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第七話

 声に感情が震えていた。自己嫌悪についての考えが止まらない最中、それでも聞こえてきた声に感情が震えて仕方がなかった。


 その震えに同調するように身体でさえも震えそうになってしまった。それでも、俺に声をかけてきた彼女に戸惑いを悟られないよう、俺はなんとか自我を保とうとした。止めていた足を前に進めようとした。それは本能に近い恐怖によるものだった。


 待って、と声が聞こえた。それは俺の感情と同様に震えた声音でしかなかった。こちらを伺うような躊躇った声、その言葉。そのすべてが俺の足を理性的に止めるきっかけとして確立していた。


 俺は結局足を止めることしかできなかった。


 言葉を吐こうとした。ねえ、という声掛けに対しての適切な返答はあったはずだ。なんだよ、どうした、そんな言葉を返すだけでやりくりはできる。だが、いつまでも戸惑い続けている自分の感情に嘘をつくことはできずに、俺は無言のままで言葉を吐き連ねることができなかった。


 苦しい気持ちになった。ファミレスの中で味わった気まずさよりも、本当に肺から吸いこんではいけない煙のようなものを取り留めているような、そんな苦しさがあった。指が震えていることを実感した。夜の寒さというものを今さらになって実感しては、遅すぎる感覚の伝達に息を吐きそうになる。


「なんで、来たんだよ」


 結局、俺はそう言葉を吐いてしまった。その言葉は、誰かに来てもらうことを想定していたような、期待をしていたような気持ちからのものだったと思う。そうでなければ、来たことについてをとがめるような言葉は吐き出されないはずだった。


 なぜ、彼女はそこにいるのだろう。俺は期待していなかったはずだ。彼女の顔を見たくはなかったはずだ。彼女の顔を、声を感じるだけで自己嫌悪は肥大していく。何もできなかったが故の結果が目の前にあるのだ。その存在が俺にとっての彼女なのだ。取り返しのつかないことをまざまざと見せられることが、どうしたって俺には苦しいものにしか映らなかった。だから、俺は彼女に対して無関心を装おうと繰り返し演出している。


 それが、どうだ。結局は嫌悪しか生まれていない。それがひどく自分勝手な感情の迷いだと理解していても、今となっては俺は彼女に対して恨むような気持ちしか抱いていない。すべて俺が悪いだけでしかないはずなのに、それでも彼女を悪者に仕立て上げて、自分が正義だと振りかざそうとしている。すべては彼女が悪いのだと、好意を反転させた憎悪が心の中に広がっていく。


 だから、気持ちが悪い。自分の存在が気持ち悪い。自分の中に生まれる感情すべてがどうしようもなく現実に即していない。俺がそうありたい自分にひとつとして届かない。そうあってほしかった現実はいつまでもかなうことはない。


 すべての要因は俺だ。俺が行動をしなかったから、その後悔が俺の中に根付いているだけだ。その後悔をきっかけにすべてを拒絶しようと繰り返している。無関心を装うことも結局できず、ましてや好意は嫌悪に代わっている。そんなことを考えている自分が愚かでしかない。傲慢でしかない。何様なんだよ、と自分の心が俺に対して問いかけている。それを思うたびに苦笑する自分がいる。自分が自分の中に何人も重なっている。


 俺の言葉を吐いてから、いつまでも沈黙が続いていた。何かが解決することはなく、後ろにいる彼女の息遣いだけが耳に響いてくる。さっさとこの惨憺たる現実を消してしまいたいのに、時間が流れるだけで何も進展はしない。


「もう、行くから」


 それだけの言葉を残して、俺はようやく足を踏み出した。そうすることが彼女のためであり、俺のためでしかなかった。俺のためだけの行動でしかなかった。それを自分で分かり切っているからこそ、その足の歩みを重く感じた。いつまでも躊躇うようにしている自分がいた。


「待って、待ってよ」と声が聞こえた。こちらを止めてくる言葉の応酬。こちらに希うような言葉の重ねがけが苦しくなった。俺が悪いからこそ、俺が悪いということを知らしめるような彼女の言葉が痛みにしか感じなかった。俺は足を止めようとしなかった。だが、重みは更に増して、一歩踏み出しただけの不自然な体勢で硬直した。


「だから、なんなんだよ」


 意味が分からなかった。俺の足を止める意味合いが、彼女が俺に声をかけてくる意味合いが、何一つとして理解ができなかった。そして、自分の感情さえもままにできない自分が理解できなかった。逃げ出したいと考えているはずなのに、それでも歩みを進めることがこれほどまでに難しいものだとは思わなかった。俺はいつまでも自分を制御できていなかった。


「もう、いいだろ。話すことなんて何もない。もう生徒会は終わったんだ、俺もあいつらのことが好きじゃないし、あいつらだって俺のことが好きじゃないだろ。だから、戻る意味なんてないだろうし、お前がここで俺を止める意味だってない。なあ、もういいだろ? 俺はさっさと帰りたいんだよ」


 彼女は何一つとして戻ることをこちらに強制する発言はしていないのに、勝手な想像で期待を孕ませて単語を含めた。止められることを期待しているような自分の振る舞いが本当に情けない。いなくなりたい、という感情が大きくなっていくのを感じる。


 鼓動が耳元で震えている。耳が、頬が熱くなる感覚がある。それを無視しようと繰り返している。冬を香らせる風の冷たさがそんな状況を作っている。俺は何一つとして彼女に対しての感情を連ねているわけではなく、自然とした状況で体がそうなっているだけだ、と言い聞かせている。そうすることでしか、俺は自分を立たせることができなかった。


 そして、言葉は吐かれた。




「嘘、だったの」




 震えた声、くすぐりにも感じるような、淡い声。はっきりとしない声音の中、淡々と彼女はそれでも言葉を吐こうとする。俺はその声に、振り向こうとしてしまう。


「全部、ぜんぶ嘘だったの。……好きな人ができたっていうの、ぜんぶ、嘘だったんだよ?」


 俺はその言葉を飲み込むことができなかった。




「気を引きたかっただけなの」と彼女は言葉を語った。


 俺が彼女を意識していることを知ってか知らず課は知らない。だが、言葉で彼女は俺を動揺させようとした。


「好きな人なんて、ずっといないよ。ずっと、ずっと君だけが好きだった。最初から君が好きだったの。でも、でもさ、私がそんなことを言ったから、君は私から離れるようにして、さ……」


「嘘、つくなよ」


 彼女はなんで、今さらになってそんな言葉で取り繕おうとしているのだろう。訳がわからなかった。


 あの時に吐き出した言葉が嘘であるのならば、すべてが嘘であるというのであれば──。


「嘘じゃないっ」


 彼女は、俺の感情をかき消すように言葉を吐いた。


 怒るような気持ちを、爆ぜていくような感情の起伏を声に含ませながら、断固としたように彼女は言葉を吐いた。


「嘘じゃないよ、本当に、嘘じゃないもん──」


「──だったら、なんで」


 ──堰き止めなければいけない感情が、喉から零れていく。




 ─なんで俺に本当のことを言ってくれなかった? 今の今まで言葉を濁し続けていたんだ? そうして今言葉を吐いている理由はなんだ。どうして今さらになって行動をしているんだ。お前はなんであの時から部屋に来なくなった? 別にいつでも来てよかったはずだ。言葉を紡げば、それだけでどうにかなったはずだ。それで少し溝が開いてしまうことはあるかもしれない。でも、教えてくれることはいつだってできたはずだ。だが、お前はそうしなかった。それが何よりの証拠じゃないか。俺が好きだったなんて嘘、この期に及んで紡ぐ意味はないはずだ。俺が無関心を装っているさまが苦しかったか? 俺が反応をしないことが苦しかったのか? 俺がいつまでもお前に対して踏み込もうとしないことが嫌だったのか? だったら、なんでその時に言葉を吐き出さなかった? 嫌だ、となんで言ってくれなかったんだよ──。




 半ば以上の怒りを孕ませながら、俺はあふれる感情のすべてを吐き出していく。


 その言葉のすべては自分に向けて吐かれるべきものだ。いつまでも行動しなかった俺こそが悪いのに、それでも彼女が悪いと仕立てるために、重ねるようにして言葉を吐いている。


 それが、俺の醜さの根源でしかない。


「ごめん、ごめんなさい。でも、でも本当に私は──」


「──もう、聞きたくない」


 お前が俺の感情を揺さぶろうとする言葉を、その声を、お前の表情も、すべてを心の中に取り留めておきたくない。何も考えていたくはない。彼女の言葉の真偽なんてどうでもいい。


 だって、それが本当であるのならば、今の俺を作り上げたすべての状況はなんなんだ? 俺は、結局何がしたかったんだ。


「すまない」と俺は言葉を漏らした。


「もう、無理なんだよ。俺たちは。……俺は。


 ……もう、どうしようもないんだ。お前の言葉が嘘でも本当でも関係ない、どうしたって俺たちの関係は終わってるんだから」


 終わりも始まりもない。


 何もないから、意味はない。


 そう吐き出すべきなのに、俺が紡いだ言葉は、そんなものだった。始まっていたことを期待していた、自分を殺すための言葉、それだけを紡いでしまった。


 足の重さは感じない。何も感じられない。軽やかさだってかんじない。もう俺を止めるものは何もないような気がする。もう後ろめたさを感じる必要はない。彼女に感情を悟られたくない。無関心を今でも装おうとしている。それさえままならないことを理解していても、それでも俺は足を動かそうと前を見つめる。


「待って、ねえ、待ってよ──」


「──ごめんな」


 暗がりにある視界の中、おぼつかない足を前へと踏み出した。後ろから聞こえるむせび泣くような声が心を刺そうとする。だが、何も感じていないことを明かすように、そう演出するように、俺は一歩一歩を前へと踏み出した。


 もう、後ろは振り返らない。彼女はそこにいないのだ。俺の中に彼女はいないのだ。


 俺は、さよならだけを心で紡いだ。言葉がなくとも、別離の振る舞いはできたはずだから。

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