5 声に惚れる男にスタジオに連れていかれる
「何?」
ケンショーは黒いジーンズのポケットに手をつっこみ、くわえ煙草のままこちらを向いた。僕は、と言えばスーパーで買ったネーブルオレンジが安かったので、袋をがさがさ言わせてる。
「前のヴォーカルって、どんな子だったんだよ」
「前の… ああ。いい子だったなあ」
「そういう意味じゃなくて、ヴォーカリストとして」
どうだったかなあ、と奴は煙草を空に向ける。
「あとりめぐみは、どう思った?」
奴は相変わらず、僕をこんな風に呼ぶ。何か考えるところがあるのか、何も考えていないのか、僕にはよく判らない。
「どうって?」
「テープの中の」
「ああ… うん、何か、耳に残るね。最初は別にどうってことなかったけど」
「そ。無茶苦茶歌、って奴が上手い子じゃなかったけどさ」
「上手くはなかったの?」
「俺、そうeう部分が欲しい訳じゃなかったからさ」
おや。何か少し真面目な顔になっている。そういう顔をしている時には、この男は、結構顔の中身のバランスはいいので、いい感じなのだけど。
「のよりは… ああ、前のヴォーカルだけど、その前のヴォーカルの奴の友達だった」
うわ。それは修羅場を見そうな。
「時々練習を見に来て、差し入れとかしてくれたんだけど… そんな時に、一緒に皆で打ち上げで、カラオケ行ってしまったんだよな。それで歌ってしまったのが悪かった」
「カラオケばっかじゃん」
「や、その前のハコザキって奴は、他のバンドから引き抜いた」
「…あんた滅茶苦茶だね」
「滅茶苦茶結構。俺は、欲しいものは欲しいって言いたいからね。恨まれようが何だろうが、一度ああいう中でやってこうと思ったら、欲しいものは欲しいって言わないと、絶対手には入らないからさ」
「そういうもの?」
「あとりめぐみは、そういうものって、無いかね?」
彼は苦笑する。
「これが無かったら、自分はおかしくなるだろうってもの」
「ケンショーは、あるの?」
「ある。あるから、こんな髪なんだろ」
そうだろうな、と思う。
いくら今の時代、髪の色抜いたり染めたりするのが当たり前になっても、ロン毛という奴が市民権を得ても、この頭でサラリーマンはできないだろう。
ついでに言うなら、この目の前の男がサラリーマンをやってる図など、僕には想像ができない。
「だからさ、俺は俺の中を、引っかき回す様な声だったら、それを見つけたら、絶対に、手に入れたいと思うよ。そうすることで、俺のバンドの音が、今まで以上に良くなるなら」
「でも、そののよりって子、上手くは無かったんだろ?」
「上手いのどうのが欲しいだけだったら、ライヴハウスにメンボ出して、それで結構見つかるよ。ウチ結構長くやってるから、中には一緒にやりてえって言ってくる奴もいるし」
そうなのだ。なのに何で僕なのだろう。そういう疑問もあるのだ。
「でも、そうeうのじゃないんだ」
「だったらどういうのなんだよ」
「判らん」
僕は思いきり眉を寄せた。
「俺だって、何だってそういう声に惚れてしまうのか、よく判らん。だけど、俺の耳に、確実に届く声、ってのがあって、俺は、問答無用で、その声に惚れてしまうんだ。そういうのって、俺の頭でどうこう言えることじゃないだろ」
「ちょっと待て、惚れる、って」
「ん? 言葉のまんま」
思わず立ち止まる。袋が手から落ちた。何やってるんだよ、と奴は言いながらそれを拾って僕に手渡す。
「声に、だよね?」
「まあ、そうだけど」
奴は手渡しながらそこで一度区切る。
「けど、俺声が良ければ中身にも惚れるけど」
ちょっと待て。
「何それ、あんた、って」
奴は煙草を足元に落とすと、かかとでぐい、と踏みつぶす。
そして、決定的な一言を突きつけた。
「言葉のまんまだけど」
僕がもう一度袋を取り落としたのは言うまでも無い。
*
少なくとも、それは路上で言うセリフではない、と僕は思った。だけど、では何処で言われればいいか、というと、それはそれで困る。
「痛」
思わず左手の人差し指を口元にやる。ネーブルオレンジを切っていたので、その血にすらどこかオレンジの香りがするようだった。
そういえば、ばんそうこうの一つも持っていないことに僕は気づく。仕方がないから、ティッシュを何枚か重ねて、その上に課題用のメンディングテープを巻いた。明日コンビニに寄って買わなくちゃ。
四つ切りして、皮をむいたネーブルを口に運びながら僕は、動揺している自分を改めて感じた。
ケンショーは否定しなかった。
当然のことのようにあっさりと、僕のことも、声に惚れたから、人間にも惚れてしまったのだ、と断言した。
どうしてそんなこと言い切れるんだろう、と思う。
だって、声は声で、人は人じゃないか。外見とか趣味とか、話す内容とか、そういうのひっくるめて、それで好きな人は好きになるんじゃないんだろうか。
少なくとも、僕はそうだった。
中学や高校の時は、そうだった。可愛いと思った女の子も、可愛いだけでは好きにはなれなかった。
僕は動揺しつつも、そういう意味のことを奴に言った。
だが彼はこう答えた。
「だからさ、そういう色んなものが、全部俺には、声の中に聞こえる訳よ」
よく判らない。その理屈。
よく判らないから、僕はひどく動揺した。そしてその訳の判らない気分のまま、奴は僕を部屋の近くまで送ってきて、いつもの様にさっさと別れた。
僕は余計に判らなくなる。
*
「…ケンショー、あんたって、ホモ?」
不意に僕は聞いてみた。
駅前のファーストフード店の中でするにしては、かなりな質問だとは思う。周囲には、学校帰りの少年少女がいっぱい。特に注意したいのは、少女達。集団になると、恐怖すら感じるくらいのパワーがある。
だいたい、さっきから、あの窓際のアイボリーのセーターの制服の集団が、僕等のテーブルにちらちらと視線をくれては、何かぼそぼそ言い合って笑ってることも知ってる。化粧けの無い、何かしゃべり方に特徴がある集団。「いまどきの女子高生」ではなく、どこか芝居かかった口調の。
けどきっと、この近眼野郎には、そんな集団など見えないのだろう。
駅前には何軒かファーストフード店があるのだけど、僕が入ったのは、その中でも一番安い店だった。と言うか、今日は安かったから入ったのだ。バーガーを二つとポテト、それにコーラのLを注文すると、適当な場所についた。
「唐突だな、あとりめぐみ」
ケンショーもほとんど同じものを自分の前に置いていた。違うのは、彼の前に置かれているのはコーヒーだ、ということだけだった。
長い、指輪を二つつけた指が、ポテトを無造作につまんでは、口に放り込む。安かろうが何だろうが、暖かいうちのポテトは美味い。
「唐突かなあ? だって、あんたがここ一ヶ月ほど、僕に言い続けてることって、結局、それじゃあないの?」
翌日からゴールデンウイーク休暇、という日のことだった。
彼が最初に僕を捜し当ててから、もう三週間がところ経っていた。
僕はその間ずっと断り続けていた。とは言え、それが本当に断りの言葉に聞こえたのかは怪しい。だって、結局僕はこうやって、この男の前で食事なんかしてしまっている。
だいたい、今から行こうとしているところなぞ、彼らの練習するスタジオなのだ。
ケンショーはいつもこう頭に置いてから僕と歩いていた。
「別に嫌ならいいけど」
別に嫌という訳ではないので、練習を見に行くのである。ヴォーカルを引き受ける引き受けないとは別の話なのだ。バンドの練習を見るというのは初めてだったし、そういう意味では興味はある。
だいたい僕はまだ、この男が本当にギタリストなのか、頭の隅で信用できない部分があった。ギタリストと名乗って、誰かの演奏のテープを聞かせているだけなのかもしれない、という気もあった。
テープに入っていた曲のギターについて言うなら…たぶん、結構あれは好きな音だ、と思う。
僕はギターの音についてあれこれ言える程音楽を聴いている訳じゃあないから、「好き」か「嫌い」か「どーでもいい」としか答えられないけれど、その三つの中でどれか、と聞かれれば、その音は「好き」の部類だった。
圧倒的に「どーでもいい」が多い僕としては、慣れてしまったとはいえ、珍しいことだ。
でも「慣れる」こと自体、そうなるまで聞き込んでしまった、ということがすでに「好き」の部類に入っているのかもしれない。そう、あの演奏のギターは、僕は好きになっていた。
ただ、そのギターと、この目の前の男がそのままつながるとは、まだ僕は信用していないのだ。
あの歌は、とっくの昔に覚えてしまっている。歌おうと思えば、歌える。
けどバンドのヴォーカルをする・しないとは別なのだ。
少なくとも僕はそう思っていた。
それに。
それで最初の質問となる。
「ま、そりゃそうだけどさ」
そう言いながら、奴はポケットからライターと煙草を出す。
「食ってる時に吸うなよ」
「嫌いか?」
「メシの時にはやだ」
ふうん、と言いながら彼は一度出した煙草をポケットに戻した。
「妹と同じことを言う」
「妹さん、居るんだ?」
「ああ。あとりめぐみより、少し上だったかな? 頭いい奴でな」
「あんたには、似てないんだ」
「似てない似てない」
目を細め、ひらひら、と彼は手を振った。
「俺なんかと違って、学校の時も優等生だったしなあ。最近OLになったけど、俺なんかじゃ絶対近寄れないような、ちゃーんとした企業にすんなり入ってる」
へえ、と僕はうなづいた。
「あとりめぐみには、きょうだい居ねえ?」
「兄貴が居るけど」
「ふうん。それはいい」
「何が」
「あんた地元から離れてるだろ? 兄貴がまっとうだからそうやって自由なことできるんだろうな」
「…そりゃ、そうだけど」
「妹はさ、俺がこうだから、羽目を外すってこと、しなかったね。全く」
そう言って、彼はバーガーにかぶりついた。食わないの? とこっちにも訊ねたので、慌てて僕は手を出した。
*
「よーっす」
連れて行かれたのは、ふた駅向こうの貸しスタジオだった。ケンショーがいくつかある扉の中のひとつを開けたら、中からおお、と声が掛けられた。
「遅いぞ、ケンショー」
そう言って、ドラマーはどどどん、とバスドラムを鳴らした。
「悪い悪い。ちょっと今日は連れありでさ」
「連れ?」
ドラマーはひょい、と立ち上がる。そしてケンショーの後ろに居る僕を見つけると、ふうん、と首を傾げた。
「…小さいなあ」
「悪かったね!」
反射的に僕はそう言い返していた。相手は目を丸くする。
「あ、ごめん。えーと、君、こいつの連れ?」
「…あとりめぐみです」
つい、ケンショーが僕を呼ぶ時の口調で自己紹介をしてしまったことに僕は気づいた。あ、と気づいてももう遅い。学校の友達だったら、名字を僕は強調していたけど、こうなるとまず名前のほうを呼ばれるのだ。
「めぐみ君かあ。俺はオズ」
「何か映画監督に、そういう人いなかったですか?」
「あ、良く知ってるじゃない。よかった、魔法使いとか何とか言われなくて」
「…魔法使い? …ああ、オズの魔法使い」
「そ。ガキの頃なんかそればっか。やだねえ。それに比べて俺はうれしいよ」
別に知ってるという程ではないけど… 時々遊びに行く寮では、アハネの友達が古い日本映画好きで、小津安二郎のシリーズとか、延々BGVにして麻雀を教えてくれたことがあったのだ。
もっとも、教えてはくれても、どうも弱すぎる僕には、皆苦笑いを向けたけど。
「で、ケンショー、今日連れてきたってことは、この子、お前が最近言ってた?」
「まあね」
「でも連れてこれたってことは、脈あり、って思っていいのかなあ?」
オズさんはケンショーに問いかけた。
「僕はまだ引き受けるなんて言ってないからね」
そして僕は口をはさむ。そのまま流されてはたまったものじゃない。
「あらら。お前にしてはずいぶん慎重じゃない」
ケンショーはそれには黙ってふっふっふ、と笑っただけだった。
「ま、その話はちょっと棚に上げておこうや。どうしてもこのあとりめぐみは、俺がギター弾いてるってこと信用しないようだからさ、ちゃんと証明してあげたいな、と思った訳」
「へえ。お前からギター取ったら、確かにロクな奴じゃねーし。それは確かに口説くにはいい方法だ」
ほめてるのかけなしてるのか判らない口調で、オズさんはそんなことを言う。
「…で、ナカヤマはどーしたの?」
「あ、今日は来ないって」
「あんのやろ」
ケースから出したギターをチューニングしながら、ケンショーは声を張り上げた。
「仕方ないだろ? 奴だってバイトがあるし。ヴォーカルがいないうちくらい、ちょっとでも時間増やさないと、部屋代に響くって言ってたからさ」
「…ふん」
僕はそんな会話を聞きながら、スタジオの中をぼんやりと見渡していた。
窓の無い、部屋。昔、学校の音楽室や放送室とかがそうだった、穴の開いた壁。大して大きくはない。奥にドラムがあって、アンプが数台置かれている。そしてマイク。
「ま、いっか。オズ、ちょっと16分でリズム、くれね?」
「16分? おっけー」
そう言うと、オズさんはスティックを四回鳴らした。ハイハットで16分音符を叩きながら、四つに一つ、スネアドラムを鳴らしてくという奴だ。元々のテンポは歩くよりやや速い程度で、ちょっと前乗りってとこかな。身体が少し反応する。
ケンショーはそこに突然滑り込んできた。聞いたことがあるような、無いような音がドラムの上にかぶさる。
穏やかとはさすがに言えないけれど、尖りきってもいないメロディが、部屋中に響き、その調子に合わせるかの様に、オズさんのドラムは、16分の上に飾りをつけていく。元々が華やかなリズムだけあって、そこに飾りをつけると、きらきらした印象になる。
ふうん、といつの間にか僕は、パイプ椅子の背に頬杖をつきなから、二人の演奏に見入っていた。