赤井の栄転
この支店の支店長は、物事の判断がハッキリしていてわかりやすい男だった。
「今月、赤井君と佐伯君で、営業成績がよかった方を係長級に昇格の上で本社の営業部に転属をしてもらう。」
支店長は月初の、支店全体の朝礼で、そういった。
赤井と佐伯というこの二人の男はどちらも28才で、もう丸一年近く、この支店の営業マンとしては他の追随を許さない成績を収め、常に二人のどちらかが月ごとのトップを取っていた。ただ、7割は赤井という感じで、佐伯は肉薄はするが届かないということが多かった。単純な通算の売り上げ数値だけなら赤井の圧勝だったろうが、佐伯の場合は数値にブレが少なく、負けた月でもわずかな差であったり、ひどく落胆するような数値にならないことが多いのに対して、赤井は、負けるときは「ぼろ負け」もしばしばあり、ムラを感じさせた。いずれにしても、この支店では、この2人が段違いのツートップであることに間違いは無かった。
朝礼が終わったあと、支店長が赤井だけを止めて呼んだ。
「今月の売り上げで本社にとさっき言ったが、ここで負けても2人はおそらく最終的に本社に行くことになると思う。だから、今月は、「イベント」のつもりでやり給え。」
「イベントですか。おもしろく盛り上がるようにということでしょうか。」
「ははは、そういうわけじゃ無いが。まぁ、キミと佐伯君は本社に行ったとしても、しのぎを削る逸材だと私は確信しているんだ。この一ヶ月だけで終わるわけじゃ無い、そういう意味だよ。」
「はい、わかりました。恥ずかしい敗戦にならないよう、注意します。」
「そうしてくれ。……それとな、赤井君。君が今回本社に行くことになればなおさらだし、もしそうで無くても、いずれ行くのだから、そろそろ身ぎれいにしておけよ。注目される人間は、注目に堪えるよう身辺も整えること。いいね?」
赤井は、支店長のこのことばに何か言おうと思ったのかも知れないが、1秒間、間を空けただけで「はい、わかりました。」一言だけで返事をした。
佐伯はこの日、会社の仕事が終わってから行きつけの定食屋へ寄って晩飯を食べた。この店は表通りからは一本裏に入ったところの、さらに奥まったどん突きにあり、古い個人経営の店だ。定食屋というが、夜になると居酒屋とまでは言わないが、ツマミのメニューも出してくれるので、飲んで帰る客も多い。ご飯ものから麺類、肉料理魚料理、何でもある。店に入ると壁一面に品書きの札がずらりと並んでいる。もっとも、すべての料理をいつでも作れるわけでは無い。佐伯の経験上、注文できる品は、この中の半分くらいだ。店は、厨房を主にだんなさんが受け持ち、注文取りや配膳は奥さんの役割だ。二人とも、もう70を超えているだろう。
きょうは、この店はかなり混んでいた。まあ、詰めれば座れないことは無いが、奥さんは佐伯の顔を見るとすぐに手招きをして、
「奥で食べなよ。」といった。
奥というのは、ふだん店の主人と奥さんが休憩に使ったりしている、この家の居間のことである。そこへ行くには、店のカウンター横から入って厨房を抜けていく。
「ありがとう。とおりまーす。」佐伯は、厨房で鍋を振っている主人の後ろを声を陰ながら奥へ進んだ。主人は、一言「おかえり」
佐伯が営業で見つけたこの店は、もう3年通う、まさに行きつけの店だ。畳の6畳間で、真ん中にちゃぶ台がある。冬場はここにこたつがある。壁際にテレビ。ちゃぶ台の上にはもらい物のお菓子だの果物だのが置いてあることが多い。佐伯は、上着を脱いで座椅子にもたれかかって、しばらくぼんやりとテレビのニュースを見ていた。
「きょうも疲れてるねェ。」奥さんが熱いお茶を入れた湯飲みを佐伯の前に差し出した。
「今月は、きっと毎日もっと疲れた顔になるかもナァ。」
「そうなの。そんなに大変な月なの?」
「今月、売り上げが一位だったら、東京へ行くんだ。」
「あら。栄転かい?偉くなるの?」
「いあ、たいして偉くならないけど。見所がありそうだと思って呼ばれていって、それで向こうでまた試される、ってことかな。」
「そう。じゃあ、がんばらなきゃぁねえ!この3年くらい、ずっとトップ争いだったんでしょう。もう一踏ん張り。ここが正念場だね。」
「ああ、そうかも知れないね。……でも、どうかな。オレは爆発力が無いからね。」
「弱気なこと言ってちゃダメよ。オレがやってみせるって、自信持たなきゃ。エリートコースに乗ってるんだから。」
「ははは、エリートコースか。おばちゃんはすごいよ、その気にさせるのがうまい。いい営業マンになれるよ。保証する。」
「酔っ払いはね、適当に褒めておけば、みんなその気になるのよ!」
「そっか。でもオレは、きょうはまだ酒を飲んでないよ。はははは。」
佐伯が晩飯を小体な定食屋のおばちゃんと過ごしていたころ、赤井は「気合い付けていかないとナ」と、会社の男女数人を連れて焼き肉店に繰り出していた。彼は、遊ぶとなったら、とめどなく、ガァーッと遊ぶことも多く、むかしは失敗談もずいぶんあった。今でも、女性とは広く浅くのつきあいを心がけながら、たまに取り返しの付かない深さになるのだった。けさの朝礼後、支店長が彼に言った「身ぎれいに」とは、当然、そういうアソビの面もさしている。立つ鳥、跡を濁さずである。だいたい、そういう生活をしているのは、秘密事項でもなく、会社の人間なら誰でも知っているようなことだった。顔つき、服装、しぐさ、言いぐさ。「営業のトップ」といわなかったら、少し堅い好みの女性を相手にしているホストぐらいにしか見えない男だった。そして、普段着もそういう感じだった。
「服もサ、品質とか着やすさ、機能性、もちろんデザインなんか考えて選ぶと、いいものってやっぱり一部のブランドに絞られちゃうんだよナァ。」赤井は、よくそういった。そんな男でも、営業でトップだからこそモテた。同じ会社に生きていれば、トップの男にこそ憧れるのは、当然のことだろう。
「チャンスがもらえて、自分の能力を発揮できる場所がある。その点に恵まれているんだ。努力もするさ。けれど努力が報われることこそが天からもらった才能ってことだと思ってる。」
赤井は、この手の話をキリッと頬をしめて女性にするのが好きだった。しかし、今月営業成績でトップを取り、本社に行くのは間違いなく自分だと確信していた。
――この温暖なのんびりした地方風土も悪くは無いけどナ。もうひとつ上にも行きたいんだ――
こと仕事に関して、下手に思い上がらず上を見続けているところが、彼の強みでもあった。対して佐伯は、「目標が赤井」とよく思っていた。赤井を目標にしている時点で負けであるということも、いつも感じていた。人は意識せず大きく先を見る男と、身近のハードルを乗り越えることに力を入れる男。自分ではそう思っていなくても、二人は自ずと営業成績という同じ目標に向かって違う道を違うやり方で進んでいるのだった。
営業成績、最初の一週間。多くの人間が「ああやっぱり赤井か。」そう思ったに違いなかった。あと3週あっても、普通の人間では埋めるのが難しいほどの差を付けて赤井が先頭に躍り出ていた。ここぞという時の爆発力は、手に負えない。佐伯も苦笑いするしか無かった。「せいぜい、定食屋のおばちゃんに慰めてもらうか。」きょうも、帰り道はあの定食屋に足が向くのだ。
引き換えて、赤井は今月の勝利をほぼ確信した。そして、最後まで気を抜かないこと。更には、現実として本社行きを予定に組み込んだ。そこで、「整理しなければ成らない人間関係」への対処も始めた。「順次やっていかないと、簡単には終わりそうに無い」むしろ仕事の段取りよりも、こちらの方が難しかったろう。「まぁ、無理に清算しなくても……。」そんな気にも成った。とりあえずは、「週に一人」を目標に「おわり」を告げた。相手の女性も、こういう話に持って行かれるだろうことは予測していた。赤井は、もともと「広く浅く」という考えだったから、安易に根の深くなるような愛を囁かなかった。そういう面は、「うまい」とも「汚い」とも言われた。実際、赤井自身にうまく立ち回られているだけという相手の女性も多かっただろう。そこらへんは、トップセールスマンの面目躍如というところだった。
月が終わるころ。赤井と佐伯の決戦はもう決着が付いていた。「キセキ」を祈ってくれる者もいたが、儚いことだった。定食屋のおばちゃんは、きょうも落胆などしない。
「むかし、『2番じゃダメなんですか、2ばんじゃ』っていってた人がいたねえ」
「あはは。なんだいそれ。」佐伯は、定食屋の居間で晩飯のあとの熱いお茶をごちそうになっていた。
「知らないか。そんな古い話になったんだねえ。まあ、なぜどうしても1番にならないといけないのかってことだね。2番だって、たいしたもんだね。」
「ははは、ところがね。今月は3番なんだよ。たぶんもう、このまま終わり。」
佐伯は、座椅子に深く背をもたげてテレビを見ながら少し寂しそうな笑いを浮かべて終戦の弁を語った。
「うちはね、佐伯さんが東京へ行ってしまったら、寂しくなるねえって話してたんだけど。当分、心配ないか……ざんねん。」佐伯の別れ話は、赤井のと違ってサッパリしていた。佐伯は、真面目な話、この土地を離れたら、この店に来られなくなるのが一番辛いことだと思っていた。
「別れ話をしなくてすんだよ。」
「へっへっへっへ。」
佐伯はこたつに入ったまま右側に倒れ込み、腕枕で横になった。
ほかの人間の異動も含めて赤井の送別会が行われた。終わってみれば、赤井の圧勝劇で、すべてに渡って彼の勝ちだった。
「なんだか寂しいよ。目標が目の前から無くなってしまうと。」
佐伯は赤井に手を差し出した。
「おまえ、目標が『オレ』だからいけなかったんじゃないか?」
「ああ、そうか。……ほんとに、そうかもしれない。俺はお前のようにはなれないんだと、今にして思うよ。」
赤井は、佐伯以上の力で右手を握り返した。
赤井は、自信満々で東京へ去って行った。支店長は、「素晴らしい結果を期待しているよ。次に君が地方へ来るときは、支店長でだろう。それとも、二度と地方には来ないかな」そう言って笑った。赤井の目つきは真剣だった。
「ありがとうございます。ご期待ください。」
支店長は、うんうんと頷いた。
ただ赤井は、重大な失敗を残していることに気づいていなかった。甘く見ていた、ということかも知れない。一人でOKと思って。
東京の本社営業部に移って3ヶ月。赤井は申し分の無い結果を残していた。彼と同じようにほかの支店から移ってきた者、最初からずっと本社にいる者、3ヶ月目には、ほとんどの人間を蹴散らしてトップ争いをしていた。その仕事ぶりを見て、最初は「いつまで続くか」「一時的さ」などと思っていた彼の勢いは、止まらず、その能力に誰もが舌を巻き、誰ももう何の心配もしなかった。そこで、彼は転勤の時に会社があてがってくれたアパートを出てマンションに移った。それは、まず第一弾の「自分の城」だった。そして、戦国時代の武将のごとくの気持ちになった。日ごろの仕事で溜めたストレスを発散もした。英雄色を好むなどともいうが、遊ぶときは、不眠で朝までガァーっと遊ぶという、以前の生活が戻ってきた。ここまで来て、彼の目標は「本社営業」の枠から「全国の制御」へとなった。
「それには、まだまだ足りないものを積み上げないとナ」
一人マンションの窓辺から遠くを見つめた。
ある日の午後。オフィスに赤井が戻ってくると、「お客さんが見えてますよ」そう言われた。そのお客は、応接室ではなく、オフィスの端にある「打ち合わせ区画」のイスとホワイトボードがある場所で待っていた。
「サトミ……」
顔を見て赤井は軽いうなり声を発してそういった。いすに座っていた、サトミと呼ばれた女は、無表情であった。赤井の顔を見て静かに立ち上がった。
「あのひと、赤井さんが前にいた支店の女の子らしいわ」小声で誰かが話していた。
「どうしたんだい?きょうは……」
赤井は困惑し顔がこわばった。彼が動揺するという、珍しい光景だった。オフィスにいる大概の人間が、それとなく二人の様子をうかがっていた。
一歩二歩、赤井が女に歩み寄ったとき、
「あぁっ」
「キャッ」
「うぉっ」
方々で声が漏れた。
赤井は腹を押さえて、前かがみになりながらよろけたが、倒れまいとして踏ん張った。
「サトミ……」
赤井の腹に果物ナイフが刺さっていた。サトミは両手で握りしめたナイフを赤井の腹から抜いた。「これは、もう一度刺される」誰もがそう思った。
「サトミ。ギリシャに行きたいっていってたね。一緒にいこぅぅ。」
女は、思い詰めた顔から少しほほ笑むと、ゆっくり頷いた。赤井はトップセールスマンの力を見せて致命傷を回避した。
赤井は翌月、東北の支店へ昇進を伴わない異動となり、そのあとに佐伯が東京へ移った。
定食屋のおばちゃんには、今でも月に一度くらい、会いに行っている。