序章「街」------4
割り当てられたコンパートメント型の部屋を出、丸いドームの天井を仰ぐと、そこには数百年前の空を思わせる星の輝きがあった。ドーム型の小都市は汚染された環境から人を守る強固な鎧だが、その存在を意識したがる住人は少ない。月のない夜が訪れてさえ、本物の星のほとんどは舞い上がった粉塵に隠れて姿を現さないのに、このドームでは弱々しい光源が彼らの代役を務めていた。小都市の夜は闇の侵食さえ跳ね除ける鎧に包まれ、その内側はほのかに明るい。
本物には決してなり得ない星を見上げることにはすぐに飽きて、部屋部屋の前を走る通路にユウリは足を踏み出した。真夜中の住居区はしんと静まり返っているが、夢の中の無慈悲な通路とは違って、慣れたこの通路には不思議な安堵が満ちている。住人のほとんどが顔見知りであるが故の安堵も、中には混じっているのかもしれない。
少し低めの気温が肌に心地よかった。ドームの外は冬のただ中にあって、センターの発表によれば、大地は霜に覆われて沈黙しているようだ。降雪こそ見られなかったが、防寒具もなしに歩き回れるような気温ではないようだった。
ドーム都市の中では季節はセンターの観測によって伝えられるだけで、その中に暮らす人々には何の実感も与えないままドームの外を過ぎていった。人類を守る巨大な甲羅の中に、はっきりとした四季はない。あるのは人を不快にさせない程度の気温と湿度の調整だけだ。水の循環は雨によらない。
可能ならば一度、ドームの外で肌に自然を感じて暮らしてみたいものだとユウリは思っていた。政府の庇護を受けることができず、厳しい環境を生き抜かなければならない人々には失笑されるだけの望みだろうか。好奇心だけを支えに先走ったなら、誰に何を言われてもしかたがあるまい、という自覚がユウリにはあった。だがこれは、好奇と言うより憧れだ。ドームの中にはドームの中の充足があるように、ドームの外にはドームの外の充足があるに違いないと思う。
部屋を出て十分ほども歩くと、ドームの天井まで届きそうな巨大な建造物が姿を現した。近づくにつれ視界を徐々に侵食し、やがて視界には収まりきらなくなったその建造物は通称を《センター》という。ドームの八割方の面積を占めるセンターは、この街に暮らすほぼ十割の人々の仕事場でもあった。ユウリにとっては、仕事場であると同時に、幼い頃から行きつけている場所でもある。
特になんの理由もなく歩調を緩めかけた時、前方に人影があることにユウリは気がついた。センターを出てきたばかりなのだろうか、足を止めて偽りの夜空を見上げている。首を回し、歩き出しかけたところで、彼はユウリの姿に気づいたようだった。
「やあ、散歩ですか、ユウリ」
のんきに声をかけてくるのは相手の方が早かった。何気ない挨拶にユウリは表情を緩める。軽く首を振ると、ユウリは己の身長分ほどの距離を置いて相手と向かい合った。
「そういうわけじゃないけど、ちょっとね。ハロ、あなたは?」
「僕は仕事帰りです。──ははあ、確か少佐が少し前に帰宅されましたね」
言われてみれば、なるほど、彼は小脇に数冊のファイルを抱えていた。仕事帰りとは言うものの、住居区へ帰ってからも書類を広げるつもりなのかもしれない。
「あなたがた、解析者の習慣が移ったんですかね。このところ、どうも夜型になっちゃって。明るいうちは仕事がはかどらないんです。散歩しがてら帰らないことには、所見ひとつまとまってくれない」
空いた左手で頭をかいて、ハロと呼ばれた青年は苦く笑った。
本名をハロルド・ラインズというこの青年は半年ほど前にこの小都市に配属になったばかりだが、親しみやすい性格で、五歳年下のユウリに愛称で呼ばれても嫌そうな顔ひとつ見せたことがない。ハロルドの軽口にユウリは肩をすくめ、笑い返した。
「皆が皆、夜型ってわけじゃないよ。わたしは──」
言いかけたことばを途中で呑み込み、青年から目をそらして、ユウリは続けることばを探す。ハロルドはくすくすと笑いながら、途切れた声を器用にすくい上げた。
「ああそうそう、噂じゃ、ボウあたりは日の出と同時に起きて日の入りと同時に寝るらしいですね。で、本当のところはどうなんです?」
問いに、一瞬の間を置いてユウリは吹き出す。
「知らないよ、そんなの。なんならこれから部屋をのぞきに行ってみる? 起こしたら絶対に叱られるよ、怖いんだから」
「やめておきますよ。やっと都市勤務になったのに、放り出されちゃたまらない」
ハロルドは肩をすくめ、震えるような恰好を作ってみせた。せりふとは裏腹の、少しも怖くなさそうなおどけた動作だ。
彼の何気ない言動に、ユウリは救われた気がした。ひとしきり笑った後、おやすみと言う代わりに行き先を告げることにする。