでの体験を承知している。ダグラスにこれを渡すならば直接居宅に向かえばいいものを、ハロルドはわざわざわたしに渡して去った。ならばわたしは、あの明晰夢から逃れる方法をこのディスクに期待してもいいのだろうか? 軽口を叩いてばかりだったハロルドの姿を追って、ユウリはもう一度後ろを振り返る。
ハロルドの姿は、すでに路地から消えていた。どこかの角を折れ、奥まった部屋へと向かったのだろう。
伸ばしたまま固まった手を包み込んだハロルドの手の温もりを思い出して、ユウリはきつく唇を結んだ。誰彼かまわず重苦しい気持ちを吐露するのはやめようと思っても、皆がちゃんと知っている、守っていてくれる。だからわたしは、自分自身の意思でもって、あの不愉快な明晰夢から逃れる方法を探さなくてはならない。
大きく息を吸うと、ユウリは通路を歩き始めた。
巨大な建造物のすぐ脇を通り抜ける。ダグラスの居宅はこの向こう、建造物の出入り口から徒歩五分ほどのところにある。
ハロルドと別れた後、ダグラスの居宅に至るまでの通路では誰にも出会わなかった。ユウリをとり巻く空気はしんと静まり、人の気配は感じられない。おかげでユウリは、五分少々の道のりで落ち着きを取り戻すことができた。人に余計な心配をかけるのは得策ではないし、そういう趣味があるわけでもない。周囲の皆に気遣われている自覚があればこそ、それに甘えてばかりいてはいけない、とユウリは思う。
「少尉? 今着いたよ」
ダグラスの居宅にたどり着くと、ユウリは玄関先の通話機に向かって声を投げた。次いで、返事を待ちもせずにカード型の鍵を扉の脇のポケットに差し込み、玄関をくぐる。個人用の部屋を別の場所に与えられてなお、幼い頃を過ごしたダグラスの居宅はユウリにとって第二の部屋であり続けていた。ダグラスはそれを承知していて、そのように出入りすることを当然のものと受け止めてくれている。
立ち話をしていた分、遅くなったことを詫びる前に、ユウリは玄関ホールにまで漂う匂いに気がついた。ダグラスの帰りを待つかたわら、ユウリが作っておいた料理を温めているのだろう。腹が減った、遅いと言われるかもしれない。それともそう早く来ることはないと踏んで仕事を広げているだろうか、ふたり分の料理を温めながら?
顔を合わせたら、さて、何を言われるだろうと想像しながら、詫びのことばは後にとっておくことにしてユウリは部屋に上がった。表情には、温かな匂いにつられて笑みが浮かんでいた。