物置き
随分と走らされた気がする。気がする、じゃなくて走らされたんだ。
この息切れが決して僕の体力不足とか運動不足なのではないと釈明したい。
彼に付き合った心因的な物が多くを占めていると考えてくれたら嬉しい。
「さて…… ここがゴールかい?」
ぼうっと薄青く点滅しているウインドウを見やる。
どこからどう見ても小汚い路地裏の行き止まりにしか見えないんだけど。
周囲を見渡しても剥がれかけた壁に錆びた鉄パイプが這っていて、上はビル同士が密接していて光はほとんど入らない薄暗さ。おまけに迷い込んだ酔っ払いが捨てたのかゴミがそこらかしこに散乱している始末だ。
衛生的によくない。こんな所に替えのナビが在ったとしても絶対に装着したくない。
眼球だぞ?人間の急所の1箇所でデリケートなんだぞ?感染症とかも、不安だし。
>>ここは通路だ
>>入り口はお前の約30cm先の足元
説明不足にも程があるとは思わないか。彼流に言えば約1時間と28分ぶりのコミュニケーションなのに……。
足元だっけ?もう読めなくなった文字が刻まれてる今時珍しい汚れたマンホールと空き缶しかないのだが。
もしかして昔読んだ小説に出てきたようなマンホールの下の下水とやらを通って移動するの?
マンホールって僕の力で開くのだろうか。というか下水道なんて通りたくないんだけど。
「ねえ流石にマンホールの下の下水道を通るとかいうのはないよな?無しだよな」
>>下水道を通りたいのか
>>人間の考えることはよく分からない
>>残念だが下水道を通る希望は叶わない
>>マンホールの下が『物置き』になっている
「通りたくねーから念を押してるんだよ。分かれよ。分かってくれよ。あとその希望は未来永劫叶えなくていいからね」
どこをどう取ったら僕が下水道を通りたがってる奇人に見えるというのか。失礼な奴だ。
着眼点が違いすぎることに一々盛大なツッコミをいれているので重要情報がどうも僕の耳を右から左へ流れていってしまうようだ。
「えーと……マンホールを持ち上げればいいんだね?あんまり触りたくないけど」
よいしょっと手をかける。ん?掛からない?
感触が変だ。直に地面を触っているような、触れられない?
思い切って両手で力を込めて前のめりになる。片膝を立てて、もう片足はピッタリと地面に設置して、結構きつい体勢だ。
思わず顔が歪む。本当に今日は肉体労働ばっかりだな。
突然、ウインドウが僕の目の前に思いっきり接近して何かのコマンドのような文字列を大量に映し出す。
ゼロ距離でこれは目が滑る。というか目がチカチカするぞ。
僕のナビがそれに反応してコマンドラインを読み取ったようで、瞳孔が猫のように開く。
その瞬間、目の前で思いっきりフラッシュを焚かれたように光が走る。
「ちょ、ちょ、眩しい」
思わず体制を崩した、と同時に僕はマンホールの中へ頭から落ちていた。
正確に言うと先程マンホールと思われている物が穴へと変わったのだ。
>>持ち上げることは出来ない
>>網膜認証で開くドアだ
僕は疲れた。叫ぶことを諦めるぐらいには疲れている。
明日は筋肉痛に打ち身が加わるだろう。いや、既に打ち身は加わっている。
頭上には再び閉じたであろうマンホール。らしきもの。
「早く言えよ。ねえ、頼むからそういうことは早く言ってください。下手したら死ぬから。本当に」
不意打ちに使えるな、この穴。これもっと深かったり下にトラップでも仕掛けたら人が死ぬんじゃないか。
というかそういう用途で作ったとしか思えない。設計者は何を考えてんだ。
>>受け身があるだろう
>>落ちても問題はない
>>そもそも梯子がついていただろう
受け身とれてねーよ。あれだけ不意打ちでとれねーから。梯子?使う暇あったか?教えてくれ。
もうやめよう。この不毛なやり取りはやめよう。
ため息だけついて僕は次の議題にさっさと移ることにした。
「で、換えのナビはどこにあるの?そもそもここって……誰の部屋?」
>>部屋ではない物置き
>>お前はこの土地が誰の所有なのか分からないのか
「なんで僕が初めて来て、初めて見る場所の土地だか物置きだかを知ってると思うんだ」
「お前の物……ではなさそうなのは分かるけどね」
>>知らないのか
>>なら知らないままのほうが俺は良いと思う
「良いと思う」ってどういうことだ?
そして何かが引っかかる気がした。頭の端っこで、僕の記憶の中にぶら下がっている何かが揺れている。
ああ、思い出せない。それになんだ、彼らしくない。うん、彼らしくない。
急かすようにウインドウがまた目の前で光る。
>>取り換え用のナビを取れ
>>ナビはあの棚だ
青印で示された方を向く。ここに来てようやく全体を見回した。
なるほど、たしかに鉄製の壁で囲われたここは部屋というより物置きだ。
コンテナサイズのそこには周りにぐるりと棚が並んでいて所狭しと乱雑に使用用途不明の機械から一見全く役に立つようには見えない木箱、整備用の器具や今ではお目に書かれないようなモデルガンから謎の保存食のようなものまである。
奥に行くに連れて床にまで散乱している様々な物品の数々は部屋主のモラルを疑うと同時に生活力のなさ、全開だ。どれだけ命令してもナビからは物品の管理機能情報が流れてこない。もう、これは棚にラベル貼ったほうがいいんじゃないか。
僕はおもむろに床に転がっている六角形のプラスチックで出来たような物体に手を伸ばす。
>>下手に触らない方がいい
>>火薬の類も恐らくはある
「お前と喋ってると取扱説明書を先に読むことの重大さがよく分かるよ」
僕は速攻で六角から手を引っ込めた。
おとなしく青印に従って恐る恐る手のひらサイズの黒革張りのケースを手に取る。
周りのものには決して触れないように。
>>ナビはそれだ
>>側面にあるスイッチを押して中を開けろ
「爆発したりしないよな」
一応声をかけてからスイッチを押す。ここで爆発したら僕は神様を絶対に許さない。
ゆっくりとケースは開いた。
中には透明なゲル状の液体とそれに浸かっている黒色の網膜ナビ。
黒色?黒色なんて見たこと無いぞ。存在するものなのか?
普通は個人の眼色を損なわないために無色透明なものが配布されている。
もし目の色を変えたければナビにそういうお洒落機能搭載のアプリケーションを入れて登録すれば健康に害することなく好きな色に、視力だって自動補正してくれる。
「ねえ、これって安全だよね。安全なんだよな?黒なんて僕、見たこと無いんだけど」
>>元々持ち主が網膜認証から逃れるために特注で作らせたものだと情報に残っている
>>アプリケーションも必要なく眼色が変わる為変装にも役立つ
>>問題ない
こいつの問題ない、は大抵問題が山積みなのだ。
掘れば掘るほど山が崩壊して土砂崩れのち巻き込まれてろくな事にならないのは学んだ。
「他のは?ない?」
>>ない
こういう時だけどうして何時もより容赦なく冷徹に感じるのか。僕の心の持ちようなのか。
だが全てのナビは監視されている、と言っていた。ならばもう覚悟を決めてこの怪しげなナビをつけるしかないのだろう。いつまで逃げていられるかも分からないのだし。
「今のナビ、外すからね」
会話が出来なくなることを予測して声だけはかけておこう。どっかの誰かさんと違って僕は事前にちゃんと言う。報連相は大事だ。
ナビを外すのは6年ぶりだろうか。もうこれは体の一部を外すといっても過言ではないのでは。
それでも所詮は機械である。今は気にしている場合ではないのである。
――久しぶりに見た世界は真っ暗だった。
「何も見えない!!何だよコレ!!」
「僕、視力なくなったの!?」
えっとかはっとか言葉にならない声を出しながら冷や汗が止まらない。
暗闇は何よりも恐ろしい。僕の体から思考だとか体力だとか言葉だとかありとあらゆる物を奪っていく。
いちばん大切な正常に判断する能力も。
目の前には何の情報もない。周りには危険物が大量に置かれていると来ている。
早くナビをつけなければ。死ぬかもしれない。
今度こそ本当に覚悟を決めて手探りでゲル状の箱にカタカタと震える指を突っ込んだ。
何度か失敗しながらも、なんとか上手く黒のナビが片目にハマった。
「やった!!見える!!」
世界の色が半分戻ってきた!!僕はそれに歓喜してもう片方も装着する。
完全に完璧にいつもの世界だ。
安堵のあまり床にしゃがみ込みそうになる。
『何がやったのか、全く分からないが、視力が無くなったのではなく、この部屋に元から照明がついていなかっただけだぞ』
再び形の変わったウインドウが現れるがメッセージがなくなって代わりに流暢に喋る渋いイケボイスの男の声が聞こえた事だとか、部屋中の物の情報が開示されるようになった事とか、僕の眼色が茶色から黒に変わった事とか全てがどうでも良い程に。
僕は今、猛烈に恥ずかしい。
今度こそ膝から崩れ落ちた。