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序章「街」------2

 路地に叩きつけられた、と思った瞬間、ベッドの上で体が弾んだ。

 反射的に鋭く吸い込んだ息を止める。自失はひどく長く感じられたが、再び時間が流れ出すまでにはほんの一秒もかかっていないはずだった。ベッドの上で荒く短い呼吸を繰り返す。焦点が合った。視界の先には見慣れた天井がある。

 しだいに呼吸する速度を緩めて、少女は瞼を伏せた。薄暗い室内の光源は、天井の二ヶ所に配した小さな電灯だ。瞼の裏は生命の色に彩られて赤黒い。夢から覚めたことに、安堵のため息が漏れた。

 部屋の各所に設置されたセンサーのひとつが、少女の覚醒を感知して空調機に指示を送る。空調機は指示に従い、吐き出す空気に少しずつ柑橘系の香りを織り込んだ。少女は体の力を抜いて、部屋の中を循環するさわやかな空気を味わうことにする。

 ややあって、少女はゆっくりと瞼を開けた。瞼の下から現れた瞳は黒い。ぱち、ぱちとゆっくり瞬いた後、視線を横へ動かすと、ベッドの上には長い黒髪が広がっていた。

 もう一度安堵のため息をつくと、ベッドに肘をつき、ゆっくりと身を起こす。齢十七のこの少女は、生まれついての白髪を特殊な染料で黒く染めていた。染めることを最初に提案したのは母親で、父親譲りの白髪はどこにいても目立つからというのが理由だったと聞いている。物心つく前に定着したこの習慣は、親もとを離れて暮らすようになってからも続いていた。髪の色と不釣り合いにならないようにと、瞳の色も調整している。どのみち、極端に弱い視力を常人並みにするためにレンズが必要だったから、そこに色を差してあるだけのことだ。

 枕もとに置いた円板の時計を見ると、午後十時を回ったところだった。ぶるん、と頭を振ると、長い髪をかき上げる。ベッドから降りると、硬い床の冷たさが素足に心地よく感じられた。

 少し汗をかいたようだ。ほのかに甘い香りを割って、不快な匂いが鼻腔をつく。極度な緊張のもとに生まれる、独特の体臭だった。

 頼りない足どりでシャワールームへと向かう。ベッドに転がったのはいつのことだったか。望みもしない夢に翻弄された後の頭はぼんやりとして、思考は散漫だ。

 少女は脱衣所で立ち止まりもせず、シャツを着たままシャワーを頭から浴びた。前髪をかき上げ、顔を上向けてシャワーの洗礼を受ける。服の張りつく感触は不快ではなかった。そう、あの夢の中の壁よりははるかに──そう思ったとたん、不快感が胸に込み上げる。

 喉を鳴らし、少女はシャワーの下でうつむいた。左胸の上部を抑えた掌に、肺の大きな伸縮が伝わる。瞼を伏せると、急に足もとに不安を覚えた。前方の壁に向かって無意識に腕を伸ばす。濡れたタイルに指先が触れる。

 ──嫌だ!

 放電されたわけでもあるまいに、硬い感触に出会うが早いか、少女の指先は壁を拒否した。バランスを崩してよろめいた後、その場にぺたんと座り込んでしまう。

 体に注ぐ水滴は無数の小さな滝を作り、とどまることなくシャツの上を伝っていった。まったく勢いを変えずに少女の上に注ぐシャワーは、緻密なプログラムによる雨のようだ。

 ──どうしてわたしは、こんなところにいるのだろう?

 うつむいた顔の周囲を落ちる温水の細い滝を視界に収め、ぼんやりと座り込んでいるうちに疑問がやってきた。本来なら今頃はまだ仕事中で、ここに帰ってくることができるのは一月の終わりだったはず。そう、二十八日だったか二十九日だったか──今日はまだ一月の半ばだから、部屋をあと二週間ほどは空けておくはずだった……。

 ……今日は、何日だったろう?

 体の内側に落ちたふたつめの疑問には、答えが用意されていることを少女は知っていた。答えの在り処だってちゃんと知っている。

 細い温水の筋の中で顔を上げると、ふらりと立ち上がり、少女はシャワールームを出た。たっぷりと水分を吸った髪やシャツを絞りもせず、そのまま部屋へ移動する。シャワーは出したままだ。

 足跡を水で残しながらたどり着いた先は、先ほどまで身を沈めていたベッドの近く、壁に張りついた液晶画面の前だった。一月十八日、と今日の日付が大きく表示され、その右側に半分ほどの大きさの数字が並んでいる。伸ばした指で画面上のボタンに触れると表示が切り替わり、ピピッと短い電子音が鳴った。個性のない文字が並んで、『スケジュールの登録がありません』という文章を作る。左上には小さくなった今日の日付。もう一度ボタンを押す。翌日の日付が表示される。『スケジュールの登録がありません』という文章。もう一度。さらに翌日の日付。同じ文章。もう一度……。

 低いうなりが、部屋の空気を震わせた。

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