10.ノブレス・オブリージュ
「おいおい、どした、どしたぁ? 何があったんだ」
あぁ、ケンちゃん! やっとトイレから帰って来たんだね。
ちょっと大変な事が起きたんだよ!
もぉ、オシッコなんてしてる場合じゃ無いんだよ。
「ケンちゃん、コイツぶっ殺して! コイツ、アタシをぶったんだよっ!」
えぇぇ! この怖いお姉さん、何て事言うの! 本当に怖いよ。マジで怖いよ。
ぶっ殺して……なんて、テレビでしか聞いた事が無いよ。
本当にそんなこと言う人が居るなんて、超ビックリだよ。
「なんだとぉ、コーヘー! どう言う事だ? 説明してみろっ!」
「……」
はうはうはう! ケンちゃん怒ってる。なんだかケンちゃん怒ってるよ。
さっきはあんな優しそうだったのに。
吉田さんっ! 言ってあげて、言ってあげてよぉ。あの怖いお姉さんが、ダニエラさんの髪を掴もうとしたんだって!
「おい、コーヘー。お前……早希を殴ったのか?」
「……」
どうして? どうして吉田さん、黙ってるの? 言えば良いじゃん。早く言っちゃえば良いじゃん。
「ケンちゃん、コイツ、早くシメちゃってっ!」
はわわわ。お姉さん怖い。怖いお姉さん、めっちゃ怖いっ!
なんて事言い出すの? シメてって、どう言う事? 戸締りじゃ無いんだよ。首を絞めろって事なの? そんな事したら死んじゃうよ。それに、それって、殺人教唆だよ。分かってる?
え? 難しい漢字、良く知ってるなぁ? だって?
えへへへ。昨日やってた刑事ドラマで覚えたんだぁ。ダニエラさんに教えてもらったんだよ! てへ。
それにねぇ、知ってた? 人を殺しちゃえっ! って言った人も刑務所に入れられちゃうんだよ。
って事はだよ。この怖いお姉さんも刑務所に入れられちゃうんだよ。
なんてこったい! 怖いお姉さんは、やっぱり危険人物だったんだね。
「もう一回聞くぞ、コーへーお前、彼女を殴ったのか?」
ケンちゃん、どんどん声が怖くなって行くよ。
ケンちゃん、本当はどこかの番長だったの? って言うか、怖いお姉さんは、間違い無く、番長だよね。
えぇぇっとぉ、女の人の番長は……あぁ、そうそう、スケ番、スケ番!
あぁぁ、そんな事はどうでも良いのさ。
それより、吉田さんだよっ!
吉田さんたら、いつの間にか頷いちゃってるじゃん。
どう言う事?
もう、認めちゃってるじゃん。
完全にクロじゃん。
有罪確定じゃん!
「ほぉぉら、ほら、コイツ白状したよ。ケンちゃん、こんな馬鹿、早くやっちゃってよ!」
いぃぃやぁぁ! 怖いお姉さん、またもや、なんて事言うの?
吉田さんは、ダニエラさんを庇っただけなんだよ。なのに、そんな事言うの? そんな事言っちゃうの?
はわわわ、ケンちゃんたら、無言で吉田さんを睨みつけてるよ。
ケンちゃん、顔が怖いよ。怖いよ、顔がっ!
「ケンちゃん、何してるの? ケンちゃん、ケンちゃんっ!」
「うるせぇぇぇー!」
――ビクッ!!
もぉぉ、ケンちゃん! 急に大声出すのは止めてよねっ! 吉田さんだけじゃなく、僕までビックリしちゃったからねっ!
ビクッってなったからね。本当にビクッってなっちゃったんだからねっ!
なんだったら、ちょっとチビりかけたんだよっ。
ほっといたら僕泣いちゃうよ。泣いちゃう一歩手前だよっ!
って思ってたら。
いつの間にかアル姉ったら、僕の事をそっと守る様に抱きしめてくれたんだ。
ふぅぅ……。
アル姉に包まれてると、安心感が半端無いよね。
天然のふかふかクッションが僕を包み込むって言うか、なんて言うか……。
もう、なんにも怖いものなんて無くなっちゃうから不思議だよね。
うん、落ち着いた、だいぶ落ち着いた。
大丈夫、だいじょうぶ。
って言うか、ケンちゃんたら、怖いお姉さんに逆ギレしちゃったよ?
「コーヘーがなんにも無ぇのに人を殴る訳ねぇんだよ! どうせお前が何か悪さでもしたんだろぉ? そんな事ぐらい、最初っからわかってんだよっ!」
「ケンちゃん、どういう事? なに? 私が悪いって言いたいの?」
「あぁ、そうだよっ!」
あらら、ちょっと風向きが怪しくなって来たよ。
「ねぇ、ケンちゃん、何言ってんの? 意味分かんない。そんな事言うんだったら、私もう帰るっ!」
「あぁ、帰れっ! 二度と俺の前に顔出すな!」
あららら、怖いお姉さん、突然ケンちゃんに叱られちゃって、半泣き状態だよ。
めっちゃ、涙目になってるもの。
「ケッ、ケンちゃん……それって、どう言う事? 私と別れるって事?」
「あぁ、そうかもな」
「あんたバカじゃないの? 自分の女と後輩、どっちが大事なのよっ!」
あたー。
母さんの大好きな外国の恋愛ドラマで、良く聞くセリフだよね。
どうしてここで、それを聞いちゃうかなぁ。
だってみんなが見てる目の前だよ。
どっちかなんて、言えないよね。こっ恥ずかしくて、そんな事とても言えないよね。
――ヒュルヒュルヒュル~ ドドーン パラパラパラパラ……。
あ、花火始まっちゃった。
でも、今は最悪の修羅場なんだよ、花火を楽しむ余裕なんて、全然無いよっ!
「俺ぁ、バカなんだろうな」
えぇ? どうしてケンちゃんがバカなの? どう言う事?
怖いお姉さんも意味が分かんないみたい。無言でケンちゃんを見つめてるよ。
「お前みたいなバカ女に引っかかっちまうって事ぁ、俺の方がもっとバカな男だったって事さ」
「うっ……最っ低ー。コイツ、ホントむかつく、マジむかつくっ!」
「あんた達っ! 帰るよっ」
怖いお姉さんたら、茫然としてる他のお姉さん達を引き連れて、勝手に手漕ぎボートに乗っちゃった。
「あぁ、帰りたいヤツは帰れっ!」
「イィィィーだっ! ケンちゃんなんて、死んじゃえぇぇぇ!」
あららぁ……。怖いお姉さんたら、めっちゃ凄い捨て台詞。
ある意味、清々しいね。
「おい、ケン。早紀ちゃんにあんな事言って大丈夫かぁ? それに女子だけで返しちゃってさぁ」
「あぁ、悪かったなぁ、折角早紀が連れて来た女子と合コンだったのに、すっかり白けさせちまってよぉ」
「なぁに、良いって事よ。元はと言えば、彼女のいない俺達の為に、わざわざケンと早紀ちゃんが段取りしてくれたんだからなぁ。それに、ほらっ」
ケンちゃんの友達が携帯の画面を見せてるよ。
「えへへぇ。もう、メアドも電話番号も交換してあるから大丈夫」
「チェッ、しっかりしてるなぁ。いつの間にだよぉ」
なんだか苦笑いのケンちゃん。
「おいっ、コーヘー!」
「はいっ!」
吉田さんたら、ケンちゃんの前で直立不動だよ。
めっちゃ緊張しているね。ケンちゃん、吉田さんの先輩だったんだ。
「どうせ、あの傲慢女が、なにか、お前の彼女に嫌な事でもしたんだろ?」
「……」
「いや、いいんだよ。分かってるって。ただなぁ、コーヘー。一つだけ覚えとけよ」
吉田さんたら、静かに頷いてる。
「どんなに我慢ならない事があってもだ、自分より弱ぇヤツに手を上げるのは駄目だ」
「お前ぇ、ボンレス・オブリージュって言葉……知ってるか?」
ゆっくり首をふる吉田さん。
「英語だかドイツ語だかしらねぇけどよぉ。直訳すると『高貴なる義務』って言うらしいじゃねぇか。つまりだ、力のあるヤツぁ、それなりの義務と責任を負わなきゃならねぇってこった。お前が、その彼女を守りたいのは分るが、だからって、女子に手を上げても良いって事にはならねぇからな」
「……ごっごめんなさい、ケンちゃん。僕、早紀さんにあんな事……]
「良いって事よ。これでアイツも少しは大人しくなるんじゃねぇかなぁ。まぁ、アイツぁ、俺の女だって事で、ちょっと天狗になってた所もあったしなぁ。たまには、お灸を据えてやらねぇとな」
吉田さんたら、本当に申し訳無さそう。
「気にすんな、コーヘー。早紀には俺の方からも謝っておいてやるからよ。それにアイツ、口は悪ぃが、根は良いヤツなんだよ」
はぁぁ、良かったぁ。ケンちゃん怒って無かったんだね。
って言うか、こっそり『のろけ』をブッコんで来てるよね。もぉ、困ったもんだよ。
と思ってたら、ケンちゃんが俯く僕の顔を覗き込んで来たよ。
「確か……慶太くんだっけ? 怖い想いをさせてすまなかったなぁ。でもよぉ……。あららぁ。良く見たら、お前も俺とおんなじ、かなりのイケメンじゃねぇか。お前も大きくなったら、俺みたいに、女で苦労する事になると思うぜぇ。気を付けた方が良いぞぉ。だははは」
もぉ、ケンちゃんたらぁ。
僕はそんな女の人で苦労なんてしないよ。
なにしろ、バレンタインデーのチョコだって、母さんとダニエラさん、それからアル姉の三つだけだったからね。
はぁぁ……。
僕もケンちゃんみたいに、モテモテになりたいよぉ。
なぁんて、思ってたら。
僕の横からダニエラさんが出てきて、深々とお辞儀を始めたんだ。
「おぉ彼女、昼に続いて、またもや迷惑掛けちまって悪かったなぁ」
「いいえ、とんでもありません。見事な立ち振る舞いに、公正なご判断。傍から見ておりましても、リーダとしての十分な素質をお持ちの方とお見受け致しました。この度のご配慮、誠にありがとうございます」
「おいおいぃ。堅苦しいなぁ、お前の彼女!」
「あぁ、いや、僕の彼女と言う訳ではなくて……」
そうだよ。ダニエラさんは、吉田さんの彼女では無いよ。
にもかかわらず、吉田さんったら真っ赤な顔してる。
もぉ、吉田さんったら、間違ってる事は、ちゃんと否定しようよね。
「ただ……」
あれ、ダニエラさん、まだ何か言いたい事がありそうだね。
「ただ、なんだい? 何か言いたい事があったら、何でも言ってくれよ。ここまで迷惑掛けちまったから、何かお詫びはしてぇしよぉ」
「いえ、お詫びなど、とんでも御座いません。それよりも、こちらから一部始終を拝見させて頂きました所、吉田さんがケンちゃんさんの彼女であられる早紀さんを殴ったのでは? とのご指摘が御座いました。残念ながら、本件については真に的外れであると言わざるを得ません。恐らく早紀さんは、ケンちゃんさんの気を引こうと、多少誇張した表現をされた様に思われます。実際の所、吉田さんは、私の髪を掴もうとした早紀さんの手を払いのけられただけで、彼女の頬を含む顔面には全く触れておられないものと確信しております。
「えぇ? なんだよ。コーヘーそうなのか?」
「あぁ、はい。でも、早紀さんの手を払いのけたのは本当の事ですし……」
「いやいや、それならそうと言ってくれよぉ。なんだか、俺一人で格好つけてたみたいじゃんよぉ。そう言うのは早く言ってくれないと、逆に俺が格好悪いじゃんよぉ」
完全に苦笑い状態のケンちゃん。
「もう一点、よろしいでしょうか?」
「えぇ? まだあるのかよ?」
「はい。今ほど、『早く言ってくれないと格好悪い……』とのケンちゃんさんのご発言がありましたので、私もようやく踏ん切りがつきました。実は、先程のお話しに、ボンレス・オブリージュと言うお言葉がございました。ただ、誠に残念ではございますが、恐らくそれは記憶間違いかと存じます。正確にはノブレス・オブリージュ。ボンレスではございません。ボンレスですと、残念ながら私の知る限り、ハム……しか思い浮かびませんでした。語彙が不足しており、大変申し訳ございません。しかもこれは英語でもドイツ語でも無く、フランス語でございます。訳された内容など、基本的に御指摘頂きました内容にて相違ございませんので、このまま話を進めようとは思いましたが、もし、今後どこか別の場所で同じ話を披露された際、ケンちゃんさんが誤った知識をひけらかす事となり、より大きな恥をかく事になる可能性が危惧されます。そこで、大変恐縮ではございますが、この場をお借りして訂正させて頂きました。えぇ、ケンちゃんさんのお話は非常に含蓄もあり、恐らく過去の経験も踏まえた、非常に良いお話で御座いました。ですので、尚の事、単語の名称及び、その出自が誤っていた場合、ケンちゃんさんの名誉により深くの傷が付く恐れも考えられます。えぇ、このダニエラ、私どもを守ってい頂いた恩義ある方に、この様な指摘をしても良いものかと心底悩みました。しかし、世では『聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥』とも申します。それゆえ、今回はあえて御指摘させて頂いた次第でございます。本件重ね重ねのご無礼、誠に申し訳ございません。何卒ご容赦頂ければ幸いでございます」
ダニエラさんたら、そこまで話すと、もう一度深々とお辞儀をしたのさ。
僕には難しくて何を言ってるのか良く分かんなかったけど、他の大人の人達は分ったのかな?
うぅぅん。呆気に取られてるみたいだから、良く分かって無さそうだね。
「だーっ、はっはっは!」
「面白ぇ、面白ぇよぉ! お前の彼女、本当に面白ぇなぁ、気に入ったぜ!」
ケンちゃんったら、めちゃめちゃ大笑いしてる。
ケンちゃんの友達も、吉田さんも。みんな、みーんな笑ってるね。
良かった。ケンちゃんと吉田さんが仲直り出来て、本当に良かった。
「よぉし、それじゃあ、みんなは最後まで花火を楽しんで行ってくれ。俺ぁ、ちょっと早紀のご機嫌取って来るわぁ」
「あぁ、ケンちゃん。ケンちゃん、だいぶ飲んでるんだから、僕が送るよ」
「あぁ、コーヘー。そうしてくれるとありがたいな。はやめに早紀に追いついて謝っておかねぇとなぁ。それに、ああ見えても、素直で良いヤツなんだぜぇ。話せば必ず分かって……」
――プルルルル、プルルルル。
「おっ、噂をすれば早紀から電話だ。ほらなぁ、アイツは本当は良い女なんだよ」
――ピッ!
「はい、もしもし? 俺だけど。さっきは悪かったなぁ。って言うか、今何処なんだ? コーヘーと一緒に迎えに行くからちょっと場所を……」
ん? ケンちゃん、突然黙っちゃったけど、どうしたの?
「おい、早紀、泣いてちゃ分らねぇ。ちゃんと説明しろ、怒ってねぇって、大丈夫、怒ってねぇから。……うん、……うん……」
「よし、分った。とにかくそのまま動かねぇで待ってろ、必ず迎えに行くから」
どしたの? 何かあったの?
「コーヘー、悪ぃ、水上バイク出してくれっ! 早紀達のボートが転覆したっ!」