「容姿端麗かつ高慢知的」
イグニスがこの世界に生まれてまず感じたのは、並々ならぬ不信感だった。長い耳を持つ両親。未開拓の土地。人間と亜人が交流し、あるいは対立する世界。
ならば何故、彼らは日本語を喋っているのだろうか?
確かに自分は死んだ筈だ。死の間際に味わった、黒々とした寒く静かな場所に沈みこんでいく様な心地。思考がばらばらになり、何も考えられなくなるのは苦痛ではなかったのだが……。
彼の最初の違和感は、自分が見て感じているこの世界が、植物状態のまま病院のベッドで見ている夢ではないのか? という疑念へと辿り着いた。
昔読んだ 【培養槽の中の脳みそ】 の例えがそうだ。実際には無い世界なのに、脳内で "ある" とされたもの。それなら自分が唯一理解出来る言語が、この世界で共通語として使われている理由になる。
そうだ、おかしい。
最近交流し始めた筈の人間と亜人の間で、何故全く同じ言語が使われているのだ?
文法や言い回し、比喩表現すら "この世界" とは全く異なる "日本" のそれに準拠している。異種族が同居し闊歩する世界と、かつて生きていた人間世界では文化や価値観すら大きく剥離がある筈なのに、何故だ?
止め処なく溢れる疑問とそれに対する悲観的な考察は、彼の心を徹底的に折り、暗鬱とした気持ちに貶めた。
無論、その疑問は誰にも答えてもらず、また質問も出来ない。最初に預けられる時、彼らに自己紹介をして大層不気味がられてしまったからだ。
結局それは乳児特有の 『むにゃむにゃ』 が、まるで言葉を理解しているようなタイミングで放たれたという結論に落ち着いたのだが、乳児が 『マコト』 と明瞭に発音するのは、浅慮という他無かった。悪手の極みだったのだ。
この後数年間、彼は無害な赤子の演技を強いられる羽目になり、それとなく警戒する院長先生を見た同じ境遇の半獣人の赤子もそれに倣う。あーうーといった不明瞭な呻きと、糞尿を垂れ流し泣き喚く事しか出来ぬ最初の一年は、失敗や恥を恐れる元虐められっ子のイグニスにとって、死よりも苦痛だった。
イグニスがこの世界と現状に何一つ現実感を持てぬまま、数年。
気が触れてもおかしくない状況を、彼はかろうじて、耐えた。
やがて会話をしたり、本を読んでも違和感のない年齢に達すると、この孤児院に潜伏する魔王の器たちは急いで情報収集を始めた。この世界がどんなものなのか、なぜこの異形の姿なのか、 【魔王の器】 とは一体何か。
――何故日本の文化が当たり前の様にこの世界で根付いているのか。
気付いてみれば当然のことだが、この世界に文明をもたらしたのが日本人だったらしい。元々別の言語が根付いていたのだろうが、統一言語として持ち込んだ日本語を扱う者が多くなるに従って、自然と消えていったのだろう。
それも当然、この世界の歴史では、文明が開かれて僅かのごく早い段階で"義務教育"の発想が生まれている。国を作り、発展させるには教育が必須であり、そこで教えられる言語は無論日本語。
そうする間にも何処からか日本人が流れ込み、技術や思想を与え、何処かへと消えていく。
「なるほど、つまりこの国に限らずこの世界全てが、来訪者である日本人に依存しているのだな。」
日本人が居なければ技術の発展も無く、むしろその発想に至るまでの積み重ねが存在しない。この世界に根付く文明は全て、同郷の者らに一方的に啓蒙されただけのものと知り、彼は根拠無き優越感を抱いた。
誤解無きよう言っておくが、彼自身はこの世界に与えるだけの上等な知識も思想も持ち合わせていない。ただの高校生、それも虐められっ子である。
だが。だからこそ。
自分 "たち" はこの世界の誰よりも優れており、文化の発達していない人々を導く特別な存在なのだと、ありもしない選民意識を抱いてしまうのはある意味仕方のない事だろう。
また、自分の転生した種族が容姿端麗かつ高慢知的、人間と比較的友好的な種族の中では唯一魔法を扱える存在の "エルフ" であった事が、彼の自尊心を心地よく充たした。
その近くに同じ境遇の者が存在し、それが醜い容姿の半獣人であった事も愉快であった。
自分は選ばれた幸運な存在であり、日本人としての優れた知識と、新しく得た魔法の力でなんでもして "やれる" 。傲慢かつ勘違いも甚だしいその思想、その歪んだ思考回路こそが魔王の器たる所以。
しかし知識の伝播をするものは 【来訪者】 であり、決して 【転生者】 ではない。
これは歴史に名を残した日本人の軌跡を精査した統計結果が示すもので、この事実が発見されるのは、これから数世紀後なのだ。