想い出屋
初夏の夜は背広を着ているだけでサウナを実感することができる。繁華街はその熱気を助長するかのようなけばけばしい蛍光、姦しい罵詈雑言が飛び交っている。その空気から一刻も早く抜け出したくて足を速めた。普段ならうっとおしいほどに寄りついてくる客引きにも声をかけられることなく繁華街を通り過ぎた。一転、寂しいほどに明かりが少ない通りに変わる。
客引きも見る目ぐらいはあったのだろう。あからさまに肩を落として歩いている中年に声をかけるほど暇ではなかったようだ。足を速めておきながら声をかけられることを期待していた自分に嫌気が差した。
会社の経営がうまくいかない。ここ数年伸び悩んでいたのはわかっていたし、何か対策を打つべきだとも考えていた。それに関して何度も対策会議を開いてはいたが状況を打開できる手は一向に生まれてこなかった。そうしてなあなあにしてしまい、崖っぷちに追い込まれているのだからざまあない。自分のこだわりを捨てれば光は見えるのだが、引いてはいけない一線というものは誰にでもある。会社の経営もそうだが、それ以上に大切なものもあるはずだ。
「そうだ、金ばっかりじゃない。大切なものは、金ばかりじゃない」
確認するように何度も呟いたが、口にするだけ空しくなった。
このまま家に帰っても妻に小言を言われて、会社に行けば部下に愚痴を言われる始末。もう誰かに問題を丸投げしたい気分だ。
家が近付くにつれて足が重くなっていく。さっきとは逆に歩く速度を緩めてみた、惨めな抵抗に虚しくなるだけだった。少ない街灯が自分の未来を暗示しているようで気分も暗澹とする。
「お困りのようですね」
足元ばかりを見つめて歩いていたため反応が遅れた。前から歩いてきた人にぶつかって顔を上げた。
「ああ、すみません」
「何かお困りなんじゃありませんか?」
黒いスーツに青いネクタイの男。人の良さそうな顔をしているが、どうも胡散臭い。いかにもなサラリーマンだが、そのせいで明日には忘れてしまいそうな特徴のない男だ。宗教勧誘にも見えたし、営業マンにも見えた。
「なんでもないよ」
「会社の経営が立ちいかないんじゃないですか?」
思わず足を止めてしまった。しまったと思ったが、それ以上に好奇心をくすぐられた。
「……どうしてそれを」
「私は想い出屋です」
「想い出屋?」
「ええ、私どもは想い出をお預かりし、お客様の願いを叶えて差し上げています。もちろん代金は頂きません」
「……想い出?」
やはり勧誘かと思ったが、代金を払わないという言葉に魅力を感じてしまった。内心そんな自分に舌打ちしたかったが、少しでも家に帰るのを遅らせるのに詳しく話を聞いてみる気にもなった。
「想い出とは何のことだ? 物を渡すなら質屋のようなものか?」
「いえいえ、私たちが預かりますのは『想い出』です。物理的なものは一切頂きません」
男は『想い出』と妙に耳に残るイントネーションで口にした。
「願いの大きさに対してお預かりする『想い出』も変わりますが、お客様が金銭的に困ることはありません。必ず願いを叶えることができます」
「ほう、必ず」
「ええ、必ず」
男は力強く頷いた。
「お客様の願いは何でしょうか?」
少し迷ったが、期待半分、愚痴半分といった気持ちで会社の話をした。俺が話している間も男は小さく相槌を打つだけで黙って聞いていた。自分の話を文句ひとつ言わずに聞く男のせいか、気が付けば部下の失態や家庭内の愚痴まで口にしてしまっていた。
「ああ、すまんな。あんたに愚痴っても仕方ないのだが」
「いえいえ、よく理解することができました。しばらくお時間は頂きますが、そのお悩みを解決させていただきます」
何でもないことのように男が口にしたので、思わず言葉を失った。赤字を抱えていようと俺は経営者だ。今の状況の打開が簡単だとは思っていない。もしかしたらこの男は社会に出て浅い、まだ何でもできると思い込んでいる男なのではないだろうか。
「『想い出』をお預かりさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
男に頼ろうとしていた自分を情けなく思いながらも、もう何でもいいという投げやりな気持ちが混ざり合い、つい頷いていた。
「それでは『想い出』をお預かりします。お返しの際はまたご訪問させて頂きます」
男はそう言うと繁華街の方向へ歩いて行った。てっきり契約書でも交わすのかと思ったが、あまりにあっさりしていたため男の背中をただぼんやりと見送った。近くの家から漏れ聞こえた笑い声で我に返ると、すでに男はいなくなっていた。
経営は面白いように良くなっていった。無駄な投資に無駄な人件費。これらを削減するだけで赤字はあっという間に黒字へと変わった。部下は早い段階からこれらを指摘していたことに私は気付くことができなかった。これは失態と問われてもいたしかたない。むしろ有能な部下がいることを誇りに思うべきだろう。
それから数ヶ月間はクレームや取引先からの電話に悩まされたが、すべて部下に対応させた。どの電話も取引を打ち切られたことに対する文句でしかない。これまで借金を肩代わりしていたようなものだ。感謝されこそすれ文句を言われる筋合いはない。
それ以降、経営は上向いた。職場環境は改善され、妻は祝いのケーキまで用意してくれた。訃報が届いたりもしたが、おおむね順調といってよかった。次の理事会ではよい報告ができることに自然と笑みがこぼれていた。
「お久しぶりでございます」
会社からの帰り道、黒いスーツと青いネクタイの男に呼び止められた。
「お元気そうで何よりです。本日は『想い出』をお返しに参りました」
「……ああ、あんたか」
特徴的なイントネーションと『想い出』というフレーズでようやく思い出した。そういえばこんな男と話をしたことがあったがすっかり忘れていた。相変わらず姿に特徴的なものはなく、同一人物なのかまでは判然としない。
「そういえばそんなことを話していたか」
「はい。願い事は叶えることができましたので、そのお返しということです」
「まあ好きにすればいいが、契約書も結んでいないからな、代金を請求されても払わんぞ」
男はにこりと微笑むと「もちろんです」と胸を張った。
「私どもは『想い出』をお預かりし願い事を叶える。願い事を叶えたらその『想い出』をご返却する。ただそれだけでございます。それ以上の対価を要求いたしません」
対価を要求されたところで知らん存ぜぬで押し通すつもりだったが、それすらもしないのであればこちらから何も言うことはない。第一『想い出』とやらを預けた覚えもない。
「なら返してもらおうか」
この男がこれから何をするつもりなのか見てみたくなってしまった。『想い出』とやらが一体何なのかも興味がある。まあ、どうせ肩透かしを食らうのであろうが。
「それではお返しいたします。それではこの契約は終了いたしましたので、今後この件に関しましてご質問等は受け付けておりませんのでご注意ください」
礼儀正しく会釈をしたかと思うと、男は踵を返して去っていった。
男の姿が見えなくなると、やはり肩透かしを食らったように喪失感を覚えた。結局『想い出』が何なのかもわからずじまいだ。
「なんだ、ただ遊ばれただけか」
そう思った。そう思って歩こうとした時だった。
「…………ああ、ああ!」
想い出した。
「おい! あいつはどこに行った!」
男の姿を追ったが男はどこにもいない。通行人の何人もが奇妙なものを見る目で俺を見ていた。
だが、今はそれどころではない。
俺はすぐに会社に連絡をした。出たのは残業していた部下であった。
「すまんが○○会社はどうなっている?」
俺の焦燥が伝わったのか、電話越しにも部下が戸惑っているのがわかった。
「どうなっているも何も、その会社とは取引を打ち切りましたから」
「じゃあ、××社と△△社はどうした」
「……どれも取引を打ち切ったので、その後はわかりませんよ」
携帯が手から滑り落ち、電話越しに部下が声を上げた。
しかし、何も耳に入らなかった。
想い、出した。
「……俺は、俺はなんてことをしてしまったんだ―――」
どの会社も俺の親友が携わっていた会社だった。経営は順風ではなかったが、辛い時には助け合って経営していた。ある時は俺が助けられた。だから、今度は俺が助ける番だったのだ。
部下や同僚からなんと言われようと死守するつもりだった。妻の小言ぐらいならいくらでも聞いてやるつもりだった。
金だけじゃない。それじゃ買えない大切なものが、人として守るべき一線があったはずだ。
「……おもい、で? 想い出だと!」
俺はすべてを理解した。
俺は、あのスーツの男に『親友の想い出』を預けていた。その『想い出』は俺が守るべき一線だった。その『想い出』が返却された。
先日会社に訃報が届いていた。そこに記された名前が、今ははっきりと浮き出るように思い出せる。
「……うう、あ……あああああ」
声にならない嗚咽は、飲み込むことも吐き出すこともできずに雫となって瞳から零れ落ちた。
願いは叶った。『想い出』は戻ってきた。
でも、戻らないものができてしまった。