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16 勝手に自己完結しても気持ちは仕方ない

 逃げるようにして、その場から立ち去った。

 無論今まで、他のバンドを見たことが無い訳じゃない。だけど、こんな気持ちになったことはなかった。あれは何?

 違うのだ。僕のやっているものと、彼のやっているものではまるで。

 確かに曲調も違えば、声質もスタンスも違う。

 だけど、声の持つ、その力。それは。

 胸が、どきどきしている。息が詰まりそうだった。

 いきなり駆けだしたから、だけではない。

 頭の中で、ぱあん、とオレンジ色の液体が流れ出したような錯覚が起きる。その液体が、ゆっくりと僕の頭の中から流れ出し、首の後ろにゆるりと染みだす。背中が、ぞくぞくする。

 ライヴハウスの入り口の石段に僕は座り込む。中の音が、かすかに漏れてくる。女の子達が少し中から出てきた。

 用はないとばかりに、合理的でたくましい彼女達は、SSが終わったので出てきたのだろう。僕はそんな彼女達が横を過ぎていくのを見る気も起きず、火照った頬を冷まそうと、柵を握って少し冷えた手を当てたりしていた。


「あれ、めぐみやないか?」


 どのくらいそうしていただろう。扉を開ける気配、降りてくる気配、そんなものをぼんやり感じ取っていたら、そんな声が耳に入ってきた。聞き覚えのある声に、僕は顔を上げる。まだ頭の芯はふらふらしている。


「…コンノさん」

「どぉしたんや? 気分悪いんか?」


 黒いジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、関西人バンドEWALKのヴォーカリストのコンノさんは僕の顔をのぞき込んだ。


「気分…」


 良くはない。だけどそれをあからさまに言ってしまうのもためらわれた。


「…コンノさん何で、ここに居るの?」

「俺か? 俺は今日のバンドを見に来たんや」

「何?」

「や、ギャリアっーバンドにツレが居るんでな」


 そういえば、最初のバンドの名だ。そんな名前だった気がする。


「…コンノさん、二つ目のバンド、見た?」

「あん?」

「すごく、なかった?」

「ああ~ 何や、結構あそこ目当てかい! って感じやったけど。おいめぐみ?」


 僕は抱えたひざに、顔をつっ伏せる。

 どうしたんや、とコンノさんの声が聞こえる。このひとはいつもは僕らのバンドに何かと鋭い突っ込みを入れてくるのに、今日はそうでもなかった。


「おいめぐみ、泣いてるんか?」


 急に声が近くなる。いつの間にか彼はしゃがみ込んでいた。


「…泣いてない」

「かあいい顔が台無しや。何や、ケンショーがまた何処かに女作ったとかしたんか?」


 僕は頭を大きく振る。


「そらそうやな。今はお前おるから、奴はそぉゆうことはせんよな」


 今は。コンノさんは軽くそう言った。


「さっきのバンド… 何か、すごかったんだ」

「そぉか? 俺良く見てなんだけど」

「すごかったんだよ」


 僕は決めつける様に、言った。


   *


「何か最近、すごくない? めぐみちゃん」


 秋も後半に差し掛かった頃、ライヴの出番を終えた時、オズさんは言った。

 そぉ? と僕は軽く答える。


「つまりはこいつもヴォーカリストとしての自覚が出てきたってことじゃないの?」


 くしゃくしゃ、とケンショーはもういいだろとばかりに頭をかき回す。ライヴ中に乱れた頭が余計にぐちゃぐちゃになる。

 何すんだよ、と突っかかって拳を出しても、あはは、と笑うケンショーのでかい手にそれはすっぽり包み込まれてしまう。僕はそれに笑い返す。顔だけは、そうすることができる。

 ナカヤマさんはそれに対して何も言わない。前より余計に彼は僕のすることに何も言わなくなった。

 その無言が、僕の中でざわめきだす。

 すごい、とオズさんが言うのは、僕がステージで、これでもかとばかりに声を張り上げて歌うことや、感情込めまくりの動きを見せることとか、上手から下手にかけて、せわしなく動き回ることとか、ケンショーにわざとらしいほど絡まることとか、そんなことを言っているのだと思う。

 別に意識してそうしている訳じゃない。ただ、一度ステージに上がると、そうせずには居られないのだ。

 あの時の、SSのヴォーカルが、今でも目に耳に残っている。彼はステージパフォーマンス、なんて意識もなかったろう。だけど、その声と、その声の中にある何か、で、その場を制圧した。

 だけど僕には、そんなものが、無い。

 どうしてなのか、判らない。だけど気付いてしまった。僕にはそれは無いのだ。

 無いから、無いなりに、それでも、あの時の、彼が動いた様に、とにかく、一生懸命、ひたすら、僕は僕のできるなりのことをしようと思った。出せる声の音域ぎりぎりまで上げてみたり、急に落としたり、叫んでみたり…

 それを見てオズさんは、気合いが入ってるね、とほめる。優しいこのひとはいつもそうだ。ナカヤマさんは前以上に何も言わなくなった。

 そして、ケンショーは。

 さすが自分のヴォーカルだ、と人気もはばからず僕を抱え込む。髪をかき回す。肩を抱き込む。

 ねえさすがって何。それはあんたが求めていたものなの?

 僕は時々ケンショーに聞きたくなる。その手を振り払って、大声で聞きたくなる。

 …だけどその手の温かさに、僕はどうしても、聞くことができないのだ。   



 それは唐突だった。


 RINGERに入ってから二つ目の冬を越えたある日。いつもの様に、ライヴを終えた… つもりだった。

 少なくとも、僕は。


   *


「お疲れー」


 機材の片付けをしていた僕達のところへ、その日演奏したライヴハウスのマスターが声を掛けてきた。


「お疲れさまです」


 僕はケーブルを巻き戻しながら、顔を上げた。

 このライヴハウスに出た時には、メイクを落とす暇がない。

 と言うか、スペースが無い。演奏前に、通路の空いてるところを探したり、トイレの鏡に向かって、大急ぎで顔を作る。

 しかし男子トイレの鏡に向かって顔を作る、というのは妙な感じだ。後から入ってきた奴は、だいたい首をひねる。ここがライヴハウスだからまだいいが、これが他の場所だったら… よそう。想像するのは。


「Kちゃん、ケンショーは?」

「あ、あっち」


 しゃがみ込み、両手がふさがっていたので、失礼かな、と思いつつ、首を振って奴の居る方向を示した。


「どうしたんですか?」

「ん? いや、奴に会いたいって人がいるからさ」

「ケンショーに?」

「つーか、君らの代表、ってことだけど」


 何だろう。僕はくるくると巻き取ったケーブルを束ねながら思う。立ち上がって、奴が呼び止められる様子を僕は眺める。あと頼む、とケンショーはオズさんに言うと、マスターの後について行った。


「オズさんオズさん」


 僕は奴の姿が消えてから駆け寄った。


「ねえどうしたの?」

「…んー… 何だろな」


 オズさんにも何のことやら、合点がいかないようだった。


「でも、ケンショー、何か笑ってなかった?」

「めぐみちゃんは目がいいなあ。そう言われればそうだった様な気もするし」

「あ、それ俺も見たよ。確かに奴、何か嬉しそうだったぜ」


 ナカヤマさんまでがそんなことを言う。一体何があったというのだろう。

 だけどその疑問には、すぐに答えが出た。

 予想に反して、奴は実に仏頂面で戻ってきた。どうしたのかな、とちょっと心配になってその様子を眺めていると、奴はいきなりにやりと笑った。


「どどどどどうしたの」


 面食らった僕は、久しぶりに驚いてみせた。ふっふっふ、と奴はそのまま顔に笑みを浮かべる。何となく、不気味だ。

 そしてそのまま、僕の首を抱え込んで、人目もはばからずに頬にキスした。


「ななななななんなんだよっ!! いきなり!」


 僕はばたばた、と奴の腕の中で暴れる。ケンショーのこういう行動には慣れているオズさんも、こんな、ステージでもプライベートでもない場所で人目もはばからない行動に、目をむく。


「おいオズ、ナカヤマ、今日、呑みに行こうぜ」

「呑みに?」


 珍しいことだ。僕は腕の中からようやく逃れて、息をつく。


「うん。呑み」

「俺ら大して飲めないぜ?」

「じゃメシ。何でもいい。とにかく行こうや」


 明らかに、上機嫌だった。こんな上機嫌な奴、見たことが、ない。



「メジャーぁぁぁぁあ?」


 声を上げたのはオズさんだった。

 結局、いつも「表で」打ち上げをするところに僕等は落ち着いていた。いや定食屋ではない。もうこの時間じゃ閉まっている。だから、単品が安い、チェーン店の飲み屋だ。ケンショーが普段、バイトに出てるような、そういうところだ。

 僕はお腹が空いていたので、とにかく腹にたまるものを頼んで、呑みもせず、ただ食っていた。

 そこでいきなり、奴が切り出した。


「さっきの客、PHONOの人だぜ」


 ぶ、と僕は口にしていたウーロン茶を吹き出しそうになった。


「PHONOって、ケンショー、冗談と違う?」

「馬鹿やろ、俺はコンノじゃねーんだ。冗談は上手くねえ」

「確かにそうだな」


 うるせえ、と自分で振っておきながら、突っ込むオズさんにケンショーは切り返した。


「で、そのPHONOの人が、どうしたんだよ」


 ナカヤマさんは冷静に訊ねる。そうだ確かにこれは、冷静にならなくてはならないところだ。


「お誘い」


 短くケンショーは言った。


「お誘い、って」

「だから、ウチの音が面白いから、メジャーに出てみる気があるなら、事務所を紹介する、ってそういう話」

「って…」


 ぱん、とオズさんは手を叩いた。


「やったじゃんかよ!」


 ふふーん、とケンショーはその様子を見て、ビールのジョッキを掲げた。


「それでお前、今日呑もうって言ったんだ」

「珍しいと思ったら」


 うん確かに。でも僕としては、少し意外だった。だって、彼がこんなに喜ぶとは思っていなかった。

 そんなに、メジャーに行きたかったなんて。

 ―――いや、違う。僕は知ってる。

 改めて皆でそれぞれ好きな酒やらジュースやら何やら注文して、乾杯の音頭をとった。


「もちろんそれで安心していいってことじゃないんだぜ?」


 ケンショーは言う。


「だけど、とっかかりだ。それが、とにかくあっちからこっちへやってきたんだ。それは確かなんだ」

「ふふん。後は俺達次第って訳ね」


 オズさんも嬉しそうだ。この人も確か、メジャー指向だった。そう聞いたことがある。そしてナカヤマさんは。


「どうしたの、お前嬉しくないの?」


 オズさんはさすがに気がついて、そう彼に訊ねた。


「や、嬉しいよ、でも」

「でも?」

「ちょっと、不安になって」

「何でえ、気弱でやんの」


 げらげらげら、とケンショーは笑う。

 珍しく財布の中身を気にせずにどんどん料理を注文する。僕はどんどん運ばれてくるそれに少しづつ手をつけながら、それでもこの浮かれた雰囲気に自分にはまっていくのに気付いた。


「…あ、すいません、ファジイネーブルお願いします」

「お前大丈夫なの?」


 ケンショーは訊ねる。そりゃあそうだ。最初に会った時に、これを呑んだおかげて、彼と出会ってしまったのだから。


「いいよ、ぶっ倒れたら、あんたが連れて帰ってくれるんでしょ?」

「言うねー、めぐみちゃん」


 オズさんもげたげたと笑った。



「だからそんな、慣れないのに呑むな、って言うのに」

「あんたが言っても説得力ないよー…」


 へろへろになりながら、僕はそれでも奴に支えられて、部屋まで戻ってきた。

 だけど頭は、嫌になるほどしらふのままだった。逆効果のように。


「ほら、ちゃんと座って」

「んー…」


 甘えてみせる。だけど頭はひどく冷ややかに、今の自分を感じている。


「ケンショー…」

「何?」


 台所に立つ奴の背中に、僕は言葉を投げかける。


「メジャーに行って、あんたどうするつもり?」

「そりゃあ決まってるだろ」

「どう決まってるのさ」


 何だよずいぶん絡むなあ、と言いながら、彼は僕にコップに水を一杯入れると、渡す。


「お前とっとと寝た方がいいよ」

「聞いてるんだよ僕は」


 受け取った水に口もつけずに、僕は彼に問いかけた。しょうがないな、という顔で、奴は僕の斜め前に座りこんだ。


「何って。やることは一つしかないだろ。いい曲作って、ライヴやって」

「それだけ?」

「それだけだろう? 結局は」


 結局は。奴の頭の中では、その他のことは、些細なことなのだろう。

 考えても仕方ないことだと、はっきりしないものごと、近眼のこいつには、見逃されてしまう物事なのかもしれない。

 だけど僕にしてみたら。


「CDを出して? もっと大きなところでライヴをやって?」

「結果だろ?」


 そういうことを、聞いてるんじゃないんだ。僕は水を一口飲み干す。

 こいつには、僕の不安は判らない。絶対に。


 絶対に。


 コップが手からすべり落ちた。


「おいめぐみ、水…」


 拾おうとした奴の顔を、僕はいきなり引き寄せた。唇を押し当てた。どうしたんだよ、と言おうとする奴の声を、せき止めた。

 でもその近眼の目が、どうしたんだよ、と訴えてる。だから僕が目をつぶる。

 どうしようもない、何かが自分の中で、沸き立っていた。酔っていたせいもある。確実にある。

 飲み屋で、皆でいい気分になって、僕等は話していた。

 上手く行くとは限らないけど、なんていちいち枕詞をつけたりして、夢みたいなことを次々と口にした。

 もっと大きなライヴハウス、TV局の持ってる、ホール並の客が入るライヴハウスで絶対やりたいよな、**公会堂を埋めたいよな、CDを出すんだったら、今度はちゃんとスタジオでジャケ写真を撮ろう。

 そういえば僕はずっと、あの写真をカバンの底に沈めたままだった。

 ケンショーもオズさんも、結構な量呑んでいた。

 普段僕やナカヤマさんのために抑えていたのが、弾けたかの様に。楽しそうで、楽しそうで。

 楽しそうすぎて。

 飲み干したファジイネーブルの甘味が、妙に冷たくて。

 頭の後ろがすうっと寒くなってきた様な気がして。

 ぽつん、と。


 そんなところに出て僕は。


 あのカナイの言ってた言葉が、今更の様に、頭の中にぐるぐるとよみがえった。


 俺には伝わってこないの。


 それはそうだ、と僕は思った。それはずっと、自分自身にも隠していた感情。僕にそんな歌が、歌えるはずが無い。

 カナイの歌は、声は、何かを伝えたがっていた。

 声に、歌に、音に、コトバに、それはあふれていた。

 受け取る、この身体に、感じられた。

 声は正直だ。音は正直だ。ケンショーのギターは、奴が伝えたいことを、そのまま、聞くひとの身体へ届ける。

 受け取る用意のある人もそうでない人も、その首を掴まれて、ぐい、とこっちを向け、この音に耳を向けろ、俺の言うことを聞け、とばかりに。

 だけどそれは僕には無い。そうだ当然だ。


 だって、僕に、歌いたいことなんて、無いじゃないか。


 歌うのは好きだ。だけど、僕はただ歌ってるだけだ。伝えたい何かがある訳じゃない。ケンショーの音から、言葉を張りめぐらせて、それらしく、さえずってるだけだ。

 歌ってるフリだ。

 そうだずっと、僕は知ってた。知ってたけど、ずっと、知らないフリをしていた。

 何だろうな、と思ってることは、判る。

 触れている唇から、伝わってくる。それでも奴は、僕がそうしたがってるのなら、その大きな手で、迷わずに僕に触れてくるだろう。そして僕はその温みに、眠くなりそうな程の心地よさを感じる。

 心地よい。どうしようもなく、心地よい。

 それがあれば、どうだっていい程に、気持ちいい。

 それが、僕ではなく、僕の声に捧げられたものであったとしても、僕はそれを手放すのが、嫌だったのだ。

 ぎゅ、と僕はケンショーをまっすぐ抱きしめる。すると奴も同じ様に、抱きしめ返してくる。

 今まで何人の、こんな声の奴に、そうしてきたというのだろう。きっとそれは、いつも同じ様な声で。

 そして、やっぱり、気付くんだ。


 奴が必要なのは、声であって、僕じゃあない。


 メジャーへ行って。ケンショーは、僕が、それについていけると思ってるのだろうか。

 ああそうだ、奴はきっと信じている。自分が見込んだ声だから、そうできると思っている。

 だけど奴は、気付いていない。僕は人間だ。声の入れ物じゃあない。

 僕がどんな気持ちで歌ってるか、なんて、彼は考えてないんだ。

 でも奴が気付かなくても、聞いている誰かは、絶対気付く。カナイの様に、誰かしら、絶対。

 だけど、それ以上のことなんて、僕には。


 声を上げながら、僕の頭の半分は、バンドに入ってからのことを色々思い出していた。

 どうしてそんな風に、浮かぶのか、よく判らなかった。

 でも確かに、それは楽しいことだった。

 楽しいことの方が多かった。

 歌うことは楽しかった。

 メイクをして、派手な服を着て、それまでの自分とは違う自分で、人前に立つのも楽しかった。絶対できないって。そんな、人前で、自分の男に、キスしたりするなんてことは。

 夏の暑い日の、冷房の壊れたスタジオ、どうしようも無く暑くて、だらだらと汗を流しながら、それでも時々廊下に避難したりして、それでも割引にしてくれた時にはケンショーは喜んだ。この男は本当におかしい。どうしてそんなところに妙に細かいんだろ。

 オズさんの友達の紗里さんにはやっぱり結局顔を合わせることもなかったけど、料理は上手い人のようだ。だって、時々オズさんが集まった時に作ってくれるつまみは、結構紗里さんから教わったものだっていうもの。

結局ナカヤマさんとは平行線のままだった。もっとちゃんと話してみたかったな。


 …話してみたかった。


 過去形に、なってる。

 思わず、目を開ける。最初に彼を誘った時の様に、窓からは月の光が入り込んでいる。天井の板の目が見える程に。

 ああああああ、と自分の喉が発する声が他人事のようだった。

 ぐらぐらと頭を振って、慣れた、鋭い、どきどきする、そんな快感に落ちていきそうな感じを覚えながら、もう一人の僕は、その月の光と同じくらいに冷えていた。



 ゆっくりと、毛布の中から、這い出す。掛けられている腕をそっと外す。目を覚まさせてはいけない。

 明け方の弱い光が、窓から射し込んでいる。この部屋は、南東だから、日が昇ると一気に光が差し込んでくるだろう。そうすると、奴も目を覚ますかもしれない。ほら何だかんだ言って、こいつの何処かが真面目だから。

 でも、それまでは、起こしてはいけない。

 ぽろん、と頭の中で、ピアノの音が鳴っている。

 どうしてなのか、判らない。

 カナイのことを思い出してたせいだろうか。あの時のピアノの音が、耳について離れない。

 あの時のベーシストは、亡くなったというひととどういう関係だったのかは判らない。だけど、その音は、確かに、そのひとを思っているというのが判って。

 カナイの歌には、ケンショーのギターには、きっとコンノさんの声もそうなんだろう。

 そして僕の中には、何も無いから。

 僕は、ケンショーが、メジャーに行くというなら、もう、このバンドで歌うことは、できない。

 だって、ケンショーが必要なのは、声だから。

 きっと彼は、僕がその場所に合わないと思ったら、容赦なく、次の声を探すだろうから。

 彼は、そういうひとだから。

 のよりさんの声が頭に響く。

 仕方がないくらいに、彼は、そういう人だから。

 弱い光を頼りに、僕は流しで濡らしたタオルで軽く身体を拭くと、それを洗濯のかごに畳んで入れた。

 服を身につけると、カバンを取り出した。財布はある。スケッチブックはどうしよう。カードとか、通帳とか、そんな細々したものは、全部この中にいつも放り込んでいた。

 何か他に、大切なものなんてあっただろうか。

 大げさな荷物なんて、作れない。

 そして僕は、スケッチブックの一枚をそっと引き裂くと、その上に4Bの鉛筆で、書いた。


「さよなら」


 そう書いて、その上に付け足した。


「今まで・ありがとう」


 その紙の上に封の切ってない煙草を置く。僕は髪をかきあげる。よく眠っている奴の姿を眺める。

 楽しかったんだよ。僕は。確かに。

 あの毛布の中に戻れば、まだ暖かいのは確かなんだけど。今外に出れば、明け方は、とても寒いのは確かなんだけど。

 それでも。

 少しでも、あんたに、僕が相談できれば良かったのかもね。

 でも僕は、知っていたんだよ、ケンショー。あんたには相談したって、どうしても判らないことが、あるんだって。

 あんたには、どうしても理解できないことがあるんだって。

 だから。

 音を立てないように、ゆっくりと僕はカバンだけを持って、扉を開けた。そしてカギを、新聞受けから中に入れた。


 扉の向こうで、かちん、と小さな音が聞こえた。

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