6 歌ってみる。キスされる。喉が開く。友人に心配される。
と、唐突にケンショーが音を止めた。合図する様にオズさんを見たら、彼もまた音を止める。
「こんな感じでさ、新しいの、どう?」
「珍しいけど。でもいいんじゃないか? 明るいし。春っぽいよな」
「や、どっちかと言うと、初夏っぽいのにしたいんだけどさ」
「初夏ね?」
オズさんはそう言うと、もう少し跳ね上がる様なリズムを叩き出した。
「サンバはねーだろ、サンバは」
ケンショーはそう言って笑う。サンバなのか。
「初夏っつーよりはそれは夏だぜ?」
「一足早い夏。それがいいんじゃないかよ」
「ふうん? ま、そーいやお前の好きなフュージョンバンドもそういうのやってたよなあ」
「ウチもインストありならさ、俺もやりたいけどさ」
あっさりとそんなことを言う。どうやらこのオズさんという人は、ロックばかりの人ではなく、結構に色んな分野に手を伸ばしているらしい。
「夏だったらさ、こうゆうもありだけどさ」
きゅいん、とケンショーはゆっくりとしたメロディを弾きだした。ふうん。わりと澄んだ音をわざと立ててるみたいだ。
「あとりめぐみは、春と夏はどっちが好き?」
「え、? あ、僕?」
不意に話を振られて、僕は戸惑う。にやにやとケンショーはそんな僕を見て笑った。
「…夏のほうが好き」
「へえ。ぼよよんとした感じだから、春のほうが好きだと思ってたけど」
「うるさいなあ。僕の勝手だろ」
「まあ怒りなさんな、めぐみちゃん」
ちゃん? オズさんはあっさりとそう僕を呼んだ。ただ不思議と、この人の言い方には嫌みがない。だから僕もその時には、すぐに反発する様な言い方をすることはなかった。
「でも、夏か。それもいいよな。真夏の夜の夢、とか」
そう言ってケンショーは、何処かで聞いたようなメロディを軽く鳴らした。何ってことない、僕も知ってる女性ポップスの大御所の歌だった。
「そういえば、めぐみちゃんは歌わないの?」
「僕は」
「俺は聞いたのよ? いい声なんだから」
「そりゃ判るさあ。少なくとも、お前の好きな声だ、ってことは俺だって判るよ。だけど、実際聞かないと、俺には判らないだろ?」
「僕はまだ」
「だからそれとこれとは話が別で、俺としては、ケンショーが今度気に入った声ってのが、聞いてみたいなあ、という単純な好奇心というのがあるんだけど」
そんなものかなあ、と僕は頬杖をつきながら思い、そんなものなのだろうなあ、と思い返した。
ケンショーという奴が、とにかく声に惚れてヴォーカルを探すタイプ、ということをオズさんは知ってるのだろう。たぶん。
「あの曲、歌えね?」
ケンショーは楽しそうに、実に楽しそうに僕に訊ねる。歌えるよ。はっきり言って。ただこの状態で、ぱっと頭の中に、あの曲と歌詞が浮かぶかは別だけど。
カセットやカラオケと、生伴奏では大きな違いがあるんだよ。
そうこう迷ってるうちに、ケンショーは、その曲のイントロをぽろぽろとかき鳴らす。
ふふん、という顔をして、オズさんもドラムをぱらぱらと叩き出す。
イントロと言ったところで、そのまんまではない。同じ部分を繰り返し繰り返し。
ほら、音楽の授業なんかでよくあるじゃない。あの、先生が「さんはい」とか言う前に、おんなじとこを延々繰り返す。あんな感じ。
目でそこにあるマイクを持てよ、とケンショーが語りかける。
僕はしぶしぶ、マイクを手にし、スイッチを入れた。
指先でぽん、と叩くと、音が部屋中に響く。「あ」とか軽く言ってみる。カラオケなんかでも思うけど、自分の声ってのは、やっぱり何か聞き慣れない。
その時、いきなり音の調子が変わった。ギターとドラムが、あのカセットの中のそれに変わる。
ええい。こうなったら。
僕は歌い出していた。
歌詞なんかうろ覚えだ。ぴんと来る言葉じゃないと、覚えられっこない。
曖昧な言葉と、曖昧な音を適当にいり混ぜながら、僕はとにかく声をマイクに通していた。
1コーラスだけか、と思っていたら、ああもう。
この男はちゃんと間奏のギターソロまで、ここぞとばかりに弾いてる。何か我に返ってしまうようでやだ。
じゃん… と音が途切れて、2コーラスめ、そして大サビに入る。
ああそう。ここだけは覚えていたんだ。気に掛かったから。
どうして、こんなこと考えるんだろう、と思いながら、妙に耳に残る言葉を、僕はあの音の中で考えていたことを思い出す。
最後の言葉を、僕は長く伸ばした。
ふう、と息をつく。何か胸がどきどきしてる。
「ふうん…」
オズさんは納得したような、しないような顔で僕を見た。
「確かにケンショーの好きな声だとは思うけどさあ…」
「何オズ、何か文句あるのかよ?」
「うーん… 緊張してる? めぐみちゃん」
「緊張? してるよ、当たり前じゃない」
頬が熱い。真っ赤になってるんじゃないか、と思う。
見て判らないんだろうか。酔ってる時ならともかく、しらふで人前で歌うなんて、学校の音楽の授業の時以来のような気がする。
「でもさあ」
オズさんはやっぱり難しそうな顔をする。
だから、僕を誘ったって無駄だと思うんだ。本当に、ど・素人なんだから。下手でも何でも、人前に立つことに慣れてる奴っているじゃない。僕はそういうのじゃない。そういうのには慣れてない。
だけどケンショーは、というと、そんな仲間の考えに気づいてか気づかずか、何か悠長にチューニングの狂いをきりきりと直してる。
だったら僕が言うしかない。
「だから、僕がヴォーカルってのは無理だよ。オズさん、僕ホントに人前で歌うことなんて、無かったんだから」
「そうだよなあ…」
そう言って、スティックの先で頭をひっかく。
「どうするんだよ? ケンショー」
どうすんだよ、とは僕も聞きたかった。何となく、手持ちぶさたで、僕はスイッチを切ったマイクを両手の中で転がしていた。するとケンショーは、にやりと笑って僕に言った。
「なあ、あとりめぐみ、も一度歌ってくれね?」
「同じだよ」
「いいから」
「一回だけだよ」
おっけーおっけー、とケンショーは何度かうなづいた。そしてその表情のまま、ちょいちょい、と僕を指で招く。何だろう、とマイクを手にしたまま。ひょい、と僕は彼のそばに寄る。
はい?
僕は何が起きたのか、すぐには判断できなかった。
ただ、自分の腹のところに何でギターの弦が当たってるのか判らない、と考えたことだけ気づいた。
だから、そのでかい手で、背中を抱え込まれてるとか、その顔が間近にあるとか、―――キスされてるなんてのは、離されてから、気づいたことだった。
「じゃあやるぞ」
僕は目を何度もぱちくりとさせながら、それでもマイクのスイッチを入れていた。
何なんだ何なんた何なんだ。
しかし無情にもイントロは耳に入ってきて、僕の頭は、ああ歌わなくちゃ、という考えにあっという間に支配された。マイクを握りしめ、音に耳を傾け。…ここだ。
え?
その時驚いたのは、まちがいない。
あれ?
声が、出る。歌詞が、口をつく。
あれあれあれあれあれあれ。
喉が開く、という言葉があるけど、ああいう感じ。
ぽん、と音が前に出てく。
だけど頭はまだ何かわやわやとしていて、渦なんかも巻いてるから、何なんだろういったい。
えーとさっき何があった?
…とか考えてるうちに、曲が終わった。
「はれ、ま」
あきれたようにオズさんが、スネアドラムに肘をついて、身体を乗り出してきた。
「めぐみちゃん、さっき手ぇ抜いてた?」
「…や、そんなことは…」
僕だって知らない。何なんだいったい。
「おいケンショー、何だよいったい」
ふっふっふ、と問われた本人は、思った通りとばかりに顔いっぱいに笑みを浮かべている。
そしてその顔を見てるうちに、僕はさっき何が起こったのか、ようやく理解した。
「あーっ!!」
「やっと頭が把握した? あとりめぐみ」
「ケンショーあんた! さっき!!」
「つまりだなオズ、この子は下手に考えすぎると駄目なんだわ」
「ほー。なるほど。それでさっきあんなことを」
…「あんなこと」に関しては別にショックも何も受けないような口調でオズさんはうなづく。
「酔ってた時に声を聞いたし。その時もどうも別人入ってたしなー」
一部始終見てたって訳か。何となくくやしい。
「だ、だけどって、ああいうことすることないだろ!」
「ん? 嫌だった?」
「って…」
嫌も何も。僕の頭の当座の許容量を越えてたので、それを考える余裕もなかったとしか言いようがない。
「って、あれケンショー、今まで何も手ぇ出してなかったの?」
「だから俺、今回は慎重だって言ったでしょ」
「お前は言ってないよ。俺がそう批評しただけじゃないの」
「同じこと同じこと」
何か違うと思う。
「ま、でも歌ってみて、どうだった?」
どうだった、って。
「…覚えてないよ」
ふふん、とケンショーは笑った。
「それって、覚えてないほど気持ちよかった、ってことじゃないか?」
「勝手に決めつけるなよ!」
僕は言い返していた。実際僕にだって、さっぱり判らないんだ。
「だけどさ、声が、前に出る感じって、いいと思わない?」
「…それは… いいと思うけど」
「だろ?」
おやおや、という顔でオズさんは肩をすくめた。
「だからさ、あとりめぐみ、正式とかそういうのはちょっとおいといて、しばらくその声を出す感じ、という奴を味わってみるのも悪くないと思わない?」
そこで僕がはあ、と答えてしまったのは、…なりゆきだろうか?
*
「なりゆき、ねえ」
課外の時間に、僕が出し損ねていたデッサンの課題をやっていると、アハネはあきれたようにつぶやいた。
ここのところおかしかった僕を彼はずっと心配していたらしく、何かにつけて様子を聞いてきた。
「だけどアハネは、すぐに断れとか何とか言わなかったじゃない」
目の前にある石膏像に視線を集中させながら、僕は彼に向かって言う。
「まあね」
「何で? 僕は何度も奴の誘いを断ってたって言ったじゃない」
「だってお前、別に嫌がってなかったからさ」
「…なかった?」
「少なくとも、俺にはそう見えたけど」
空いていた椅子に逆座りになり、足をぶらぶらさせながらアハネは言う。
「俺が何か言ったって、お前がそうしたいのなら仕方ないし」
「…だって」
「あ、でもね、アトリ、俺は一つ心配なんだけど」
「心配?」
「好きならいいんだ。どんなことだってさ。ただ、お前、流されてないか、と思って」
「流されて」
「そのケンショーって奴、何かお前の話聞くと、すごい強引な奴っぽいじゃないか」
だろう、と僕も思う。
さすがに口説かれたとか、抱きしめられたとか、キスされた、とかいうことは言わなかったけれど。さすがにそれは、この友人には言いたくなかった。
それに、言いたくなかったのは、それだけではない。何を僕が戸惑っているかって…
「強引… だよ。それが?」
「お前がその強引さに引きずられてしまわないかって思ってさ」
「…どういう意味?」
「どういう意味って」
僕は顔をアハネの方に向けた。彼は少しばかり困った顔をすると、こめかみを軽くひっかいた。
「…うまく、言えない」
「…」
「何か、だから、それでお前がもしかしたら、困ることになるんじゃないか、って感じはするんだけど、俺にはそれがどういうことなのか、いまいちよく判らないんだ」
そういうアハネの顔は、ひどく真剣だ。真剣に僕のことを思ってくれているのは、よく判る。だけど言っていることの意味がやっぱり僕にはよく判らなかった。
「で、ヴォーカル、引き受けるんだな?」
「とりあえず… 音自体は好きだし」
「うん、好きならいいんだ。歌うことも」
「歌うことは、好きだ… と思うよ」
「好きである、ならいいんだけど」
アハネはそう言って、目を伏せた。
実際、彼の危惧がどこから来るのか、何を言おうとしているのか、僕にはそれからもずっと判らなかったのだ。