17 飛び出し、ふらつく彼を、ケンショーの妹が拾う
本当に、肌寒かった。
風が冷たかった。
どうしよう、と思った。
もう一枚上着を持ってくれば、良かったかもしれない。
でも、一度出たのに、戻るのは、嫌だった。
ここで戻ったら、僕は出ることができなくなる。そして次に出るのは、きっと、彼に捨てられる時なんだ。
それだけは、嫌なんだ。
でも、本当に寒い。
こんな時間じゃ、何処の店も開いてないだろう。コンビニは… でも近所のコンビニに行っても仕方ない。
…って、一体、僕はどこに行こうというんだろう。
出たはいい。だけどどこへ行こう。行くあては無かった。
肩にかけたバッグをぐっと掴むと、僕はとにかく歩き出した。
歩いていれば、そのうち身体が暖まるだろう、と思った。思わない訳にはいかなかった。
考えるな。今考えたら、凍える。
今が春であっても、今何かを考えたら、僕は凍えてしまうだろう、と思った。
やがて上った朝日が、次第に熱を持ち始める。そしてまぶしい。
どのくらい歩いたろう?
そこにあった公園にふらふらと僕は入って行った。座れるところというのが、都会ではどうしてこうも少ないのだろう。だから皆、地べたにそのまま座り込むんだ。きっと。
自販機の濃いミルクティを買って、両手で持ちながら、それを僕はゆっくりとすすった。
考えるな、と自分に命じた頭は、何となくぼうっとしている。順序だった考え方ができない。
今は何時だろう。公園の外の道を、学校へ行く子供達の集団の声が聞こえてくる。僕はそれでも身動きもできずにずっとそこに座り込んでいた。お腹も空いてるのかもしれない。
昨日は確かに一生懸命食べたけれど。それでも朝が来れば目は覚めるしお腹は空くんだ。僕は妙におかしくなる。
凍り付いていたような目のあたりが、ゆっくりと解けだしてくるような気がした。苦笑いをする。せずにはいられない。
さあどうしよう。とりあえずは、何か食べなくちゃ。
そう思って僕は立ち上がり、公園を出ようとした。
と。
出ようとした僕の足は、その場に釘付けになった。
「美咲さん…」
「やっぱりめぐみちゃん? なのよね? どうしたの? こんな時間に」
通勤用の服に、サンダルをひっかけている。ずいぶんと急いでいるような、姿。今の今まで、会社に行くしたくをしていたのだろう。
「どうしたの、って… 美咲さん、今から会社でしょ。急がなくていいの?」
「ちょっと… 何、言ってるの?」
どうしたというのだろう。どうして、そんな風に、兄貴と何処か似た綺麗な顔を、歪ませてるんだろう。
「こっち、いらっしゃい!」
彼女は僕の手を思い切り引っ張った。何って力だ。それとも、今の僕には、女性の、そんな力に抵抗する程にも、力は無いというのだろうか?
ぐいぐい、と引っ張られるようにして、僕は彼女のマンションにと連れて行かれた。兄貴のものとは違い、割と新しく、小ぎれいな、白いクリームの様な壁の。
扉を開けたら、女の人の部屋のにおいがした。化粧品や、シャンプーや、それに彼女自身の、何か。
「美咲さん」
「ほらこれ持って!」
彼女はクローゼットからバスタオルと大きめのTシャツを取り出すと、僕に押しつけた。
「…どうしたのいったい」
「いいから。とにかく、シャワー浴びて」
何だろう。とにかく、僕は言われるままに、手渡されたそれを持って、バスルームへ入っていった。
「使い方、判る? …ああ、シャワー出せばいいだけだからね。そうしてあるから、適当に、使って」
適当に、って。
「脱いだらそこに入れておくのよっ」
有無を言わせぬ口調で、彼女は僕に命じる。
とにかく今逆らったところで、僕には何も反論ができないのは確かだ。だったら、仕方がない。
ごそごそ、とケンショーのところよりはずっと広い風呂場の脱衣場で、僕は服を脱ぎだし… 彼女が何を言いたかったか、理解した。
思わず手で口を塞ぐ。そんなことも、気付かないほど、僕は呆けてたのか。
「乾燥機、もう少しで仕上がるから、もう少し、そのままで居てよね」
風呂から出ると、美咲さんはいつの間にか、通勤用の服から、部屋着に着替えていた。
「仕事は?」
「あたしは今日は、いきなり風邪を引いたのよ」
そう言いながら、彼女は長いTシャツ一枚の僕をタオルや毛布でくるむと、テーブルの前につかせ、次々に見事な朝食を用意した。
ミルクを半分入れたコーヒーが湯気を立てている。チーズを乗せたトーストをオーブントースターから出し、フライパンからは、半熟のスクランブルエッグ。電子レンジがチン、と音を立てると、ブロッコリが湯気を立てる。そこにマヨネーズをくるり、と彼女は乗せた。
「ほら食べて。食べるの」
食欲は。風呂から上がったばかりだし、あまりない、と思っていた。
だけど、ふわふわと金色に輝くスクランブルエッグを口に入れた時、僕は自分がひどくお腹が空いていたことを思い出した。
チーズトーストを二枚と、コーヒーのお代わりをし、デザートのフルーツヨーグルトをたいらげてしまうまで、僕はものも言わずに、ただひたすら食べていた。ひどくそれが美味しかった。身体の隅々まで行き渡るように、美味しかった。
「もうコーヒーはいい?」
何も言わずに、時々音を小さくしたTVの画面を眺めながら、ミルクティを口にしていた彼女は訊ねた。僕はもういい、と答えた。
「そう。ならよかった」
「…ごちそうさま、でした」
ぺこん、と僕は頭を下げる。
「服… もう乾いたかな…」
「逃げてきたの?」
不意に彼女は問いかけた。はっとして僕は彼女を見た。
「そうなのね?」
「逃げてきたって、僕は、あ…」
「…ああ、別に、ケンショーが嫌なことしてどうの、って言う気はないわよ。こう言っていいのかな? 『またか』」
「美咲さん」
「長く続いてほしい、ってあたしも思ったんだけど、やっぱりだめだったんだ」
彼女はTVのスイッチを切る。途端に、部屋の中がしいん、と静まり返った。部屋の空気の中に漂っていた、毒にも薬にもならない声が音が、すっ、とその時かき消えた。
「美咲さんは… そうなる、って思ってたの?」
彼女は黙ってうなづいた。
「それでも、のよりちゃんよりは続くと思ってたし、今度は、メジャーに行くまで続くと思ったのよ」
「メジャーに行く、って話、出たんだ」
ああ、と美咲さんは声を上げた。
「とうとう、やったんだ… あの馬鹿… でも、どうして、なのに?」
彼女は首をかしげ、少し眉を寄せた。
「僕はメジャーで、通用しないから」
不思議に、言葉がすらすらと出た。
「でもあたしはめぐみちゃんの声も歌も、好きよ? 今までの歴代のヴォーカルの中では、一番よかったと思うわよ?」
「それでも」
僕は首を横に振る。
「うまく、説明できないんだけど、僕は、駄目なんだ」
「駄目って」
「駄目なんだ!」
だん、と僕はテーブルの上で、こぶしを握りしめ、叩きつけた。
「僕は、ケンショーが思うように、歌えないよ」
「それはそうよ。めぐみちゃんは、あいつじゃないもの」
「だけど、僕は、僕の言葉なんか、持ってない。ケンショーのように、伝えたいことなんて、ない。歌でなんて、絶対にない。そんなうた、誰が聞きたい? 少なくとも、僕は聞きたくはないよ。僕は僕が聞きたくもないような歌、人に聞かせるなんてやだ。そんなのは、何か違う。何か違うよ!」
一息に、僕は吐き出した。
「…あ… ごめんなさい」
いきなり感情をぶつけてしまった。だが彼女は驚くこともなく、僕をじっと見ていた。
「…何で」
彼女の唇が開く。
「何で、あの馬鹿は、こうやって、いい子をどんどんつぶしてくんだろうね」
「つぶしてなんか」
「少なくとも、傷つけてるじゃない」
「違うんだ。僕が勝手に傷ついてるだけで」
「それでも、あいつに会わなかったら、あいつが手を出さなかったら、そんなことはなかったでしょ?」
「それは…」
それはそうだけど。
「あいつは、いつだってそうよ。自分が好きでやっているのはいいわ。だけどそれで、傷ついてく人がいるっての、絶対知らないのよ」
「美咲さん?」
そう言えば。ケンショーが時々思い出したようにつぶやく、彼女への負い目を僕は思い出す。
「美咲さんは、ケンショーが、嫌いなの?」
「嫌いか好きか、と言われても、困るわね。どんな馬鹿でも、嫌になっても、とにかく、兄貴なんだから」
そういうものなんだろうか。
「あたしはね、めぐみちゃん、あいつに関しては、ひどく自分がねじ曲がってるると思うわよ」
そんな困った顔をしないでほしい。綺麗な人が辛そうな顔をすると、僕は困ってしまう。
「でも、ケンショーは、あなたに申し訳ないと思ってるよ」
「そりゃあ思ってるでしょうよ。でも、思ってるからって、あいつは何をするというの? 思ったから、いわゆるまっとうな生活を、奴がすると思う? 髪を切って、色も黒にして、ううん茶髪だっていいわよ。とにかく、毎日あのくらいの歳の連中がするように、定職について、仕事にはげむ、なんて生活。あいつにできる訳がないじゃない」
彼女は首を横に振る。ふと僕の中で、故郷の兄貴の姿がよぎった。
「それは、僕だって…」
「めぐみちゃんは、違うわよ。あなたはもともと、そういう人だったじゃない。ケンショーに会うまでは、ちゃんと毎日学校へ行ってたでしょ? そういうのじゃないのよ。兄貴は、生まれつき、そういう男なのよ。ああいう男は、そんな『まっとうな』生活をさせたら、絶対おかしくなるわ」
「でもバイトは真面目で」
「それは、バンドがある上での、仕事でしょ? ねえめぐみちゃん、普通のひと、っていうのは、そういうのは、無いのよ」
「あ」
「そこまで賭けられるものがある、絶対捨てることができない、身体も心も支配されてる、何を捨てても、犠牲にしても仕方ない、どうしようもないものがあるひとなんて、ほんの少しなのよ?」
ぴぴぴ、と乾燥機が、終わりを告げる音を鳴らす。だけど僕たちは、どちらもそれに気付いた素振りを見せなかった。
「だから、あの馬鹿は、時々、そうでないひとまで、自分の同類と間違ってしまうのよ」
「僕が」
「めぐみちゃんは、そういうひとじゃない。皆知ってる。知らなかったのは、あの馬鹿くらいなものよ」
「知ってた?」
「誰だって気付くわよ。ノリアキ兄は、ああいう奴だから、ひとを好きになったらそれも本気で、見境がなくて、だけど、だから、皆それに巻き込まれるのよ。それが本気だから。冗談じゃなく、本気だから」
「のよりさんも?」
「会った? 彼女に」
うん、と僕はうなづいた。
「そうよ。彼女も。彼女も、とてもあいつのことが好きだと言った。けど、どうしようもない、って言った。繰り返しなのに、あの馬鹿は、それがどうしてなのか、どうしても判らないのよ」
「じゃあ美咲さんは?」
どうして僕は、そう聞いてしまったんだろう?
「え?」
「そんなケンショーを、ずっと、見てきたんでしょ? どうして? いくら兄貴だって、いつか、愛想つかしたり、放っておきたく、ならない?」
「…めぐみちゃん」
「ケンショーは言ってたよ。自分はそれでも長男だから、期待されちゃって、部屋なんかも、頼みもしないのに、妹より大きくて、とか、妹に、結局、自分ができないことを押しつけてしまったみたいだ、って」
「あの馬鹿が、そんなこと言った?」
「時々」
「そうね言うかもしれないわ。だってあいつは、実際そうだったもの。どんなにあたしが真面目にがんばったところで、何のもめごとも起こさないで、いい子で勉強もできて、ちゃんとしたとこに就職できたとこで、うちの連中は、あたしにいつか頼ろう、なんて絶対思わないわ。それがいいか悪いかはおいておいて、あいつに頼るか、そうでなきゃ、自分たちで何とかするか、なのよ。老後の心配とかもね」
吐き出すように、彼女は言った。
「あたしは、いつも期待なんかされなかったから。自由にさせてくれたわよ。自活の道を見つけてさっさと独立しろ、ってうちだから」
「美咲さん」
くくく、と彼女は顔を隠して笑う。
「いい気味、と思ったわよ。その時にはね。だってそうじゃない」
「…」
僕は困った。困ってしまった。だって、今まで見てきた、彼女の中に、こんな嵐があるとは、思わなかった。
僕は椅子から腰を浮かすと、テーブルの向こう側の彼女の手に触れた。
彼女はふっと顔を上げた。泣いてるか、と思ったんだけど、そうではなかった。そんな跡は、どこにもない。
「どうしたの?」
彼女は僕の手を掴んで、僕をまっすぐ見た。何を言ったらいいのだろう。
「…暖かい」
「お茶が温かかったからね。寒いの?」
どう答えたらいいのだろう、と考える間もなく、僕はうなづいていた。寒いのは、どっちなんだろう。僕だろうか。彼女だろうか。
彼女は手を握ったまま、そのまま僕の前に立った。そして目を閉じると、軽く上体を曲げた。握っていない方の手が、僕の頬をくるむ。温もりに、僕は目を伏せる。
奴とは違う。だけど、確かにそれも。




