邂逅 後編
膝をつきかけて、辛うじて踏みとどまる。
転移の感覚は何時でも慣れない。胃の底を掴まれて、上下も前後もまとめて振り回されたみたいな、あの不快な浮遊感が、遅れて全身を侵してくる。喉の奥が焼ける。耳鳴りが止まらない。視界もまだ微かに歪んでいた。
何とか倒れないように姿勢を戻す。
倒れたら終わる。
そういう確信だけは、嫌なくらいはっきりしていた。
荒い呼吸を無理やり整えながら、私は周囲を見回す。
知らない空間。
狭い。暗い。けれど単に閉塞しているというだけではない。空間そのものが、どこか歪に軋んでいる。石壁は黒ずみ、濡れているはずなのに鈍く光る気配がない。床は岩盤そのものを削って均したような粗雑さで、通路の輪郭には人の意思より、もっと別の、巨大で無慈悲な力の癖が残っていた。
そして何より。
魔力が、重い……!
下層手前の比ではなかった。 比べること自体、たぶん間違っている。
(深……層…?)
空気を吸うたび、肺に見えない砂鉄が流れ込んでくるみたいだった。肌にまとわりつく圧がある。湿度とも寒気とも違う、もっと原始的な“重さ”。魔力が霧ではなく、泥や鉛みたいに沈殿している。ここでは呼吸ひとつ、瞬きひとつにさえ許可が要る。そんな錯覚すらあった。
「………………」
声が出ない。
配信端末は、まだ生きていた。
視界の端に、配信画面の情報が薄く浮かんでいる。
けれど、コメント欄は静まり返っていた。
あれだけさっきまで騒いでいたのに、今は妙に遅い。数秒に一つ、ぽつり、ぽつりと短い文字が流れるだけ。視聴者も、この状況を呑み込めていないのだと分かった。何が起きたのか。ここがどこなのか。助けは呼べるのか。そもそも見えているものが現実なのか。
たぶん、誰も分かっていない。
私も分からない。
どこ、ここ。
胸の内側で、言葉だけが冷たく沈む。
落ち着け。
落ち着け、私。
呼吸。
視線。
足元。
退路。
ひとつずつ確認しろ。焦るな。考えろ。乱れたら終わる。
そう言い聞かせる。
そう言い聞かせるのに、無意識なのか手が震えている。
刀を握る指先に、わずかな痙攣が走る。
血で滑るから、じゃない。
怖いからだ。
分かってしまっているからだ。
ここは、駄目だ。
石壁へ視線を走らせる。色が違う。今までの千葉ダンジョンの岩肌とは根本から違っていた。灰色ではなく、もっと深い、煤けた藍墨色。そこに絡みつく魔力の流れも、規則性がない。いや、あるにはあるのかもしれない。でも人間が理解できる形をしていない。渦を巻くでもなく、澱むでもなく、ただゆっくりと、生き物みたいに脈打っている。
音も違う。
水滴の音がしない。風の音もしない。あるのは遠く、ひどく遠いところで、何かが石を擦るような、鈍く長い気配だけ。
魔物もいる。
遠いけど、でも確実にいる。
「……深層は、確定」
まさか、千葉ダンジョンにも深層があるとは思わなかった。
喉の奥から、かすれた声が落ちた。
もっと深い。
その直感は、理屈より早かった。
Aランク。白閃。Aランク最速。そう呼ばれて、ここまで来た。
けれど今、この場所に立っている私は、そんな肩書きの意味をまるで持っていない。AだろうがBだろうが、最速だろうが、そんな人間側の尺度が最初から無価値な場所。ここにいる資格がない、というより、そもそもここへ来ること自体が誤りだったのだと、そういう種類の圧があった。
視界の端で、コメントが一つ流れる。
『ここ、どこだよ……』
(私が知りたいよ…!!)
そう思った瞬間、奥の闇が揺れた。
来る。
考えるより早く、刀を構える。
柄を握る手に力を込め、左足を半歩引く。
現れたのは、一体。
たった一体だけだった。
それなのに、私の目には今までの化け物よりも、化け物をしていたナニかがいた。
獣に近い輪郭。だが獣ではない。四肢は異様に長く、節ごとの位置が不自然で、歩くたびに骨格そのものが軋んでいるみたいな音を立てる。頭部は低く、横に広い。口元だけが裂けすぎていて、その奥に並んだ牙だけがやけに白かった。目は二つ……いや、違う。額の中央、少しずれた位置にもう一つ。濁った金色の眼が、三つ。
見られた。
「っ……!?」
それだけで、背筋が冷える。
今まで遭遇してきた魔物とは、何もかもが違った。
動きが。硬さが。纏う魔力が。そして何より、殺意の質が違う。
濃い。澄んでいる。迷いがない。
この魔物は、こちらを殺すことを、まるで食事やお遊び感覚みたいに受け止めている。
自然だった。
ぞっとするくらいに。
「っ!」
先に動いたのは向こうだった。
消えた、と思った。
いや、速いだけだ。
刃を立てる。間一髪。
衝撃。腕が痺れる。骨にまで響く。受けた刀身の上を、見えない鉄塊が滑り落ちてきたみたいな重さだった。
重い。
押し負ける前に逸らす。半歩ずらし、そのまま横薙ぎ。
当たる。
通じる。
けれど浅い。
刃は外殻を裂いた。裂いたのに、そこから先が遠い。肉へ届く前に、何か硬い層に弾かれる。嫌な感触だった。薄氷を割った先に、なお鉄板があるみたいな、絶望的な手応えの薄さ。
次が来る。
低い軌道。爪。避ける。
間に合わない!!
脇腹が裂けた。
「っ、ぁ……!」
熱い。いや、熱いというより、鈍い。痛みが遅れてくる。その前に体だけが理解していた。深い。血が出ている。次から動きが少し鈍る。そういう嫌な情報だけが先に頭へ入る。
それでも前を見る。
退けない。
通路が狭すぎる。この相手に背を向けて走って逃げ切れる未来なんて、想像する方が難しかった。
なら、正面。
踏み込む。斬る。受ける。逸らす。斬る。
私の技術は通じている。
少なくとも、まったくの無力ではない。
軌道は読める。癖も見える。脚運びも、体重移動も、何となく分かってきている。
なのに。
削られる一方だった。
こちらの一太刀は浅い。
あちらの一撃は重い。
こちらが十の精度で捌いても、向こうは三の雑さでこちらの体力を奪っていく。そういう、どうしようもなく不公平な削り合いだった。
頬。 肩。 腿。 前腕。
傷が増える。
呼吸が浅くなる。
肺が焼ける。脚が重い。
指先の感覚が、少しずつ遠くなっていく。
それでも、下がれない。
逃げ場がない。
逃げる場所そのものが、この空間には用意されていなかった。
魔物がまた来る。上。横。連撃。
捌く。捌き切れない。肩口を抉られる。
視界が揺れた。
膝が落ちそうになる。
まずい。そう思った瞬間にはもう遅い。次の一撃が正面から迫っていた。
受ける。受け切る。押される。
脚がずるりと滑った。
限界が近い。
分かる。
思考が、ぶつ切れになる。
ここで死ぬ?
違う。考えるな。動け。
でも脚が言うことを聞かない。
何で。
自分が弱いから?
その問いが、ひどく静かに胸へ刺さる。
分かってた。
探索者をやっていれば、いつかこういう日が来るって、最初から分かっていた。絶対に安全な仕事じゃない。才能があっても、実績があっても、配信で持て囃されても、死ぬ時は死ぬ。明日かもしれないし、今日かもしれない。そういう稼業だ。
分かっていた。
分かっていた、けど。
嫌だ。
死にたくない。
今は。今だけは。
まだ何も成し遂げてない。
家族との約束は?
先生と、生きて帰るって約束したのに? ここで死ぬの、私?
胸の奥で、何かがぐしゃぐしゃになる。
家族や先生の顔が浮かぶ。家の食卓が浮かぶ。何でもない会話。帰ったら食べようと思っていたもの。次の配信のこと。来月の予定。先の話。小さい、小さい予定。
それが、急に全部、遠ざかる。
「…………っ」
歯を食いしばる。
刀を握り直す。
手が震えている。
ひどい震えだ。
笑ってしまうくらい情けない。
それでも、手放さない。
まだ、まだ……!
好きな人もできてないまま。
死にたくない!!
喉の奥で、ほとんど悲鳴みたいな声が弾けた。
情けない叫びだと思う。格好悪い。綺麗じゃない。きっと、もっと立派な理由を口にできる人はいる。仲間のためとか、誰かを守るためとか、未来のためとか、そういうまっすぐな言葉を。
私は違う。
凡人で、貪欲で、平凡な願い。
それでも、それだけでも私にとっては大切でかけがえのないもの。
だから、まだ立っている。
コメント欄が、また動き始める。
『白閃……!』 『立て』 『お願い、立って』 『まだ終わってない』 『白閃なら』 『白閃、見てるから』
見てるから。
(見てる、から……そっか、見られてるんだ)
その一文だけが、妙に胸へ落ちた。
私は立つ。
ふらつく脚を叩き起こすみたいに、無理やり前へ出る。
魔物も来る。
今度は真正面。
これで決めるつもりだと分かった。
なら、私も前へ。
半歩。一歩。交錯。
斬る。
入った。深くはない。けれど今までで一番いい位置へ、確かに刃が滑り込む。外殻の継ぎ目、そのわずかな隙間へ。黒い液体が飛ぶ。
だが、足りない。
魔物は止まらない。
返しの一撃が来る。
避けられない。
間に合わない。
それでも、目は逸らさなかった。
怖い。怖いのに。
最後まで見ていたかった。
俯いて終わるのだけは、どうしても嫌だった。
──────
何かが、割り込んだ。
音もなく。
気配もなく。
ただ、そこにあったはずの致命だけが、綺麗に停止していた。
「………………え」
理解が遅れる。
魔物の一撃が、止まっている。
いや、止められている。
細い腕が一本、そこにあった。
信じられないくらい自然に。
最初からその場に存在していたみたいに。
私を殺すはずだった一撃を、片腕だけで受け止めている。
視線を上げる。
背中。
見知らぬ少女の背中だった。
黒と赤の長い髪。細い肩。小柄な体躯。
なのに、大きい。
大きく見える、なんて生易しいものじゃなかった。そこに立っているだけで、空間の重心そのものが塗り替わってしまったみたいだった。さっきまで私を押し潰していた未到達域の圧が、その背中を境にして、別の何かへ屈している。
振り返りもしない。
ただ、そこに立っている。
「………………」
張り詰めていたものが、そこで切れた。
力が抜ける。
膝から崩れた。床へ座り込む。
刀だけは、まだ手の中にある。
それが少し可笑しくて、でも笑う余裕はなかった。息が苦しい。心臓が速い。全身が痛い。なのに、目だけはその背中から離れない。
少女が、上半身だけこちらへ振り向く。
ほんの僅か。
それだけなのに、やけに鮮烈だった。
座り込んでいる私を、静かに見下ろす
整いすぎた横顔。感情の読めない瞳。
声が落ちる。
「なんだ、絶望してるかと思ったら…案外良い顔してんじゃん」
「っ…?!」
労いでもなかった。
皮肉でもなかった。
心配でもない。
ただ、事実を確認するみたいな言い方だった。
それだけ。
それだけなのに。
何も言えない。
喉が、言葉の形を忘れていた
顔が熱い。どうしてなのか分からない。助かったからなのか、安堵したからなのか、それとも別の何かなのか、自分でもまるで分からない。
ただ胸の奥で、何かが音を立てた。
どくん、と。
大きく。近く。どうしようもなく鮮明に。
コメント欄も、この瞬間だけ静かだったと思う。
何かを言うには、たぶん誰も少し遅れた。
その沈黙が、ひどく綺麗だった。
優しくも、冷たくもない。
ただ、それだけの言の葉。
なのに私には、それだけで十分だった。
暗い未到達域のただ中で。
私は、たしかにこの少女と邂逅したのだと。そう思った。




