烏魯木斉2150
林龍は仲間たちとともにテレビのニュースを見ていた。ウルムチ 2150年。中国中央電視台が異例の記者会見の中継をしていた。公安部の対テロ特別総局と中国電脳研究公司の共同記者会見だった。
林は注意深く見入っていた。今まさに語られている内容は多年彼自身が専門としてきたものだったからだ。林は 5年前まで北京清華大学の人工記憶学の助教だった。人の記憶は曖昧で変わりやすい。普遍など無く、不変もない。彼の研究は中央電視台の放送にも応用されていたし、党のプロパガンダをより深く、より長く人々の無意識に埋め込むために使われていた。
林にとってそれは当時でこそ瑣末なことではあったが、今となっては理解し難い冒涜的行いだった。とは言え、党や電視台の行動が直接彼がこの汚い一室に武装した男女とともにいる契機になったわけではない。
問題はさらに深奥、彼の研究そのものにあった。遷ろいやすく不確かな「記憶」と向き合う作業はつらいものだった。研究すればするほど自分自身の記憶に対する信頼は失われ、「自我」がいかにゆがみやすく、汚されやすいか。どれほど利用されやすく、どれほど利用しにくいか理解してしまう。 20年に及ぶ研究者人生の末、発狂を避ける方法はただひとつしか思い浮かばなかった。人類にとってただひとつ存在する神秘、根源にたどり着くことはなく、永遠に理解しえず、それがゆえに人類を救済する『神』だった。
当時、清華大学内では密かに宗教が流行っていた。法輪功、統一教会、プロテスタント、大乗仏教からチベット密教まで。彼が選んだのはイスラームであった。その厳しい戒律、スーフィズムによる神との合一にも新たに興味をくすぐられた。
それから五年間。輝かしい経歴は脱ぎ捨ていくつかの聖地といくつかの戦地を巡り、ついに母国に帰ってきた彼はウイグル・イスラーム聖戦運動のムジャヒディーンだった。年は既に老年、それがゆえに落ち着いた胆力と思想プログラムへの深い理解を買われ、今このウルムチにいる。
テレビの中では中国人工記憶公司の所長という男が胸を張っていた。
「記憶のデータ化の完了は新たな遺伝子工学と結びつき、人類を新たな高みへ引っ張りあげたのであります。この『蓬莱プロジェクト』は完成し。始皇帝の求めた飛躍は 22世紀の電脳技術によって成し遂げられたのです。クローンの生成と記憶の移行はもはや積年の課題ではなく、可能な現実となったのです」
問題はどうして記者会見の場の影に中国公安部がいるのかということだ。彼らはどうして不死の妙薬を求める計画、『蓬莱プロジェクト』に莫大な金額を秘密裏に投下してきたのか。そして、どうしてここでその姿を表したのか。
簡単だ。彼らの仕事は治安の維持、反政府分子の弾圧。軍以上に死の無意味化を願っているのは彼らなのだ。軍は核兵器と弾道弾の存在故に簡単には動けず、近隣諸国とも結局は外交とにらみ合いに終息する。
しかし、テロは、それがいかなる集団の起こすものであろうと脅威なのだ。テロは人々の不安を煽り、公然と政府の統治の無意味を人民に見せつける。一度、埋め込まれた統治の不足の記憶を埋めるには一つの爆弾にかかるコストの数千倍のコストが必要だ。
そして『蓬莱プロジェクト』は究極にして完全な当局の解答なのだ。まず、党幹部が対称となるだろう。そうすれば射殺も、爆殺も、毒殺も全て無意味だ。殺した数日後には復活した本人の指揮のもと掃討作戦が始まる。そして、次は兵士や警察だろう。彼らは死を恐れず、ほんとうの意味で使い捨てられる体を手に入れる。最終的に模範的市民たちにまで『蓬莱プロジェクト』はもたらされるだろう。そうすればいかなる無差別テロも、いかなる殺戮も、いかなる自爆ももはや意味を持たない。主要な駅を爆破したところで数カ月後には何一つ痕跡は残っていないだろう。記憶は飛躍的な速度で風化し、無意味化するだろう。ここに至ってありとあらゆる抵抗は無意味化される。
死という禁忌が無意味化してしまった世界でテロは意味を喪失してしまう。公安は勝利し、我々は敗北する。そう思った瞬間階下で爆発音がし、建物が揺れた。同時に二階のここにも黒装束を守った武装警察官たちが突入してくる。こちらは大規模なテロの準備をしていただけあって、抵抗は決して少なくない。
だが、それはもはや問題では無いようだった。警察官たちは死を恐れず突入し、死をも恐れぬムジャヒディーン達は狼狽した。自爆テロなら喜んでするであろう彼らが狼狽した。
警察官たちの行為は死を冒涜したものであったからだ。自爆テロは単純な自殺ではない。死を持った抗議、神への帰依、生の賛美、それら一切なのだ。柱もなく天を支えたもう偉大な神に対する帰依の一つの方法なのだ。
しかし、彼らにはそのような覚悟がない。今ここで死んでも来月には戻ってこれることがわかっているのだ。林は苦笑した。党も電視台も仕事がやりやすくなるだろうな。人々は自らの記憶を喜んで他人の手に渡し、改竄の機会を与える。回りくどく、放送や教育で吹きこむ必要はどんどん少なくなっていくだろう。
しかし、彼らは最期に大切なことを見落とした。そう思ったのは胸を銃弾が通過した瞬間だった。死の無意味化は生の無意味化を意味しているのだ。記憶は自分のものだから嬉しい。生は自分のものだから頼もしい。生きることは自分であるがゆえに喜ばしいいのだ。