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冬が終わる頃に

作者: 白凪しおり
掲載日:2026/03/19

「あんたなんて最低!」


バシッと頬を殴られた音と共に部屋のドアが勢いよく開いて女性が飛び出していった。


「チッ、めんどくせぇ」


その部屋に残された半裸の男は、タバコに火をつける。


揺れる煙が妙に目につく。

男は煙を手で払いのけすぐにタバコの火を消した。


その時正確な電子音が鳴り響いた。


「…はい。稲田」


仕事の呼び出し音だった。

急いでスーツに着替えて現場へ直行した。


そこにはもう部下が到着していた。


「先輩、こちらを」


そう言って手袋を差し出してきたのは最近配属された三上奈々だ。


「事件が起きたのは1時間前で…」


三上の声を遮って稲田は言った。


「そんなことよりこの後時間ある?」


三上は稲田の言葉を無視して状況説明を続けた。


……


ひとしきり捜査も終わり、書類を纏めにデスクへ向かった。


ふとコーヒーの良い香りがした。無言で稲田のデスクに置いていく三上。


稲田は気付けば三上を目で追っていた。


三上は事件解決に導く女神と影で呼ばれていた。彼女の凛とした横顔から自信が読み取れる。


その時少しだけ空いた廊下の窓から声が聞こえた。


「なあ、稲田さんってさ」


小さく笑う声。


「また女変わったらしいぞ」


「ほんと懲りないよな、あの人」


少し間が空く。


「……でも昔、本気の彼女いたらしいぞ」


「え?」


「仕事のことで色々あってさ。

結局、壊れちゃったんだって」


「マジで?」


「それからだよ。あんな感じになったの」


足音が遠ざかっていく。


静かになった部屋で、カーテンが小さく揺れていた。


三上は何も言わず、書類に目を通している。


デスクの上のコーヒーに手を伸ばした稲田だったが、飲むのをやめた。


「……飲まないんですか?」


三上が不思議そうに見つめる。


稲田は視線を落としたまま言った。


「……俺、コーヒー飲む資格ないだろ」


沈黙が室内に響いている。


三上は唖然として口を開いた。


「珍しいですね。先輩がそんなこと言うの」


稲田は席を立って外へ向かった。


「先輩どこに?現場に戻るなら私も!」


「……一服!」


そう答えると稲田は振り返りもせずに手をひらひらと振った。


そこから稲田は戻って来なかった。


上司から連れ戻すように言われた三上は仕方なく稲田のアパートへ向かった。


古いアパートの階段の軋む音が周りに響いている。

稲田の部屋をノックする。


コンコンコン…

返事がない。


コンコンコン、コンコンコン…


「わーっかってるよ!誰だ?」


開かれたドアには半裸の稲田がいた。


ふと足元を見ると赤いピンヒールが転がっていた。


はっと息を飲んだが三上は表情を変えずに

「先輩を連れ戻すように言われました」

と告げた。


稲田は下を見ながら「別に。俺いなくても解決できるだろ…」と呟いた。


冬の風が強く吹いて、三上の鼻先が赤く染まる。


「先輩がいないとダメです、私現場で待ってます」


そう言い残して三上はアパートを去った。


昼過ぎ。


稲田はのっそりと現場に現れた。

吐く息が白い。


指先には、透明の証拠袋がぶら下がっている。

中には一本の煙草の吸い殻。


フィルターは黒に近い茶色で、金の細いラインが入っていた。

この辺ではあまり見かけない、香りの強い輸入煙草だ。


「先輩来てくれたんですね」


振り返ると三上が立っていた。

少し嬉しそうに口元が緩んでいる。


「あ!それ!回収し忘れですか?」


「おう…てゆうかまさかずっとここにいたのか?」


「はい!何か他に手がかりがないか、くまなく捜査してました」


三上はその後も現場の周囲を何度も行き来していた。

さっき調べた場所も、もう一度覗く。


塀の裏、排水溝、ゴミ袋の影。


手袋をした指で一つずつ確かめていく。


「……まだ何かあるはず」


若さゆえのしつこさだった。


稲田はそれを少し離れた場所から眺めていたが、やがてタバコに火をつけて現場を離れた。


……


しばらくして。


署に戻った稲田は、ふと周囲を見回した。


「……三上は?」


近くにいた刑事が答える。


「さっきまた現場に戻るって言ってましたよ」


稲田は舌打ちした。


「あいつまだやってんのかよ……!」


タバコをくわえたまま外へ出る。


その時、ふと鼻につく甘ったるい匂い。


「……クソ」


どこかで嗅いだ匂いだった。


夜の店。

酒と香水が混ざる空間。


その奥で、偉そうな顔をした男が

輸入物のタバコをくゆらせていた。


見慣れたスーツの胸ポケット。

そこに差さった警察手帳の革の端が、ちらりと見えた。


「……あの野郎」


その顔が浮かんだ瞬間。


稲田の表情が変わった。


「……まさか」


次の瞬間、稲田は走り出していた。


「三上……!」



……



――パンッ


乾いた銃声が夜に響いた。


「……!」


現場に到着したばかりの稲田は反射的に走り出す。


「三上……!」


物陰を曲がった先。


雪の上に、赤が広がっていた。


三上奈々が倒れていた。


「おい!三上!」


稲田は膝をつき、慌てて傷口を押さえた。


「何してんだバカ!一人で動くなって言っただろ!」


三上の瞼がわずかに震える。


「……先輩……」


「喋んな!」


血が指の間から溢れる。


「クソ……止まれよ……」


雪が三上の頬に落ちて溶けていく。


稲田は三上の手を握った。


「……頼む」


声が震える。


「俺を一人にすんな」


遠くでサイレンが鳴り始めていた。


……


三上が目を覚ました時、白い天井が視界に入った。


「……三上」


横を見ると稲田がいた。


無精髭、赤い目。

明らかに寝ていない顔だった。


「……先輩」


声がかすれる。


稲田が顔を上げた。


「……おい」


三上の手を握る。


「勝手に死ぬなよ」


三上は小さく息を吐いた。


「……待っててくれたんですね」


稲田は顔を逸らす。


「……別に」


少し間があって呟く。


「……お前、待ってろって顔してただろ」


窓の外では雪が止んでいた。



……



窓の外では、あんなに激しく降っていた雪が止み、雲の隙間から柔らかな陽光が差し込み始めていた。


事件の傷が癒え、三上が捜査一課に復職して数週間が経った。


窓の外には、あんなに降り積もった雪の面影はどこにもない。


街路樹の蕾が膨らみ、柔らかな春の日差しが、埃の舞う殺風景なオフィスを優しく照らしている。


稲田はデスクに肘をつき、ペンを回しながら所在なげに書類を眺めていた。


あの病院の夜以来、彼は「目を逸らす」のをやめた。


自分を罰するために女遊びに逃げるのも、めんどくせぇと吐き捨てて現実を遮断するのも。


ふと、デスクの端に温かい湯気が昇った。


無言で置かれたマグカップ。


三上が淹れた、いつものコーヒーだ。


三上は何も言わず、自分のデスクへ戻ろうと背を向ける。


稲田はその背中を見つめた。


かつて、誰かの背中から目を逸らし、その孤独を見捨てた自分。


けれど今は、その背中がここにあるという奇跡を、痛いほど真っ直ぐに受け止めている。


稲田はゆっくりと手を伸ばし、マグカップを手に取った。


彼は迷うことなく、そのコーヒーを一口、口に含んだ。


「…………」


少し苦くて、けれど喉の奥までじんわりと温かさが広がる。


その動作に、三上が足を止めた。


振り返った彼女の瞳に、コーヒーを飲み干そうとする稲田の姿が映る。


「……あ」


小さな声が三上の唇から溢れた。


彼女は、稲田が初めて自分の差し出したものを受け取ってくれたことに気づき、一瞬だけ驚いたように目を見開く。


けれど、三上は何も言わなかった。


ただ、春の光を背に受けて、ほんの少しだけ、唇の端を釣り上げて小さく笑った。


稲田もまた、カップを置くと、窓の外へ視線を投げた。


「……おい。……明日も、これ淹れろよ。めんどくせぇけど……付き合ってやるからさ」


窓の外では、新しい季節が音を立てずに始まっていた。


二人の長い冬は、今、静かに幕を閉じた。

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