7 転機。流されるままになってみるのもいい
初夏が過ぎて、夏になった。
バンド活動に加え、バイトも決まり、僕はひどく忙しくなった。加えて課題だ。
夏休みという期間はちゃんと学校だからあるのだけど、大学とかに比べて、それはひどく短い。まあそれはそうだろう。こういうところは、実践的なのだ。
アハネは少しばかりの休暇を、故郷へと戻っていった。土産は、向こうのいい風景だそうだ。南の海。南の風。南の植物。僕も一度は行ってみたいものだ。
僕は、と言えば実家に戻ることもせず、ここぞとばかりに通常のバイトに加えて、単発のバイトを入れていた。夏場だけの稼ぎどころというのがあるのだ。
何かと物いりだった。それは生活費や学校の教材だけじゃない。
バンド活動には、金が要るのだ。
*
「おー、これ似合うんじゃない?」
そう言ってケンショーは、実に楽しそに、僕に黒い服を広げて見せる。
「えええええ? 何それ、…あ、網?…まさか、それだけになれって言うんじゃないよね?」
「お前が平気ならその方がいいかな?」
「やだ! 絶対に、やだ!」
そう必死で首を振ると、彼は不思議そうに肩をすくめた。
「変な奴。こないだ皆で海に行った時はさ、海パンいっちょで平気な顔してたくせにさ」
「…それとこれとは別だよっ」
そう実際、女じゃないんだから、別に上半身さらしたって恥ずかしい訳じゃないんだけど、逆に、そんな網あみスケスケのものを着るほうが、…下手に「着ている」だけに、そこから見える自分の肌が妙に白く浮き出て見えるのだ。
もともと決して色が濃いほうではないだけに。
それに海じゃ、別に皆が皆、僕を見ているという訳じゃない。だけど、今彼と一緒に選んでるのは、ステージ用なのだ。
六月あたりから、ステージに立つようになっていた。
さすがに、観客の戸惑いは見て取れる。
だってそうだ。こないだまでのヴォーカルは女の子だ。いくらその彼女と、僕がどこか似た声質だったとしても、男女の差はでかい。だいたいそうそう、ヴォーカルを男女取り替えるバンドはない。
それに僕は本当に素人で、それに加え、人前なんかでは滅多に歌ったことのない奴だ。もう、ステージに立つ、それだけで何か緊張して死にそうだというのに。
…だけど僕はまだ生きてる。
まあまだ、二度しかライヴをやっていないということもある。
一度目は、まあ仕方ない、と言ってもいい程のひどい出来だった。これで確実に、客が半分は減った、とベースのナカヤマさんは言っていた。
最初にバンドを見に行った日に居なかったナカヤマさんは、たぶんこのバンド、RINGERの中では一番冷静だと思う。…冷静、もしくは客観的。
だから僕に対して、一番厳しいことをあっさりと言うのもナカヤマさんだった。
「最初の二回くらいはいいさ」
口数が多い方ではない。だが口に出した言葉は、非常に重い。
「だけどめぐみちゃんが、この先ずっとこんな調子だったら、俺はケンショーが何って言おうと、ヴォーカル、別の奴を捜せって言うよ」
ケンショーはそれに対して苦笑した分だった。困ったのは僕の方だった。
この男は、何を根拠に、僕にそんなことができると思ってるのだろう。
むろん僕だって、成り行きとはいえ、そういうことになったからには、ちゃんとしたいと思う。だけど人前に出ることの緊張は、そう簡単にぬけるものではない。
だから、せめてもう少し自信が出るように、ととりあえず外見から変えることにしたのだ。
「つまりは少しばかりヨロイを派手にしようということさ」
そうすれば、多少なりとも相手を威圧することができるかもしれない。緊張も薄れるだろう、と。そうかもしれない、と僕も思った。
それで、こうやって買い物に来ている訳だが。
―――何だって黒、なんだ。
二回立ったステージでは、まだ海とも山ともしれないので、とりあえずメンバーの衣装の中から、着られそうなものを借りた。その時に、ケンショーの妹の美咲さんに初めて会った。
実際、どこをどう見ても、普通のOLさんだった。それもかなり上等な部類の。
背は僕より少し小さい。だけど何かもしっかりした体つき。運動でもしていたの? と訊ねたら、彼女はこう答えた。
「あたしは高校でスポーツ少女って奴だったからね」
なるほど、と思った。明らかにサイズの違う兄の服や、果てには自分の服やアクセサリを持ち出して、僕を着せ替え人形よろしく扱っていた。
そして彼女はこう締めた。
「…でもやっぱり何か違うわね。やっぱりちゃんとめぐみちゃんに合ったものを買った方がいいわよ」
「お前もそう思うか?」
「そりゃあね」
実際僕もそう思った。どうしても他人の服は、「借り着」の様になってしまう。
「いっそ、もっと派手にしてみたら?」
そして彼女のこの一言で、この店に居る訳である。
黒系御用達という奴だ。僕には縁は無かったが、話には聞いていた。なぜかサテンやレースもあちこちにある。それでいてエナメルも腕章もガーゼのTシャツも置いてあるから訳が分からない。
「とにかく、網だけ、ってのはやだ」
「じゃ上に何かも一つつけるか。でも俺的には、お前似合うと思うけど」
「…」
僕は顔をしかめる。何か、もやもやとした感覚がずっと胸にあるのだ。
…その、二回やったライヴが、それでも一応形になっているのは、僕がその時やっぱり動転していたからだ。
じゃあ何で動転していたか、というと。
ケンショーは、明らかに僕をそういう対象で見ている。そもそも最初から言われている。
だけどそう「見られている」という感覚は、一応男として育ってきた身には、どうにも訳が分からない。むずむずする。
それに、ライヴ前の役得、とばかりに抱きついてくる腕の強さが、だんだん強くなってきている気がする。何か、すごく、困る。
嫌いじゃない。嫌いじゃないけど―――
困る。何か、すごく。
だって、その後にケンショーが僕に何を欲しがってるのか、想像ができない。彼は僕が本当に嫌がったら、僕の声が大事だから、しないとは思うけど…
正直言って、もし彼に、真っ向からお願いされたら、自分が拒めるのか自信がなかった。
だけどそれが、彼を好きかどうか、というのとはまた違うような気がして。
そんな気持ちが、夏に差し掛かってから、堂々巡りをしていたのだ。
客足の増える夏休み期間には、ライヴハウスの主催のイベントという奴があって、RINGERもそれに参加するらしい。新規の客を集めるに、イベントはいい機会だ、と彼は言った。僕もそれはうなづける。
だからその機会を逃す手は無い。そのためには僕というヴォーカリストをもう少し前に押し出すことが必要だというのも判る。
「結局めぐみちゃんは自信が無いだけなんだよ」
オズさんは言った。そうなのだ。結局は。
何でこんなに自信が無いのは判らない。何とかしたいとは思う。ただ、足がすくむのだ。
何か、確かなものが欲しかった。それがその時の、僕の正直な気持ちだった。
だから、その時その服を買ってしまったのかもしれない。
買ってきて、夕方、さっそく僕の、相変わらず何も無い部屋で、衣装合わせをしてみた。
予算の問題もあったから、そう高いものは買えない。
印象の強いデザインのものは、あの店で買って、あとは、周りのも少し普通な店で、似たデザインのものを安く探し回った。探せばそれなりに結構あるものだ。
でも、さすがに網あみの袖無しのシャツとか、靴下を試着した時には、自分でも参った。
その上に艶のあるエナメルの、やっぱり袖無しのベストや、短パンをはいたとは言え、風呂場の鏡に遠く映る自分が、いったい誰なんだ、という気になったのは間違いない。
落ち着かないままに、じっと僕は鏡の中の自分をのぞき込んだ。
その表情に何となくアクセントが足りない様な気がして、この間美咲さんがくれた茶色の紙袋を開けてみた。
中には化粧品が入っている。彼女がOLとして自分にはまるものを「研究」したおりの残りだ、と言っていたが、僕はその中で、一番濃い茶色の口紅を取り出すと、くっ、と自分の唇に乗せた。
それを薬指で撫でる。下唇が急に厚くなったような気がした。
「どお?」
僕は不意に彼の方を振り向いた。
「似合う?」
その時僕は、自分がどんな顔をしていたのか、判らない。
ただ判っていたのは、それがスイッチだった、ということだけだった。
それは、僕が入れたのだ。他の誰でもない。
正直言って、ためらいはあった。ありすぎるほどあった。
一応僕は高校時代、いいなあと思っていた女の子は居たし、先輩の女生徒から、キスされたこともあった。
だけど男は無い。考えたことも無い。
周りの連中だってそうだった。口をついて出るのは女の子の話だし、したいと思う話はしても、されたいという話は聞いたことがない。
いや、口に出さないだけかもしれない。だけど、口に出さない、ということが、僕等の間では、何となく決まっていたような気がする。わざとじゃあないにしても。
僕は、と言えば。
最初にケンショーに抱きつかれた時に、びっくりはした。変だとは思った。だけど嫌だとは思っていなかった。
本当に嫌だったら、何か、身体は反応するはずだ。鳥肌が立つとか、逃げようとするとか。だけど奴に関しては、不思議なほど、それが無かった。
それが何故なのか、僕には判らなかった。
*
目が覚めると、辺りは暗かった。窓の外の常夜灯の光のせいで、部屋の中に何があるかくらいは判るけれど、何があるかくらいしか判らない。
蒸し暑い。夜だからまだましかもしれないけれど、夏は夏なのだ。窓を閉めてあるから、風が通らない。僕は窓を開けようと、身体を起こそうとする。…と、起きない。
腕が背にかかったままだった。暑いのはそのせいもあったんだ。
自分と相手の、体温と汗のにおいが、むん、と感じられる。こいつは暑くないんだろうか。
それでもゆっくりと、相手の腕を背中からはずすと、僕は起きあがり、立てひざで、窓を少し開けた。網戸になっている窓からは、ほんの少し、なま暖かい風が入ってくる。
それでも汗をかいた身体には、その風が心地よかった。
汗を…かいたんだ、とその時僕は思い出す。下唇に手を当てる。もう口紅がついている様子はない。
だけどその時、何がどうなったのか思い出して、僕は目を瞬かせる。
誘ったのは、僕だ。
似合う? と訊ねた僕に、ケンショーは似合う、と答えた。それだけだった。
だけどその僕の問いの中には、明らかに誘いの色があった。
具体的にこうなる、というのまでは感じていた訳じゃあない。さすがに何をどう「される」というのは、僕の想像外だった。
だけど「されたい」という気持ちが、その時、鏡の中の自分を見た時生まれたのも確かだ。ぎゅっと抱きしめられて、あちこちに触れられたい、という「されたい」願望。
奴はその誘いに乗ってきた。
驚く様子は無かった。僕を引き寄せて、ライヴの前の時の様に、いきなりキスをした。だけど違うのは、その時より、ずっと長いものだったということだ。
長いキスを、何度か繰り返した後、僕は奴の背中に手を回した。初めてだ。僕がそうするのは。
奴はせっかく着たばかりの僕の新しい衣装を、破らないように脱がせると、畳の上に広げた腕の届かないところへと投げた。
それから、のことはあまりよく覚えていない。目を伏せてしまったせいだろうか。
耳の後ろから首すじにそって、ゆっくりと、髪をかきあげる感じに何度も何度も撫でられた時に、じんわりとした、しびれにも似た感覚が肩から胸や腕に走ったとか、胸に当たった塗れた感触が動くたびに、腰の辺りにぴりぴりとした感覚が走ったとか、そんな断片的なことしか、僕は覚えていない。
だけどこれは覚えている。強くつかまれて、どうしようもなくて、はじけてしまった自分と、その後にあったことは。
想像してなかった。
いや理屈ではわかる。だって、それしかない。
だけど、じゃあどうやって、というと、僕の想像の外にあった。
だって。自分のもので考えても、そんな、無理だ、と考えるしかないじゃないか。女じゃあないんだから。女の、そのために作られた場所じゃあないんだから。
だからたぶんその時、僕は身体を堅くしていたんだと思う。
足の内側がまだ濡れていて、少しひやり、としていた。それが何でなのか、ぼんやりしていて僕には判らなかった。
後で冷静になって考えれば判るような、現実のひとつひとつのものごとが、僕の中で、その時にはつながって来なかったのだ。
濡れた何かが、そこに触れているというのは判る。でもそれが何なのか、僕には判らなかった。ただその濡れた何かは、はじめは周りをゆっくりと撫でていた。そうされているうちに、それは何だかひどく当たり前のような気がしてきた。
だから、それが中に入ってきた時も、それが当然なのじゃないか、と僕は感じてしまっていたのだ。
でも変な、感じだった。
自分の中で、何かが動いている。それは、すごく、変な感じだった。
痛くはなかった。少なくともその時には痛くはなかった。ただ、うろうろと僕の中でゆっくり、ゆっくり、でもかき回すように動くそれに、何かずっと気持ちが集まっていた。
と。その中の、何かの拍子に、僕は肩を反射的にすくめた。
動きが止まった。そして何かするっ、と抜き出される様な感触があって…その後に、少し押し広げられるような感覚とともに、入ってくるものがあった。だけど別に、痛い訳じゃあなかった。
痛かったのは、その少し後だった。
その前までの、何かとは、当たった感触が違っていた。
びっくりして、思わず身体に力が入る。すると奴は軽く目を細め、ふう、と軽く息をつくと、またキスをした。
繰り返されるそれに、ああこいつ巧いや、と僕は何となく考えを反らされた。そんなこと考えているうちに、身体の中に何かがめりこんできたのが判った。
そのめりこんできたものが、立ち止まっているのに、動いている。腰を抱え上げられ、合わせた胸の、そこから伝わる何かと、同じリズムだ。
僕は奴の首に腕を回し、ぎゅっと抱え込む。
落ちてしまわないように。
そんな言葉が頭に浮かんだ。何処へ? それは僕にも判らない。だけど、そうしていないと、何処かへ落ちてしまうような気がした。お願いだ、僕を捕まえておいてくれ。
そうして僕は、こう聞いたんだと、思う。
「…僕のこと、好き?」
そして奴はこう答えたと、思う。
「好きだよ」
ひどくあっさりと。当然のことの様に。
それでいいんだろうか、と頭の端で僕は思う。だけど頭の真ん中ではそれでいいんだと言う声が聞こえる。
ほら任せてしまえ。
それは心地よくないか?
自分のことを好きだと、はっきり言ってくれる相手の手は?
自分というものを求める、それの熱さは?
僕はその答えに対し、絡めた腕の力を強くすることで応えた。
その後のことはまたよく覚えていない。
ただもう、何度も、何度も、漏れてくる自分の声を持て余していたことだけが、記憶に残っている。そしてそのたびに、ケンショーは何かひどく楽しそうに感じられたのだ。
そしていつ終わったのだろう? 僕は気を失ったのか、それとも単に疲れて眠ってしまったのか、そのあたりもはっきりしない。
ただ一つ言えるのは、今は夜だ、ということで、隣で眠っているのは、僕を最初に抱いた男だ、ということだけだった。
少なくとも、僕のことを確実に好きな男、だった。