10代から20代に書いた詩(うた)
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
https://blog.ameba.jp/ucs/top.do
【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(不思議のパルプンテ)
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
(臆病の内に書いたもの)
どうせなら、延々と書いてやる。俺の書いている事なんざ、誰にも解りゃしないんだから。
この世間を、俺の部屋にしたいんだ。どこに何があるか分かって、自由気儘に振舞える。誰に気兼ねする事無く、照れも無い。そこで、自分の健康と道徳を想いながら生きて行くんだ。この世間を、俺の部屋と思いながら生きるんだ。
『苦悩』
何かせずには居られない。この過ぎ行く一日の中、たった独りしか居ない自分は、何かしてなきゃ生きられない。自分だけの一番みたくアーティストみたいな思いだが、それはあるのだ。余りにも自分だけの世界だが、才能、存在を考えると、どうしてもそうなる。時にそれは苦悩で、苦痛でもあるのだ。だけど、死ぬ間際思う事は、たったこの世では自分が残したものだろう。そしてその先。たった独りしか居ない自分がこの世界を見て言う。ノイズに搔き消されるのは御免だ。
『生きる事』
時間に後戻りはない。早回しも無い。ただ怯まないで過ぎて行く。同じ様に過ごすんなら、やはり楽しんで過ごす方が良い。自分なりに。他人がどう言おうが性格は変えられない。そんな詰らない臆病は消した方が正しい。何もそんな難しい顔をする必要も無い。生きる事は難しくも無いのさ。自分は独りしか居ない。なのになぜ遠慮する必要がある。対等、びくびくする事は無い。神様が創られたこの周りをただ与えられた欲の儘に、動いてみるのだ。それも神様が「生きよ」と言う一理に適う。
泣く必要はない。笑い顔を作る事も無い。でも窮屈だ。恵みを当り前に受け止めてみたい。こんな思い方じゃ何処へ行っても又すぐに他の行く当てを探さなきゃいけない。戸惑うばかりじゃ、自分の余裕は分からない。おかしい話だけど、それが今の総てなんだ。人間と会う時の自分と、独りで居る時の自分はまるで違う。
日本人が英語で歌う心境(笑)。
(前略)俺の中に居る思いは愛ではなく優しさだ。だから外で何が起ころうが俺にはもう関係が無い。やっと、自分の傍に返れたのだ。もう後戻りする気は無い。ずっと幸福だけを覚えて生きたい。何の不安も無い時だけ、ずっと流れて神様の所へ行きたい。あっと言う間に十九年間、もう十九年も生きて来たのだ。もう真実の事だけを見詰めても良い筈だ。
神様、何をどうしたら良いのかよく解りません。あなたが居るのかどうかすら、戸惑って居ます。その確固たる証拠を見せてほしい、等と、その文句は自分への都合の好いものばかりになる。
無縁の人。巡り観る、総ての人々。
何か基礎になるものを、自分で捜さねばならないんだ。自分が正しいと思ったものに対して。
『ペラペラ』
人の評価を得ようと思うな。それは自分を断つ事に繋がる。
「主は言われる、私があなた方に対して抱いている計画は私が知っている。それは災いを与えようと言うのではなく、平安を与えようとするものであり、あなた方に将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ書・二九・一一)
聖書を見ると、今思っている事が書いてある事がよくある。それを見た瞬間、悲しくなる。安心するからか、情けなく思うのか、自分一人故に、自由に思い悩む。
何故、何の罪をも捨てようと言うのに、罪は休む間もなく降り掛かって来るのか。休む間も無く、俺は辛いと嘆く。永遠の平和は、もう死んだ後にしかないのか、と思う俺だ。
そう、総ては神様の計画のため生きて居る。だったら何故、あの子はあんなひどい目に、皆が見ている前で遭ったのか。この過去もあなたには必要だったのか。
『不惑』
神様、あなたが居ながらどうして悪魔が居るのか。人間は両方見れるように出来ている。そして言葉や暴力で他の人間を責める事も出来るようにも出来ている。どうしてか。それでは弱者は祈ってあなたを見るしかない。いろんな価値観が飛び交う中、弱者は、強者の暴言を暫くの間、耐えねばならないのだ。それでもあなたは証を忘れては成らない、と言う。宗教法人が家まで来て「イエス・キリスト」の事を問い掛けられた時「興味がない」と知らない素振りをしてはいけないのか。闘わなければいけないのか。苛立ちを覚えるこの世の中で、強者に立ち向かわなければ成らないのか。神様、お金を知っていますか、今の人間の表面上、どうしても要る価値観なのです。欲の宝庫であるこの人間世界が堪らないのです。汚れは悪魔、麻痺してしまったこの世の中は、今本当に何をすれば良いのか、何が真実か分からないで居ます。愚かなのですか。人間というのは。人間に見られる事で悪くなるとすれば、おかしい事だ。この世の中の時間もあなたの時間に入っているのでしょうか。変わりましたか、この世の中はあなたが創られた頃からどのようにして変わったのでしょう。今、聖書を読んでいる人はどのくらい居ますか。今、僕は何をしているのでしょうか。今この周りはどこへ向かい、どの考え方で正義や悪魔を感じているのですか。一人歩きし始めた人間が怒るのも、語るのも、泣くのも、笑うのも、チャチに見えてきます。あなたによって創られて、何故この世で生きてく瞬間にあなたを忘れてしまうのか。解りません。
少年は昔、難しい本を読むのが好きで、自分の世界を作り込む。よく友達にも無理やり哲学染みた事を話したり感情を押し付けたりしたものだった。難しい話をよくする少年。今は忘れた。
物書き。それが自分の仕事ゆえに、これを畏れて畏れ過ぎる事は先ず無い。
(詩篇第一三について)「復活の清算」
人は光を見てこの世に生まれ、この風の中で歴史と人の和を見、又その内で自らの思いに身を隠して生きて行く。人間であると自らを思う故に、この世で見えるあらゆる物事の上に自分を照らして、上下左右、正義か悪か、光と闇を分けようとするのである。どれ程の過去がその人の後にあっても先を見て生きる「人」にとっては、今が大事であり、未来を不安と共に希望を見ようとする。その間には、灰色の輝きがあるのだ。その幸か不幸かが分らぬ様にて、また人は恰好を付け、常識を考え、それでも光の方へ歩いて行こうとする。その連続が、時に疲れを覚えさせ、それ故の開き直りから希望という光を見付けさせる。
「ソドムは、その罪の故に、人の手によらず、一瞬にして滅んだが」(哀歌、四・六中途)この世の混沌は人を救うものか、あれほど栄えた富豪の地でさえ、背徳に目と心を焼かれ、終には滅ぼされたのだ。その真実はきっとその地でこそ表されて、人を裁くその根底であろうと存在するそのものには、人は自ず何も言えず、立ち尽くすしかない事を、生きている内から知っている。それは尊さにも似て居り、刺し貫かれてその者の運命が自ずと決まっている様に、動じず、失くせない自然の姿にも似ている。その不動にて、強く、おそらく神が定めたであろうその道徳に人は、打ち勝つ事が出来ようか。果して、人間の運命とは?人は、周りに光を見ながら、孤独の為に暗幕の中に居る様な錯覚を覚え、周りに水がありながら、その水は他人のものだからと飲まず、まるでそこが砂漠がある様に錯覚し、未来が見えもしないのに、まるで見て来て知っているかの様に、自分の思惑を他人に語ろうとする。その体面は静かなれども、後の影響にはオーラが重なる事を知らず、たった一瞬の内で、又それよりも一瞬の内に、無い光の報酬を自分で創り上げ生きている楽観だけに身を躍らせ、目論見に溺れて行く。一瞬と言えと、人は死を恐怖する故、それまでの時間は大切である。それと同時に自体の内では「時間」が進み、その出来事さえも一点の思い出にしか映らなくなるのに、「繰り返し」がそれでも良いと頷かせ、その身が尽きて行くのをただ見て居る体裁とする。他人はこの時、個人の様がよく見えているのかも知れない。そこで何が起きているのか。どこへその思惑が向かおうとしているのか。いつになく晴れている空でも、人には嵐に見える時があり、又その日々の連続から「そういうものだ」と頷かされる場合もある。各々、常に、自分に問うてみる。神なき世界の覇者となれば、その身の行き着く先はただ、地獄であると言う事。光の内に少々曇った蛇算が入ったとしても、自分が気付かずまでも、真実の目はそこにある。常に正義か悪か、を司る一点の目は君のすぐ頭上にあるのだ。群れに惑わされてはいけない。群れを世界だと思ってはならない。その群れの為に信仰を捨ててはいけない。人は群れであり独りである。その和を繋ぐ光の輪が、どうか光のものである様に。
その沈黙は、自分の鍵で開け続けたドアが背後に何十、何百とある様に、その情景が何も変わらない。恰も慣性から来る安心が聞き飽きた話を聞かせ悟すように、この心に押し迫って来る。だが、生きている以上、常に新しいものを欲しがる行き過ぎるその罪であろう故に、この自然を打破したがる。沈黙を破り、答えが欲しいのだ。しかし、答えを知ったが故に、人はその時の恐怖に陥り、新しくその罪の深さを見るのかも知れない。前進を願う者はそれでも良いと言うだろうか、束縛を嫌う者はそれでも解らない感情に溺れて、一生、呪い歩くかも知れない。その「時」は神にしか分らず、神が管理し、その御手の内にある。人は神の顔を見たいのだ。その事が罪と言われればそれも仕方が無い。しかし、本音はそこにある。人は、何か理由が無い限り、必ずその目的までの近道を辿る。ここでもそれは同じである。人は人を見るより、先に神を見たがる。きっとその事は、誰もが経験していて身に憶えがあるのだろう。パラダイスは何か、何処にあるのか?何ゆえの沈黙なのか。試練とは何か?又、何ゆえの試練であるのか。その事の答えを見付けた時、その者はここにはもう居ないだろう。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬




