1話
小さな頃、僕は狐のお面をした子供と友達になった。別にその関係に特別なことは何もなくて、ただ普通に鬼ごっこをしたり、隠れんぼをしたり。そんな普通の友達だった。名前は知らなかったけれど、狐面だからコンだね、なんて呼ぶと、コンはうん、なんて言ったから、コンはコンなのだ。
コンのことを父様と母様に話したら、最初のうちは笑っていたけれど、いつからか顔を赤くして怒鳴るようになった。そんな子はいないんだ、お前は一人で遊んでいたんだ、と。そんなことはないんだ、とずっとずっと言っていたら、しばらくして僕は蔵の中で暮らすことになったのだった。
当時はまるで意味が分からなくて、日がな一日泣いていたけれど、涙も枯れ、することもなくてずっとずっと考えていれば、僕の頭がおかしくなってしまったからなのだろうな、と想像がついた。
この辺りに狐面をつけた子供なんていなかったのだから。僕はまるで不思議に思っていなかったのだけれど。
蔵の中は暗いし埃っぽいし、汚いあれこれもあって居心地は最悪だった。
時間の感覚はわからなくなったけれど、たはいえそれに慣れてしまうくらいには蔵の中での暮らしが長く続いたと思う。ずっと暗くて、ずっと一人だ。
一人ぼっちが寂しくて、蔵の外に出たい出たいと思っているうち、ふわりと体が浮き上がるのに気がついた。それに、普段より体がずっと動かしやすい。
いつもの通り壁を辿って動こうとするが、手応えがない。不安に思いながら動いていると、ふと光が差した。随分久しぶりに見た光が目に眩しくて、僕は目を瞑った。
眩しさに目を細めながらうっすらと目を開けて、僕は目を疑った。辺りは夜だった。夜の優しい月明かりすら眩しいなんて。
驚きはこれだけではなかった。
なんと僕の腕は壁を貫通していた。というか僕の腕、こんなに透けてたっけ。
ふわふわと浮きながら移動してみれば、僕は蔵の中を容易く抜け出ることができた。
そうして見る自分の姿は、記憶よりもなんだか透けていた。どういうことだろう。
しばし呆然としたあと、まあいいかと思って僕はふわりふわりと辺りを彷徨った。僕は物事を気にしない類の人間なのだ。
彷徨ううち、なんだか見慣れぬ人影を見た。
着ている着物の様子はなんだか古めかしい。というか、肌の色が尋常ではない。
人影が振り向いた。目が合った。そして悟った。これは見てはいけなかったモノだ、と。
僕は必死に逃げた。アレが追ってきているかどうかは定かでない。けれどともかく逃げなければ、という根源的な恐怖に耐えかねたから。
そうして逃げるうち、狐面の子供と出会ったあたりに辿り着いた。辺りはなんだか落ち着く感じがした。
そういえば僕、この辺りがなんだか居心地が良くてずっと好きだったなあ。蔵の中で暮らすうちにすっかり忘れてしまっていたけれど。
落ち着いてしまって、そんなことをぼんやり考えていた。
気が付けば、目の前にあの狐面のコンがいた。けれど、その存在感がかつてとまるで違った。悪い感じはない。ただ、すごく大きなモノだ、という漠然とした感覚があった。
「君、どうしてそんなことになっているの?」
コンは平坦な声で問うてきた。この子は普段からそんな感じだったなあ、と思い出す。でも遊びには付き合ってくれたんだよな、なんて思いつつ、問い返す。
「そんなことって?」
「魂だけすっぽり抜けてここにいるじゃない。でも、君からは死人の雰囲気もしない。何があったの?」
「何があったわけでもないなあ。気がついたらこんなことになってた。ずっと蔵から出たいと思ってたからかなあ?」
「蔵?」
「ああ、僕最近は蔵で暮らしてたんだよ。蔵だけに、なんちゃって」
おどけてそう返すと、コンの雰囲気が変わった。静かな森の雰囲気から、嵐にざわめく森のような雰囲気に。
「どういうこと」
「コンのことを話したら蔵住まいになっちゃった。いないなんておかしいよね、コンはちゃんといるのに」
言えば、コンは俯いた。雰囲気もなんだかしゅんとしている。しばらくして、ぽつりとコンが言った。
「ごめんね。私のせいだね。私が君と遊ばなければこんなことには…」
「そうかも。でも、僕はもう別にいいかなって思ってるんだ」
「恨んでないの?私のこと」
コンは恐る恐る、という様子で聞く。狐面の表情なんて変わらないのだけれど、それでもなんだか泣いているように見えてしまって、僕はちょっと笑った。
「蔵に暮らして最初の頃はちょっとだけ。でも今は全然だよ。僕、なんだか色々よくわからなくなってきてるんだ」
そう言うと、コンはまた俯いた。
「ねえ、君は今蔵の中にいるんだよね?」
「魂だけすっぽり出てきたのなら、そうだろうね。体は蔵の中に置いてきたんだろうから」
「…そう」
「ちょっと待ってて」
「いいけど、どこに行くの?」
「君の体を取ってくる」
コンはそう言って、あっという間に目の前から消えた。
そしてすぐさま帰ってきた。見やれば、ボロ切れを大切そうに抱えている。コンはすごく怒っているようだった。
薄々分かっていて、僕は聞いた。
「そのボロ切れ…なに?」
コンの狐面がまた泣きそうに見える。おかしいな。
「…君の体」
「うわあ…」
久しぶりに見た僕の肉体は、それはもう酷い有様だった。肉が削げ落ちて骨と皮だけみたいになっている。これで生きていると言うのだから自分でも驚きだ。
「苦しいだろうけど、戻って。長くその状態でいると戻れなくなるから」
泣きそうなコンの狐面を見ていると、なんだか従わなくてはいけない気がしてしまうから不思議だ。
「わかったよ」
戻り方はなんとなくわかった。戻れなくなる理由も少し。長くこうしていると、戻り方を忘れそうになるんだ。
体に戻ればいつもの体の重さが返ってくる。体が重いんじゃなくて、軽すぎる体が自分の重さに耐えられないんだな、と自分の体を見て思った。
コンは僕を抱えて山の上へ歩いていく。そっちの方には小さなお社しかないのだけれど。
「どこに行くの?」
「私の…家?」
そうしてコンは小さなお社まで歩いていった。ここまで来れば僕にもわかる。
「ねえ、コンって神様だったの?」
「うん…一応ね」
コンはそう言って狐面を外した。お面の下には、びっくりするほど綺麗な顔の女の子がいた。
大きな目を泣きそうに潤ませながら、コンは震える声で、けれど誓うように言った。
「私のせいで不幸な目にあった、私の大切な君。私はきっと君を前より幸せにする。そうした暁には、君は私を罰してね」
罰することなんて、何もないのになあ。