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第九話

 春末に吹く風は花の匂いを攫いながら、周囲のすべてを染めるようにしている。花の香りが湧きたつような空気感の中、目の前にいる相手との真空のような気まずさに、俺は静かに息を吐いた。


「別れよっか」と彼女は言った。大学最寄り駅前のカフェテラス。くぐもったような珈琲の雰囲気と花の香りを混じらせながら、目の前にいる彼女は何も気にしないようにそうつぶやいていた。


 別れの話題について、彼女とは初めてのやり取りであったように思う。いつもの雰囲気であれば、通学するまでの道のりや帰宅をするまでの時間、その間の孤独を埋めるような会話を繰り返して、それらしい空気を形作っていたのに、今では互いが孤独になるための言葉が紡がれている。


 ただ、そんなやりとりをしたのは、俺にとって初めての経験ではなかった。何度もそんな言葉をかけられたことがある。どれだけの回数、別れを繰り返してきたのか、今となっては覚えていないし興味もない。そのどれにしろ俺が別れを告げられているのだから、きっと俺が悪いのでしかなかっただろう。


「わかった」


 俺は事務的な返事をするように、淡々とした声音を意識して返してみる。別に意識せずとも無感情に声を吐き出すことはできるけれど、それでも人間味がどこか残っていることを相手に誇示するように、俺はそう言葉を吐いた。


 本来、失意を感じるべき場面であるはずなのに、特に感情が動揺することはなかった。高ぶることも冷たくなることも、なにひとつとしてなかった。そんなフラットでいる自分を俯瞰で見つめては、どれだけ自分が無感情になれるのか、自分自身で試している。そんな寒い感覚が自分を支配していた。


 別れるのであれば後腐れがないようにしなければいけない。それは大学生活を過ごした三年間で理解した教訓のようなものだ。俺は誤魔化すような苦笑を浮かべながら、そのあと、どのような身の振り方をすればいいのか、そんなことばかりで頭がいっぱいになる。もうすでに目の前にいる彼女のことは意識の中には存在しなくて、どこまでも独りよがりな思考を繰り返しては、やはりそんな自分に対して嫌悪感を覚えてしまう。今さらそんな自分を変えることもできないだろうけれど、と諦めたような言葉を心の中で紡いでみた。


「やっぱり」と彼女は言った。何かを理解しているように、そのすべてをわかりきっているとでもいうように。だが、その言葉が何に対して紡がれているのか、俺は理解することができなかった。理解することができなかったから、何か言葉を返すようなことはしなかった。理解を諦めているのに、そのうえで言葉を返すことは失礼でしかないと、そういうことだけは理解していた。だから、目の前にある珈琲に適当な渦を作り出しては、外の世界を見やって、春末の空気、香りだす夏の雰囲気を確かめてみる。


「それじゃ、さようなら」


 そうして他人となった彼女はそれだけ言葉を残して、俺の目の前から去っていった。その後ろ姿を追いかけることもできたのかもしれないが、そんな欲めいた気持ちを抱くこともなかったし、そんな気概もなかった。どこかドラマか映画のようなキャラクターの振る舞いをする自分が想像できなくて、軽く手を振るだけをして見送った。あの子がそれに気付くことはなかった。




「これで何度目だっけ?」


 そう聞いてくる田口の手元にはビールが運ばれている。そのジョッキの側面にはキンキンに冷えていることを誇示するような水滴がぽつぽつと付着しており、彼はそれを満足そうに勢いよく頬張っていく。その飲みっぷりは豪快としか言いようがなく、つい先日二十歳になったという事実をこちら側に感じさせないような雰囲気がある。もしかしたら未成年のころからずっと飲んでいたのかもしれない、と確信めいた疑惑を抱きながらも、俺はそれを考えないようにしながら乾いた笑みを浮かべた。


「さあ? 五回目くらいじゃないか?」


 回数なんて数えたことがない。数えても意味がないのだから、実際に吐き出した数字に根拠さえない。別れを切り出された回数、それは五回よりも多いかもしれないし、少ないかもしれない。取り留めるような記憶はどこにもなくて、ただ誰かに別れを切り出された事実、ということだけが印象に残っているだけ。それぞれの顔さえも思い出せないのが、自分に熱がないことを意識させてくる要素がある。そんな風に思ってしまう自分がいた。


「ほんと、なんであんたみたいなやつのほうがモテるのかねぇ」


「モテてはないだろ。……っていうか、あんたみたいな、ってお前なぁ」


 先輩風を吹かせたいわけではなかったけれど、それでも「一応先輩なんだぞ」と言葉を付け足しながら、半ば反抗するような気持ちで彼の顔を睨んでみる。だが、俺に眼力というものはないらしく、俺が見つめる視線を彼は「はっ」と小馬鹿にするような息を吐きながら躱していった。それから続いてビールを煽っていき、常人では考えられないようなスピードでジョッキの中を空にする。


「ちゃんと敬意を持てる人間なら、もちろん俺だってそれなりの態度をとるし、敬語だって使うさ。でも、あんたはそういうんじゃないから」


 そう語る田口は昔のことを思い出すような口ぶりでそんなことを語った。彼がそういう言動にあること、性格であることは昔から知っていた。


 だから、それ以上の文句は言わない。文句といいつつも、これはテンプレートのやり取りでしかなく、一応彼が俺の後輩であること、彼にとって俺が先輩であることを確認するための儀式でしかない。そんなやりとりを繰り返したうえで、俺たちは会話を紡ぐのである。




 田口は後輩である。それも大学の後輩というだけではなく、高校からの後輩、ともいうことができる。なんなら卒業式における送辞も彼が担当していたし、更に掘り下げるのであれば生徒会役員の庶務として、副会長の俺と一緒に活動をしていた。……いや、会長であった幼馴染を主軸に協働していた、と言ったほうが正しいかもしれない。


 高校時代は仲が悪かったし、別に今も仲がいいというわけでもない。そもそも仲が良い悪い以前の話でしかなく、俺たちの関係性というものは他人でしかなかった。それでも過去を思い出せば、彼が俺に対して笑顔を見せた場面は何一つとしてなかったし、俺に見せた大半の表情は怒りを表すようなしかめっ面ばかり。


 そんな俺のことを嫌ってそうな彼が、どうしてこんな風に酒を交わすような場に赴いているのか。これについては単純な話でしかなく、彼が俺と同じ大学、及びサークルに入ってきたからに他ならなかった。





「それにしても、田口と酒を飲む日が来るとは思わなかったよ」と俺が過去を思い出しながらそう声を出すと、彼もそれに同調するように「そうなぁ」と息を漏らす。


「正直、今でもあんたのことは好きじゃないんだけれど、周囲への配慮っていうのもあるしなぁ。……ほら、一人が反抗しているだけで周囲の空気って気まずくなるから。そこは俺が頑張らないとじゃん?」


「……おい」


 昔を思い出させるような言葉を吐くな、と返したくなったが、そんなことを思ってしまう時点でどうしたって負けでしかなかった。


 実際、彼の言う通りでしかなかった。それだけで高校生活というものを俺は拾えなかったし、周囲の人間に迷惑をかけてきた自覚がある。


 だからこそ、大学生活の中では身の振り方を考えて過ごしていた。俺のことを知っている人間もいなかったし、それ故にいろいろな活動に参加することができた。その大半が幽霊部員のような形になってしまってはいるものの、一部のサークル、もとい活動団体では相応に顔を利かせるくらいには関係を紡ぐことができている。


 だが、それも結局紡ぐことができただけだ。そこに俺の本質というものを覗かせることはできていない。


「……強い酒でも飲むかなぁ」


「おっ、いいね先輩。今日からリスペクトしちゃおっかな」


「なめんな」


 そんな軽口を互いに飛ばしあいながら、二人で苦笑ではない軽い笑顔を浮かべている。彼の言葉に不快感を抱くことはなくて、楽しい気持ちを真に感じながら俺は注文パネルに触れてみる。結局そこで俺が選んだものはカシスウーロン。それを田口はからかうように笑っていた。




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