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第9章「贖罪」----30

 美しい少女は不思議そうな表情を浮かべ、首を傾げる。その顔には、いつの間にか涙の影もない。

「あなたのお子は、外の世界でしょう? だって、わたしがここにいるもの」

 自らの胸に手を当てて、華奢な少女はほほえんだ。尋ねた女はしばし呆然とし、やがて大きく首を振り出す。

「いいえ──いいえ、レーテ様。ごめんなさい。うちの子は、壁の向こうに……」

 女の腕がゆっくりと上がり、丘の向こうの耐火壁を指差した。震える腕の指す先に、人々の視線が集まっていく。

 ごめんなさい──ごめんなさい。誰かの声が響き出す。

 いつしか情景は、耐火壁すぐ手前の川原へと移っていた。

 鉛色の壁沿いに、誰かが歩いてくるのが見える。壁に手をつき、重い足を引きずるように。

 なんの予告もなく、ふわりとその体が壁を離れた。力尽きた男の体は、糸の切れた人形のように草の中を転がり落ちる。

 流れる川と川原には、いくつもの遺体が転がっていた。砂にまみれ、血にまみれ、目を見開いて転がる死体。

 中洲には、小柄な子どもの姿も見えた。まだ生きている──立ち上がれない。腕を支えに、這いずるように進みくる。黒い筋が川を流れる。最期の力を振りしぼり、両腕で体を支えている。

 そして子どもは、そのまま川の中へと落ちた。誰かの悲鳴が空を割く。

 へたへたと座り込んだ女の前に、誰かが歩み寄ってきた。誰だろう。真っ黒に汚れた体。足を引きずる、奇妙な姿。持ち上げた左手で、右の肩を抑えている。近づいてくる。

 女の目前に、血まみれの少女が迫った。鈍い音を立て、その肩口から腕が落ちる。

「いやあああ!」

 女は叫び、尻餅をついた。後ろに手をつき、後ずさる。少女は声もなく笑みを浮かべて、残された血まみれの腕を伸ばしてくる。──ママ。

 冷たい手、ぬめりを帯びた手が頬へと届く。それが我が子と知りながら、不快感に身をよじる。崩れ落ちた先は草むら。頭を抱える。叫びは何度も、喉を飛び出す。

 いまや情景は川原を越えて、街の全体へと広まっていた。レンガで埋められたはずの路地の上に、力尽きて倒れた子どもがいる。街のそこここに慟哭が広がり、ある者は逃げ、ある者はうずくまり、ある者は引きつった笑いを浮かべて体の破片をかき集めだす。

 許して──許して。分かってくれると思ってた。

 分かってね、かわいい子たち。だって、しかたがなかったのよ。

 禁を破り、何人かは堤防裏へと飛び込んだ。そこには猛火が広がり、空は黒煙に覆われて何も見えない。建物は瓦礫へと姿を変え、破片がそこここに散らばっている。無論、死体もだ。だめだ。これ以上、入り込めない。

 黒煙から逃れ、人々は耐火壁から転がり出した。終わりだ。終わりだ。

 従えなかった罰が下った。


 収まらない慟哭が、壁の向こうから聞こえてくる。その振動は爆破の影響すら上回り、いつまでも晴れぬ黒煙が空には渦巻いている。

 堤防裏を壊滅へと追いやった川辺館の計画完了をコウが知ったのは、グループを離れた男の帰りを待つようにして起こった爆破を目にした時のことだった。退路を残しながらのそれまでの計画に比べ、あまりにも無慈悲に設置されていた最後の爆破。

 畜生、なんだよ! 叫びが喉をついて出ていた。自分たちだけは街を逃れる、すべてを壊して脱出するとほざいたくせに。あらゆる恩恵を自ら捨てて、日々の再生を予言したのに。

 いったい誰が、こんな計画を実行に移したのか。答えなど、考えるまでもない。立案はサウス・エヴィル、実行は川辺館の連中だ。

 くそったれ! ありったけの憎悪を視線に込めて、コウは上部にある監視カメラをにらみつけた。

 ……もう何日も前から、コウは堤防裏にとらわれている。柱に結ばれた枷のおかげで移動はままならなかったものの、見知らぬ誰かのおかげで飢えることはなかった。

 ──やってくれたね。あんたは街の救世主だよ。これ、あんたには少ないだろうけど。

 監視カメラを避けるためだろうか、それともコウに顔を見られなくなかったのだろうか。マスクや布きれで顔を隠した何人もの人間が、代わる代わるコウの前に姿を現しては食べ物や飲み物を置いていった。

 ──監視カメラは上空にも設置されている。マスクをとる時は、気をつけろよ。主要な建物の中にもあるはずだ。目視できるものばかりとは限らない。

 礼の代わりに言うと、まだ子どもと見えた相手は瞳に理解の色を浮かべてうなずいたものだ。

 何故と聞かれても理由など答えられなかっただろうが、コウは冤罪を主張しようとしなかった。救世主になりたかったわけではないし、当初の目的を果たしただけだと思っていたわけでもない。あの美しい少女をかばいたかったわけでもない──その涙の色と彼女のありように、心が少なからず動いていたことは事実だったが。

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