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序章「街」------3

 少女はびくりとして部屋を振り返り、部屋の隅からいつの間にか移動していた掃除機に目を留めた。少女が残した水滴が故意につけられたものではないと判断したのだろう、水の拭き取り作業を始めたようだ。少女の髪からは今も水滴が滴り落ちている。うなる機械から目を離し、己の周囲に落ちた水滴のひとつを指でつぶすと、少女は眉間に皺を寄せ、自虐に表情を歪めた。唇の両端に力が入ったその表情は、ともすれば笑みにも見える。

 耳をすませても、シャワールームからは水音は聞こえてこなかった。温水を浴びせるべき対象物がなくなったことを感知して、自動的に止まったのだろう。

 ここでは何もかもが、平常と変わりない働きをしていた。異質なものはわたしだけだ。

 近づいてきた掃除機の丸い頭部に手を伸ばし、そこを支えに立ち上がると、機械は不機嫌そうに一際大きなうなり声を上げた。少女はシャワールームに引き返し、長い髪を適当にしぼる。シャツを脱いで洗濯機に放り込み、手近にあったタオルをかぶって脱衣所に出た。

 部屋に戻り、躍起になって水を拭き取っている掃除機にちらりと目をやる。奇妙な愛着を感じて笑んだ時、左手の通信機が呼び出し音を発した。シャツを脱いだままの己の姿を見やって逡巡したが、モニタを遮断して通信を受けることにする。

『ユウリ?』

 受話ボタンを押すと、男の声が名前を呼んだ。優しげなバリトンの、聞き慣れた声だ。

「……少尉?」

 返事の代わりに、ユウリは尋ね返した。体から力が抜けて、通信機の前に座り込んでしまう。「少尉」という愛称を持った通信の相手はユウリの八歳年上の養父で、名をダグラス・リウィウスといった。

『今、帰ったところだ。部屋にいなかったから──忘れ物でもあったかい』

 穏やかに尋ねる声に返すべき答えがなくて、ユウリは思わず動きを止める。一息吸った後、ユウリはゆっくり首を振った。モニタをつけていないから、その動きが相手に見えていないことは分かっている。

 ツ、と涙が白い頬を伝った。掃除機のうなる音だけが部屋を支配する。

『……モニタをつけていないね? ユウリ?』

 通信機のこちらのようすに気づいたのかどうか。穏やかな声に焦燥が混じった。その響きが強制力を伴わない、ただ静かな問いであることにユウリは安堵する。

「いい。ひどい顔してる」

 少しかすれた声に、通信機からは沈黙が返ってきた。

「少尉。今から行ってもいい?」

 一呼吸置いて、いくらか落ち着いた声でユウリは尋ねる。返事までには一瞬の間があった。

『構わないよ。食事はすませたのかい』

「ううん……まだ。お腹空いた?」

『部屋に戻ったらいい匂いがしたからね。そうじゃなきゃ多分、食事のことなんて忘れて仕事を広げるところだったよ。来たんだったら、そのままここにいればよかったのに』

 通信機の前に座り込んだまま、ユウリは息を吐くようにして笑った。ダグラスの居宅に向かう前に、もう一度シャワーを浴びて着替えよう。髪を乾かすには時間がかかるから、いっそのこと軽く結い上げてしまおう。

 会話を終えて、通信機を遮断する頃には気分はすっきりとしていた。こんなに簡単に気分が変わるなんて、と思ったら、自然に表情が緩んで笑みがこぼれる。

 シャワールームに向かうと、今度は脱衣所で素裸になり、かぶっていたタオルも洗濯機に放り込んで熱いシャワーを浴びることにした。シャワールームから出ると、裸のまま部屋を横切って体を乾かす。行き先が決まった後の行動には時間がかからなかった。時計を見やる。通信を切ってから十五分。

 食事のことを忘れていたのはわたしも同じだな、と口の中にユウリはつぶやいた。

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