第五話
結局、俺は弱い存在でしかないのだろう。
どれだけ冷静に、そして冷酷に彼女のことを遠ざけようとしても、寂しそうな震えた声音一つで感情をほだされてしまうのだから。どれだけ彼女のことを世界の外に追いやろうとしても、それでも感情は冷酷になり切れないのだから。
俺は彼女の声掛けを無視することはできなかった。無言のままを突き通しながら、結局扉に触れることはしなくて、自席に戻ってひとつの息を吐いた。周囲の煙たいと感じるような視線に帰りたい気持ちは強くなったが、それを無視して俺はひとつのため息を吐いた。そんなことを演じている自分がどうしても恥ずかしいと自覚しながらも、紅潮する顔を隠しながら、俺は下を向いて時間をやり過ごした。
「ありがとね」と声が聞こえた。
打ち上げは少し離れているファミリーレストランで行うらしい。俺は大して持ち合わせがないため、少しばかり不安を覚えてしまうところがあったが、大丈夫だよ、と彼女は声をかけてきていた。そんなさなかに、件の声が聞こえていたのだった。
「……別に」
冷たくあしらおうとしたけれど、俺の声は震えてしょうがなかった。何も気にしないと心掛けているはずなのに、顕著に何かを感じているかのような声が出た。それに彼女はくすくす笑っていた。別に心地は悪くはなかった。
俺は彼らの後ろについて歩くようにした。憎まれている役回りの人間が先導することには抵抗があった。そうでなくとも打ち上げという企画を立案したのは彼女でしかない。彼らとしては俺のことを視界に映したくないだろうという確信がある。だから、後ろについて回るようにして、一定の距離を置くようにした。
だが、彼女は俺に寄り添うように隣で歩みを重ねている。何も考えないようにすることを何度と続けているけれど、それでもそわそわとする感覚がある自分を隠すことはできないような気がした。
やめとけよ、といつかの言葉を繰り返そうとした。けれど、それさえも言葉を吐くことはできなかった。いろいろな感情が巡っていた。彼女に対する無関心がぶれていることもそうだし、彼女が恋人のいる身であることを知って、その後ろめたさも反芻していた。
ただ、別にいいか、という気持ちもあった。それは彼女に対する許しではない。単に、今日という最後の日くらいであればかかわりを許容してもいいか、というだけの話でしかなかった。
目の前にいる彼らから声が聞こえてくるような気がする。俺たちを蚊帳の外に置いて、思い出話のようなもの、他愛のない雑なこと、ファミレスで何を注文しようかと相談しているさま。そんな姿を見ながら、きっと俺はこんなものを求めていたんだろうな、とそう思ってしまう。
空しくなる。俺の中には何もない。彼らのような関係性を求めていたはずなのに、そうして俺は行動をしたというのに、いつまでも空回るようにして結果にたどり着くことはない。俺はどうしてこんなことをしているんだろう、何ひとつも成長していないのではないか。ずっと彼女から逃げるようにしている生活は、俺のすべてを停滞させているのではないか。いや、俺自身が停滞を選び続けているのではないか。そんな気持ちになる。
そんな時、くす、と隣から声が聞こえてきた。
「楽しそうだよね」
彼女からそんな言葉が届く。俺もそれに頷いていた。いつもであれば声を無視するようにふるまっていたはずなのに、それでも頷いて反応を返していた。
「俺も、ああなりたかったのかもな」
素直に、思っていたことをつぶやいていた。
俺はああなりたかった。彼女という存在を忘れて、隣にいる彼女の存在を考えないようにして、目の前にある楽しそうな関係を紡ぎたかった。それが誰かから揶揄されるものであったとしてもどうでもいい。俺は人とかかわって楽しい時間を過ごしたかった。その時間を過ごす中で、関係性をお互いの中で認知していき、自分の本質をさらせるようにしたかった。誰かの本質を知ることができるようにしたかった。
だが、俺の目の前にはなにもない。俺が見逃した結果だけがそこにある。世界が俺に誤りを指摘し続けている。その結果が目の前の惨状であること、孤独でしかない現状を、俺にさらし続けている。
でも、既にどうしようもないのだ。今さら行動を起こしたところで、誰かが何かを救ってくれることはなく、何かが誰かを救ってくれることはない。俺も救われず、だれも救われず、何も救われず、目の前で事が運ばれるだけなのだ。
はあ、とだれにも聞かれないようにため息をついた。どうして俺は聞こえないように息をついたのだろう。
きっとそれが彼女に対して後ろめたいことだったからかもしれない。
ファミレスに到着し、店員によって広いテーブル席へと案内された後、各々で注文用のタブレットを回していく。大して腹が減っていないのと、財布の中身を広げて心の中で相談をした結果、俺が頼んだのはドリンクバーだけだった。それを、つまらない、と苦笑する後輩の姿があった、うるせぇ、と小言を返すようにしてみる。それに周囲は笑ってくれた。
彼女は隣に座っていた。俺の隣なんて窮屈でしかないだろうに、それでも「幼馴染だから」と小声でつぶやいて隣にいてくれた。その言葉を拾った後輩が「そうだったんですか?」と心底驚いたような表情で聞いてくる。俺は何も返さないまま、彼女は、うん、と頷いた。
彼女は何かを語ろうとした。だが、俺がそれを視線で逸らせるようにした。横目で彼女のことを静かににらむようにしながら、何も話さないように、と態度だけで釘を刺していく。うっ、と気まずそうな声が彼女から漏れた後、特に言葉が続くことはない。あっ、という後輩の察したような声で、しばらく真空のような沈黙が続いていた。それを持ち込んだのは俺でしかなかった。
各々が注文を終えた後、俺は、トイレ、と単語だけを吐き出して逃げるように言葉通りの場所へと向かった。それ以外の連中はドリンクバーのほうへと足を運んでいく。「先輩の分、持ってきておきますよ」とこちらを気遣ったような声がかかったけれど、俺はなるべく優しい声音を意識しながら、大丈夫、と返した。そうですか、と後輩は頷いた。
別に用もないのにトイレにこもって、手を洗うだけの時間を過ごした。水をひたすらに流すようにして、その冷たさで手が白くなるような感覚を味わった。それが心地いいわけでもないはずなのに、その感覚に浸っている間だけは心が落ち着くような気がした。まるで自分を罰しているようなそんな感覚に、俺は何度もため息をついた。
数分ほどそれを繰り返した後、俺はトイレから出てその足でドリンクバーのほうへと向かっていく。一瞬、こちらをうかがうような視線をテーブル席から感じたが、それを無視しながら自分用の飲み物だけをとってみる。なんとなくジュースを少し混ぜたくなって、どぶのような色をした飲み物を完成させた。少し味見をしてみれば、下手に甘くなった感覚が舌に残るような気がして、失敗したな、と思った。
そんなドブ水を手で運びながら、俺はテーブル席のほうへと移動していく。テーブル上にはサイドメニューが二つと各々のジュースが置かれており、色合いのバリエーションは豊富であるような気がした。
俺の飲み物を見て、いつもは絡んでこない後輩の男子が「なんすかそれ」とからかうような声をこちらにかけてくる。ドブ水、と冗談になるかわからない塩梅の言葉を吐いたら、それに苦笑をしながらも笑ってくれる彼らがいてくれる。優しい人たちだ、と改めて俺は思った。
「昔から混ぜるの好きだよね」
彼女からそう声が届いた。彼女からそう言われて、少しぎくりとしてしまった自分がいた。そんな昔を振り返るような言葉を吐かれて戸惑った自分がいる。もしくは、隣に彼女がいる状況の中で、昔を懐かしむように飲み物を混ぜた無意識の自分に対し驚きを覚えてしまった。
「そう、かもな」
誤魔化すように乾いた笑みを浮かべながらそう返した。やはり声は震えてしまった。そもそもすらすらと言葉を吐けない時点で動揺していることは確かでしかなかった。それが周囲にばれなければいいことを願いながら、俺はようやくテーブル席に座った。
幸い、俺が動揺していることは誰にもばれてはいなかった。もしくはばれていたのかもしれないが、それを周囲が言動で形にすることはなく、すぐに別の話題へと移っていた。
話題は恋愛に関することだった。俺は何も考えないようにしながら、そっぽを向いて飲み物を飲んでいた。暗くなる世界の中、外で走っている車のテールランプを見つめては、適当に時間をやり過ごすことにした。
結局、どうして俺はここに来たのだろう。そんな疑問がついて離れなかった。言い訳を心の中で繰り返しては、そんなことを考えていることに嫌気が差す自分がいる。どうでもいい周囲の会話に耳を貸せばいいのに、そんな思考がちらついては俺の視野を狭めるように苦しめてくる。
そんな、頃合で飛び込んできた言葉があった。
「先輩たちは、付き合わないんですか?」
生徒会の書記だった女子が言葉をかけていた。先輩といわれる役職についているのは俺と彼女しかいないから、どうしたってその言葉を無視することはできないままに耳へと入れていた。
その言葉だけで一瞬場が凍り付いたような気がする。庶務だった男子は慌てたような表情を作って、書記の肩を揺らしながら、おい、と少しの憤りを混ぜたような声を吐いた。
彼女はそれにうつむいた。何も言葉を返すことはしないまま、うつむいて持っている飲み物を見つめるようにしていた。
別に、端的に言葉を吐けばいいのに。回答をちらつかせればいいだけだ。簡単すぎることでしかない。周囲が慌てる要因さえもない。
「無理だろ。こいつ、彼氏がいるんだから」
俺はそう言った。心の底からため息をつきながら、それでも動揺する自分を隠して、端的にそう言葉を吐いてやった。
途端、唖然とするような周囲の空気。隣にいる彼女のこぶしが固く握られるのを視界の端に入れながら、俺は飲み物を飲むことにした。
誰も彼もが息苦しいような表情を浮かべている。他人事でしかないだろうに、それでも苦しい表情を浮かべている。
そして、俺もその苦しみにほだされている。何も考えないように、自分を世界の外側に置こうとしているのに、それでも俺は苦しくなった。どうして苦しくなるのだろう。どうして苦しくなってしまうのだろう。
ぼんやりと考えながら、表情は無を演出する。誰にも何にも感じていないことを示すように、誤魔化した振る舞いをしながら、手元にあったジュースを口に放り込んだ。
……グラスの中身が底を突いた。