その者は常に愉快であった
その者は常に愉快であった。
それは実に良い事だったし、振り撒かれる笑顔は周囲の者達をも自然に笑顔にする程のものだった。
しかもその者は笑顔だけでなく後姿も愉快であった。無論、横から見ても愉快だったし斜めから見ても愉快だった。試してはいないのだけれど真上から見てもきっと愉快なのに違いない。
そして姿だけでなくその者の動きも実に愉快であった。
小動物のような動きは小気味よく速くて愉快だったし、人形のような妙な動きもやはり愉快であった。人形のような動きというものは一歩間違うと或いは不気味な動きになってしまうものなのではあるが、その者においては決してそのような事はなかった。あとロボの動きも愉快だった。
さらにその者の発する言葉も全てが愉快であった。
愉快である言葉を言う為にはどうしたって愉快でない説明のような言葉も必ず必要になるので、全ての発言が愉快だというのはありえないことに思われるだろうが、その者が発する言葉は説明だろうが接続詞だろうが全てが愉快だった。一文字でも愉快。
一体、その者と同じ事を他の誰が出来るだろうか。
だがやはりそれは不思議な事でもあったし、後々考えると不気味な事でもあった。
愉快である事は当然良い事ではあるのだが、愉快に愉快を合わせた時どうしたってそこには何らかの違和感があるはずだ。それは不気味さを齎すはずだが何故かその場では感じる事もないし、隙のない愉快さに自然と笑みが毀れるのだった。
これは何か秘密があるに違いない。
しかし愉快の塊のような人物を調べるなどと言う事は不可能であった。なにか質問しようにもその者に近づくと、その愉快さによって私の疑問は何処か遠くに飛んでいってしまうし、その者を囲む笑顔の前でその者を詮索するような事は憚られた。
なにか良い手はないかと考えた末に、私は愉快の象徴であるピエロを送り込む事を思いついた。愉快を持って愉快を制す。なんらかの特殊な反応を期待した。
しかしピエロはその愉快さにおいて、その者を越える事はなかった。愉快は愉快に取り込まれたのだ。
私はさらに三体のピエロを送り込んだが全てが同様となってしまった。どうしたものかと考えるも、愉快なものを別にどうする必然もないじゃないかというような当たり前の結論に辿り着いた。
愉快なその者は今、愉快な四体のピエロと共に世界を愉快にし続ける。