第六話
それから沈黙による気まずさは続いた。続いてしまった。
俺は空になったグラスの軽さを手で遊ばせるようにしながら、心の底から漏れる感情にため息を吐き出してしまう。こんな空気を持ち出してしまったことについての後悔というのもあるが、それ以上に自らが吐き出した言動を精査してしまったが故に、いまいち誤魔化すような振舞いさえもできなかった。
「飲み物、取ってくる」
真空のような沈黙が苦しくなって、逃げるように俺はその場を後にした。
テーブルの上には俺と同じように空になったグラスが置かれていたけれど、俺に続いて立ち上がるものは誰もいなかった。気まずい空気を気に入っているわけではないだろうが、それでも少しでも俺と時間を共にする方が嫌だったのかもしれない。申し訳ないと感じる気持ちが強くなったが、それでも謝罪の言葉を紡ぐことはできず、俺は淡々とドリンクバーでジュースを汲むことしかできない。
もう飲み物を混ぜるようなことはしなかった。メロンソーダを入れた後、彼らの方へ視線をやってみる。特に会話が始まっている様子はない。誰も彼もが視線を泳がせるようにしているが、その視線が俺を追いかけてくるということはない。これだけでは時間が足りないことを悟って、俺は普段は飲まない珈琲なんかも入れてみた。
苦いものは好きではなかった。甘党であることを自覚しながらも、それでも俺はミルクだけを持って席へと戻っていく。それでも苦しい気持ちは変わらなかったし、戻ってきても気まずさが緩和されるようなことはなかった。
「俺、もう帰るよ」
極めて優しい声音を意識しながら、俺は彼らにそう言った。後輩が場を和ませるように、何かしらの自虐を交えながら会話を広げようとしたけれど、周囲が同調することはなく、苦しいだけの笑顔を浮かべて終わるだけの空気。そんな気まずさに耐えられなくなってしまった。
俺は薄ら笑いを浮かべることさえできなかった。テーブル席にいる全員の視線を交わすようにしながら、俺はひたすら遠くにある外の世界を覗いていた。周囲もそれを察しているかどうかは知らないが、幸い視線がこちらに向けられることはない。
俺がこの場にいる必要はない。彼らの居心地の悪さとなっている原因の俺が脱け出せば、それだけで彼らは救われるかもしれない。俺がいなくなった後は、俺の陰口でも広げればいい。思い出話をしながら、俺のことを酷く言ってくれた方が俺も救われるような気がする。そんなことを思ってしまうほどには、さっさとこの場から消えてしまいたかった。
自分が注文したドリンクバー分の金を財布から広げて、テーブルの上にじゃらじゃらと置く。先輩という立場なのに、金を多めに出すこともできない。申し訳ない気持ちがあっても、行動でそれを謝罪することもできない。
そんな様子を見ても誰かが何かを言うことはなく、気まずい笑顔を浮かべるだけを繰り返している。その中に紛れるように俯いている彼女の表情が気になってしまう自分がいたが、それでも俺は気にしないようにした。
お疲れ様です、と後輩がそう声をかけた。それに重ねるような声もあった。彼女の声は聞こえてこなかった。
それでいい、それがいい。
彼らが優しくなくてよかった。優しければ誤魔化すように俺はその場を留めようとするのだろうが、ここで解放するように見放してくれる人間性でよかった。……いや、俺が彼らに対して優しさを向けられるような関わりをしてなかっただけだ。勝手に彼らを悪役に立てようとするな。そんな傲慢を自分で許してはいけない。
彼らは何も悪くはない。きっと、彼女も悪くない。俺が悪い、俺が悪いだけなのだ。周囲を巻き込む俺が悪いだけなのだ。そうでしかないのだ。
一人だけで帰る道の中、どうしたって静けさが耳に触れる鬱陶しさがあった。
世界はどこまでも静かなままだ。完全に夜となった世界では物音が耳に届くこともない。自分の歩む靴音の一つでさえも、自分自身でそうしているのかはわからないが届くことはなく、前にも後ろにも音はない。たまに車道を通っていく車のエンジン音が聞こえるたびに頭をあげるけれど、その甲斐さえも存在しない。いつまでも俺の目の前にある世界は無の雑音だけに包まれている。
そんな鬱陶しさを覚えながら、俺は自分が吐き出した言葉の意味を考えていた。考え続けていた。それを繰り返せば心に痛覚があるような、針を刺す痛みを思い出すのに、それでも思考が離れることはなく、いつまでもそれを考えてしまう。
『無理だろ。こいつ、彼氏がいるんだから』
俺は確かにそう言った。彼女にそう言った。その場にいる全員に宣言をするように、俺は確かにそう言ったのだ。
だが、それは捉えようによっては『彼女に恋人がいる』という事実というよりも『彼女には恋人がいるから諦めた』という意味に繋がってしまわないだろうか。
そう考えてしまう自分がいる。そう考えて苦しんでいる自分がいる。
無関心を装っている。無関心であろうとしている。そうでなくとも、俺の中に彼女はいないし、彼女の中に俺はいないのだから、他人であることを確実に理解して、その上であらゆることを振舞い続けてきた。だが、俺のそんな言葉ひとつ、無意識に吐き出したからこその言葉は、俺が彼女に向けて思っていた感情の吐露になっていたのではないか。
なぜ、俺は無理だ、という表現を使ったのか。……いや、それは無理な話でしかないから間違ってはいないはずだ。恋人がいる彼女と付き合うことは不可能だ。だから、無理であるという方が正しい。
違う、そうじゃないだろ。わかりきっているだろうに。『付き合わないんですか?』という質問をされたときに、状態が不可能であったとしても、無理、という言葉を返すべきではなかったのだ。もっと適切な返答があったはずだ。彼女の状態がどうであれ、それ以上にまともな返答があったはずだ。違う人が好きだから、恋愛に興味がないから、適当な理由でいいはずだ。無理、と言葉を語ったのは──騙ったのは──俺が彼女に関心を抱いていることの証明でしかないのだ。
「……」
そんなことに気が付いてから、俺は叫びだしたくなった。目の前にある沈黙が、静かすぎる世界のそれに抗いたくなった。いつまでも自分を装ってきた仮面が気持ち悪くなった。何一つとして行動できていなかった自分が気持ち悪くてしょうがない。吐きたい、吐き出してしまいたい。何もかもが気持ち悪くてしょうがない。嗚咽が重なってしまいそうになる。無感情でいることなんてできやしなくて、いつまでも俺は俺の感情に、彼女に対する気持ちに囚われ続けている。
ああ、結局はこうなのだ。俺は何一つとして変わっていないのだ。彼女に対して行動を起こすことはできず、誰に対しても行動することができていない。吹っ切れることもできず、鎖に縛られたような感情で、誰かを戸惑わせるような振舞いしかできていない。迷惑をかけることでしか俺は存在できていない。
俺が望んだことは何も叶いやしない。叶うことなんてない。だって、俺はいつまでも逃げることしか行動できていないのだから。誰かのために行動をしたことがないのだから。他人とのかかわりを遠ざけて暮らしてきたのだから、何かが展開されるわけもない。
自己嫌悪、自己嫌悪、自己嫌悪。
晴れることはない目の前の闇のように、黒い自己嫌悪が感情を塗りつぶしていく。それを俯瞰で見つめている自分でさえも気持ちが悪い。そんな様子を俯瞰で見つめて、どこか悦に浸ろうとしている自分が、自虐で落ち着かせようとしている自分が気持ち悪い。
「なんなんだよ」
そんな独り言を振舞っては、自分が道化であることを意識する演出が気持ち悪い。自分のすべて気持ち悪い。何一つとして得られていない、成長さえもできていない自分が醜くて気持ちが悪い。
足を止めた。何もできなくなった。それを自覚した。歩くことが面倒くさくなった。家に帰ることもできないような気がした。目の前にある暗闇に浸りたかった。目を閉じて、息を吐き出すことを繰り返すだけした。それでも何かが解決することはなく、何も見出せるものはない。
自己嫌悪、自己嫌悪、自己嫌悪──。
「──ねえ」
──そんな、頃合いで声が聞こえた。
聞き覚えのある声、聞きたくはなかった声。耳に入れたくはなかった声、聞いていたかった時があった声、俺が望んでいたかもしれない声。今は遠ざけてしまいたい声。
俺の感情を揺らがせる声が、耳に転がっていた。