第1章「覚醒」-----6
瞼を開く前に、雑音が耳に飛び込んできた。人の話し声なのか、それとも足音なのか、正体の判然としない音が耳の奥で揺れ、知覚神経を刺激している。
網膜に心象風景が流れ、アンディは眉間に皺を寄せた。意識が夢の世界を離れきっていないような不快な感覚。目を閉じたまま手を持ち上げようとしたが、覚醒しきらない体は思うように動かなかった。
「覚醒に不都合がありますか、アンディ・マルコフ?」
機械的な女声が尋ねる。その時になってようやく、雑音の正体がマイクを通じた空気の揺れであることにアンディは気がついた。
アンディは左手に力を入れ、指先でカプセルを叩いて意思を伝えようとする。左手は、今度は素直に動いてくれた。質問に対する答えはノー。覚醒に不都合はない。
アンディの反応を受け、カプセル内の大気の入れ替えが開始された。合成大気よりはいくらか自然に近い大気が鼻腔に流れ込む。アンディは意図的に深呼吸を繰り返した。
「脳波、脈拍、呼吸、その他身体的機能に異常を認めません。覚醒を続行します。不都合が生じた場合は合図を願います」
声は、耳の奥に挿入された受信機から聞こえていた。
アンディは体中の力を抜き、技師と自律神経にすべてを委ねることにした。夢の街セトアを離れてから、とうに何時間かが経過したはずだった。意識のほとんどは覚醒しており、眠りの中に戻ることはない。その程度のことは、経験から確信することができた。
記憶の中に都市セトアの、特に川辺館から眺めた景色が浮かび、続いて見聞きした出来事が意識のあちらこちらから飛来しては融合する。混乱する夢のただ中にいるような感覚は決して気分のいいものではなく、初めてこの覚醒を経験した時は不快感にずいぶんと翻弄されたものだった。死に直面した時、人は脳裏にそれまでの人生を早送りでたどると言うが、この現象もまた、それに近いものなのかもしれない。
冷凍睡眠に関する技術については日々研究が進められ、改良が重ねられている。熟練の解析者らは、技術は確実に進歩を重ねていると口をそろえた。彼らはまた、百年後に目覚める人々には実に爽やかな朝が約束されているに違いないとも言っていた。だが、冷凍睡眠によって意識を共有し、夢の世界に生きる人々の未来を想像することは空しい。少なくともその時代に、自分たちの多くは生存していない。
冷凍睡眠法の適用を受けるには、実に多くの条件を満たさなければならなかった。年齢は十八歳以上、心身ともに健康で生殖機能に異常がないこと、遺伝性の疾患を持たないこと、犯罪歴がないこと、親族に反政府主義者もしくは政府関係者がいないこと、そして私有財産のすべてを政府に委託できることなどがその代表的なものである。アンディが適用を受けることができなかったのは、父方のいとこがハバロフとは別の小都市のセンターに勤務していたからだ。いとこと言ってもほとんど顔を合わせたこともない相手なのに、それさえも適用外の判定を受ける理由になるのか、と憤慨していた時期があったことをアンディは思い出した。
「覚醒が完了しました。十五分後、あらゆる遮断を解除します。センターを代表してアンディ・マルコフの覚醒を歓迎します。ウェルカム・ホーム!」
意識の外から女声が降ってくる。声は、嬉々とした感情を伴っていた。感激、それに安堵。定型化された文言の中にもそうした感情は出入りする。
自身に向けて放たれる何度目かのせりふを聞きながら、アンディはそっとため息をついた。息を吸って、上顎と舌、そして喉に空気の冷たさを感じる。全身で覚醒を自覚できる十五分後が、待ち遠しかった。
2023年3月以降、金~土の夜に5,000文字を目安に続きを投下する予定です。
以降もお楽しみいただけますように。




