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ダンジョンにはTSがつきもの  作者: 炭水化物は飲み物
邂逅

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3/3

邂逅 後編

 膝をつきかけて、辛うじて踏みとどまる。


 転移の感覚は何時でも慣れない。胃の底を掴まれて、上下も前後もまとめて振り回されたみたいな、あの不快な浮遊感が、遅れて全身を侵してくる。喉の奥が焼ける。耳鳴りが止まらない。視界もまだ微かに歪んでいた。


 何とか倒れないように姿勢を戻す。


 倒れたら終わる。

 そういう確信だけは、嫌なくらいはっきりしていた。


 荒い呼吸を無理やり整えながら、私は周囲を見回す。


 知らない空間。


 狭い。暗い。けれど単に閉塞しているというだけではない。空間そのものが、どこか歪に軋んでいる。石壁は黒ずみ、濡れているはずなのに鈍く光る気配がない。床は岩盤そのものを削って均したような粗雑さで、通路の輪郭には人の意思より、もっと別の、巨大で無慈悲な力の癖が残っていた。


 そして何より。


 魔力が、重い……!


 下層手前の比ではなかった。  比べること自体、たぶん間違っている。


(深……層…?)


 空気を吸うたび、肺に見えない砂鉄が流れ込んでくるみたいだった。肌にまとわりつく圧がある。湿度とも寒気とも違う、もっと原始的な“重さ”。魔力が霧ではなく、泥や鉛みたいに沈殿している。ここでは呼吸ひとつ、瞬きひとつにさえ許可が要る。そんな錯覚すらあった。


「………………」


 声が出ない。


 配信端末は、まだ生きていた。

 視界の端に、配信画面の情報が薄く浮かんでいる。


 けれど、コメント欄は静まり返っていた。


 あれだけさっきまで騒いでいたのに、今は妙に遅い。数秒に一つ、ぽつり、ぽつりと短い文字が流れるだけ。視聴者も、この状況を呑み込めていないのだと分かった。何が起きたのか。ここがどこなのか。助けは呼べるのか。そもそも見えているものが現実なのか。


 たぶん、誰も分かっていない。


 私も分からない。


 どこ、ここ。


 胸の内側で、言葉だけが冷たく沈む。


 落ち着け。


 落ち着け、私。


 呼吸。

 視線。

 足元。

 退路。


 ひとつずつ確認しろ。焦るな。考えろ。乱れたら終わる。


 そう言い聞かせる。

 そう言い聞かせるのに、無意識なのか手が震えている。


 刀を握る指先に、わずかな痙攣が走る。

 血で滑るから、じゃない。

 怖いからだ。


 分かってしまっているからだ。


 ここは、駄目だ。


 石壁へ視線を走らせる。色が違う。今までの千葉ダンジョンの岩肌とは根本から違っていた。灰色ではなく、もっと深い、煤けた藍墨色。そこに絡みつく魔力の流れも、規則性がない。いや、あるにはあるのかもしれない。でも人間が理解できる形をしていない。渦を巻くでもなく、澱むでもなく、ただゆっくりと、生き物みたいに脈打っている。


 音も違う。


 水滴の音がしない。風の音もしない。あるのは遠く、ひどく遠いところで、何かが石を擦るような、鈍く長い気配だけ。


 魔物もいる。


 遠いけど、でも確実にいる。


「……深層は、確定」


 まさか、千葉ダンジョンにも深層があるとは思わなかった。


 喉の奥から、かすれた声が落ちた。


 もっと深い。

 その直感は、理屈より早かった。

 Aランク。白閃。Aランク最速。そう呼ばれて、ここまで来た。


 けれど今、この場所に立っている私は、そんな肩書きの意味をまるで持っていない。AだろうがBだろうが、最速だろうが、そんな人間側の尺度が最初から無価値な場所。ここにいる資格がない、というより、そもそもここへ来ること自体が誤りだったのだと、そういう種類の圧があった。


 視界の端で、コメントが一つ流れる。


『ここ、どこだよ……』


(私が知りたいよ…!!)


 そう思った瞬間、奥の闇が揺れた。


 来る。


 考えるより早く、刀を構える。

 柄を握る手に力を込め、左足を半歩引く。


 現れたのは、一体。


 たった一体だけだった。


 それなのに、私の目には今までの化け物よりも、化け物をしていたナニかがいた。


 獣に近い輪郭。だが獣ではない。四肢は異様に長く、節ごとの位置が不自然で、歩くたびに骨格そのものが軋んでいるみたいな音を立てる。頭部は低く、横に広い。口元だけが裂けすぎていて、その奥に並んだ牙だけがやけに白かった。目は二つ……いや、違う。額の中央、少しずれた位置にもう一つ。濁った金色の眼が、三つ。


 見られた。


「っ……!?」


 それだけで、背筋が冷える。


 今まで遭遇してきた魔物とは、何もかもが違った。


 動きが。硬さが。纏う魔力が。そして何より、殺意の質が違う。


 濃い。澄んでいる。迷いがない。


 この魔物は、こちらを殺すことを、まるで食事やお遊び感覚みたいに受け止めている。


 自然だった。


 ぞっとするくらいに。


「っ!」


 先に動いたのは向こうだった。


 消えた、と思った。


 いや、速いだけだ。


 刃を立てる。間一髪。


 衝撃。腕が痺れる。骨にまで響く。受けた刀身の上を、見えない鉄塊が滑り落ちてきたみたいな重さだった。


 重い。


 押し負ける前に逸らす。半歩ずらし、そのまま横薙ぎ。


 当たる。


 通じる。


 けれど浅い。


 刃は外殻を裂いた。裂いたのに、そこから先が遠い。肉へ届く前に、何か硬い層に弾かれる。嫌な感触だった。薄氷を割った先に、なお鉄板があるみたいな、絶望的な手応えの薄さ。


 次が来る。


 低い軌道。爪。避ける。


 間に合わない!!


 脇腹が裂けた。


「っ、ぁ……!」


 熱い。いや、熱いというより、鈍い。痛みが遅れてくる。その前に体だけが理解していた。深い。血が出ている。次から動きが少し鈍る。そういう嫌な情報だけが先に頭へ入る。


 それでも前を見る。


 退けない。


 通路が狭すぎる。この相手に背を向けて走って逃げ切れる未来なんて、想像する方が難しかった。


 なら、正面。


 踏み込む。斬る。受ける。逸らす。斬る。


 私の技術は通じている。

 少なくとも、まったくの無力ではない。


 軌道は読める。癖も見える。脚運びも、体重移動も、何となく分かってきている。


 なのに。


 削られる一方だった。


 こちらの一太刀は浅い。

 あちらの一撃は重い。


 こちらが十の精度で捌いても、向こうは三の雑さでこちらの体力を奪っていく。そういう、どうしようもなく不公平な削り合いだった。


 頬。  肩。  腿。  前腕。


 傷が増える。


 呼吸が浅くなる。

 肺が焼ける。脚が重い。

 指先の感覚が、少しずつ遠くなっていく。


 それでも、下がれない。


 逃げ場がない。

 逃げる場所そのものが、この空間には用意されていなかった。


 魔物がまた来る。上。横。連撃。


 捌く。捌き切れない。肩口を抉られる。


 視界が揺れた。

 膝が落ちそうになる。

 まずい。そう思った瞬間にはもう遅い。次の一撃が正面から迫っていた。


 受ける。受け切る。押される。


 脚がずるりと滑った。

 限界が近い。

 分かる。


 思考が、ぶつ切れになる。


 ここで死ぬ?


 違う。考えるな。動け。

 でも脚が言うことを聞かない。


 何で。


 自分が弱いから?


 その問いが、ひどく静かに胸へ刺さる。


 分かってた。


 探索者をやっていれば、いつかこういう日が来るって、最初から分かっていた。絶対に安全な仕事じゃない。才能があっても、実績があっても、配信で持て囃されても、死ぬ時は死ぬ。明日かもしれないし、今日かもしれない。そういう稼業だ。


 分かっていた。


 分かっていた、けど。


 嫌だ。


 死にたくない。


 今は。今だけは。


 まだ何も成し遂げてない。


 家族との約束は?


 先生と、生きて帰るって約束したのに? ここで死ぬの、私?


 胸の奥で、何かがぐしゃぐしゃになる。


 家族や先生の顔が浮かぶ。家の食卓が浮かぶ。何でもない会話。帰ったら食べようと思っていたもの。次の配信のこと。来月の予定。先の話。小さい、小さい予定。


 それが、急に全部、遠ざかる。


「…………っ」


 歯を食いしばる。


 刀を握り直す。


 手が震えている。

 ひどい震えだ。

 笑ってしまうくらい情けない。


 それでも、手放さない。


 まだ、まだ……!


 好きな人もできてないまま。


 死にたくない!!


 喉の奥で、ほとんど悲鳴みたいな声が弾けた。


 情けない叫びだと思う。格好悪い。綺麗じゃない。きっと、もっと立派な理由を口にできる人はいる。仲間のためとか、誰かを守るためとか、未来のためとか、そういうまっすぐな言葉を。


 私は違う。


 凡人で、貪欲で、平凡な願い。


 それでも、それだけでも私にとっては大切でかけがえのないもの。


 だから、まだ立っている。


 コメント欄が、また動き始める。


『白閃……!』 『立て』 『お願い、立って』 『まだ終わってない』 『白閃なら』 『白閃、見てるから』


 見てるから。


(見てる、から……そっか、見られてるんだ)


 その一文だけが、妙に胸へ落ちた。


 私は立つ。

 ふらつく脚を叩き起こすみたいに、無理やり前へ出る。


 魔物も来る。


 今度は真正面。


 これで決めるつもりだと分かった。


 なら、私も前へ。


 半歩。一歩。交錯。


 斬る。


 入った。深くはない。けれど今までで一番いい位置へ、確かに刃が滑り込む。外殻の継ぎ目、そのわずかな隙間へ。黒い液体が飛ぶ。


 だが、足りない。


 魔物は止まらない。


 返しの一撃が来る。


 避けられない。


 間に合わない。


 それでも、目は逸らさなかった。


 怖い。怖いのに。


 最後まで見ていたかった。

 俯いて終わるのだけは、どうしても嫌だった。


 ──────


 何かが、割り込んだ。


 音もなく。


 気配もなく。


 ただ、そこにあったはずの致命だけが、綺麗に停止していた。


「………………え」


 理解が遅れる。


 魔物の一撃が、止まっている。


 いや、止められている。


 細い腕が一本、そこにあった。


 信じられないくらい自然に。

 最初からその場に存在していたみたいに。

 私を殺すはずだった一撃を、片腕だけで受け止めている。


 視線を上げる。


 背中。


 見知らぬ少女の背中だった。

 黒と赤の長い髪。細い肩。小柄な体躯。

 なのに、大きい。


 大きく見える、なんて生易しいものじゃなかった。そこに立っているだけで、空間の重心そのものが塗り替わってしまったみたいだった。さっきまで私を押し潰していた未到達域の圧が、その背中を境にして、別の何かへ屈している。


 振り返りもしない。


 ただ、そこに立っている。


「………………」


 張り詰めていたものが、そこで切れた。


 力が抜ける。


 膝から崩れた。床へ座り込む。


 刀だけは、まだ手の中にある。


 それが少し可笑しくて、でも笑う余裕はなかった。息が苦しい。心臓が速い。全身が痛い。なのに、目だけはその背中から離れない。


 少女が、上半身だけこちらへ振り向く。


 ほんの僅か。

 それだけなのに、やけに鮮烈だった。

 座り込んでいる私を、静かに見下ろす

 整いすぎた横顔。感情の読めない瞳。

 声が落ちる。


「なんだ、絶望してるかと思ったら…案外良い顔してんじゃん」


「っ…?!」


 労いでもなかった。

 皮肉でもなかった。

 心配でもない。


 ただ、事実を確認するみたいな言い方だった。


 それだけ。


 それだけなのに。


 何も言えない。


 喉が、言葉の形を忘れていた

 顔が熱い。どうしてなのか分からない。助かったからなのか、安堵したからなのか、それとも別の何かなのか、自分でもまるで分からない。


 ただ胸の奥で、何かが音を立てた。


 どくん、と。


 大きく。近く。どうしようもなく鮮明に。


 コメント欄も、この瞬間だけ静かだったと思う。

 何かを言うには、たぶん誰も少し遅れた。

 その沈黙が、ひどく綺麗だった。

 優しくも、冷たくもない。

 ただ、それだけの言の葉。


 なのに私には、それだけで十分だった。

 暗い未到達域のただ中で。


 私は、たしかにこの少女と邂逅したのだと。そう思った。

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