第四話
後ろを振り向きそうになった。足音が遠ざかっていることを理解して、なんとなく後ろを振り返りたくなってしまった。そんなことをしているのが自分自身であるとわかっているはずなのに、そんな衝動を覚えてしまう。それでも後ろを振り返ることをしないのは、俺が彼女に対してのかかわり方を理解しているからであり、無関心を突き通すことを定義づけているから。
何も考えることはない。彼女に対しての憂いも躊躇いも存在しない。俺の心の中には彼女の姿は既にない。そうであるのならば、振り返るような必要性もなく、そうして優しくするような振る舞いはどうしたって無駄でしかない。
そうでなくとも、彼女には好きな人がいる。俺はそれを知っているし、俺自身がそんな言動を吐いたのだ。そんな人間に対して、俺が無理に寄り添うような真似は許されることはない。その恋人に対して後ろめたいような行動を行うほうが愚かであり、これ以上の馬鹿にはなりたくないから、俺は後ろを振り返らなかった。
夜に包まれている世界の中で、俺は何も考えないことにした。目の前で等間隔に並んでいる街灯が落とす光も、道に連なるアスファルトの汚れも、そうして後ろから聞こえてこない靴が鳴らす雑音でさえも、何も気にしないように振舞う。それを繰り返し続けている。
ああ、何度も繰り返している。あんなやりとりも、言葉かけもない。こうして何も気にしない振りも、見て見ぬ振りも、すべてがすべて繰り返されている、繰り返し続けている。
これ以上、俺たちの間では何かが進展するようなことはない。俺は期待をしない。俺は彼女を信じない。自分の中に幻想を抱くようなことはせず、ただ現実をゆっくりと目の前で見守っていく。それが俺にやりきれるすべての演出だ。
俺は、彼女がもう好きではない。そして嫌いでもない。無関心を装うことで憎悪を掻き立てたりはしない。関心を向けることはしない。俺は何も感情を覚えない。そうすることだけが、俺にできることだった。
これまでも、それからも、彼女は何度も声をかけてきた。声をかけようとしてきた。視線でこちらを探るようにして、周囲の空気をうかがいながら、そんな中で俺へと話しかけようとする姿を何度も見た。
景色の中にあった彼女のそんな様子を見て、俺はそれらすべてを躱すようにした。こちらへと口を開くようなことがあれば、そのさまを見てどこかへと逃避するようにした。そんな行いをする無慈悲な自分へと吐き気を覚えそうになるが、これもそれも俺のためであり彼女のためだった。
事務的な連絡はすべて人づてに行っていた。生徒会室の中でわだかまる俺たちの空気に周囲は何かを察していた。後輩の庶務が何かしら彼女と俺をつなげるような話題をつぶやいていたが、それは苦笑をすることでなんとか誤魔化した。俺は何一つとして彼女とは話したくなかった。
それでも、たまに二人きりになることがある。会長と副会長という関係性、ほかの生徒会役員ではやることのない作業を生徒会室で二人で行わなければいけない時間。俺はその時間が一番苦痛で仕方がなかった。家で作業できるのならばそうした。だが、書類の関係上、それらを家に持って帰ることはできず、苦しい気持ちを抱えながらなんとか作業をした。
その度に彼女は声をかけてきた。声音の中にあったものは後ろめたさと躊躇いのようなもの。そこに妥協を含めたあきらめを孕ませながら、それでも声をかけてきていた。その音の低さに耳を引きずられながら、それでも俺は何も考えないようにした。
「寒くなってきたなぁ」
「乾燥してきたかも」
「時間が経つのは早いね」
そんな、独り言のような声掛け。俺がそれに言葉を返さなかったとしても違和感がないように、彼女自身に呟くような、そんな声掛け。
彼女がそうするのであれば、俺も言葉を返すようなことはしない。独り言だという風につぶやいているのであれば、俺もそれに対して無言を決め込んで、何も考えないようにした。目の前にある書類の文字を読み込んでは、来年度の生徒会に引き継ぐための資料を作成した。
ほとんど、そのような毎日を送っていた。
それらのかかわりが最後まで変わることはなかった。そうして今日もそんな日々をやり過ごしていた。生徒会役員の大半はその仕事を終えて、解放されたような顔で帰宅をしていった。俺もその中に混ざりたかった気持ちはあるものの、置き去りにしてきた課題を重ねてしまったせいで帰ることはできなかった。おおよそ二日くらいはかかるかもしれない。生徒にそれほどの量の仕事をさせるなよ、と教師に文句を言いたくなってしまう気持ちもあるが、それを飲み込んで作業をした。はいるかどうかを最後に決めたのは自分自身でしかないのだから。
だから、すべてを受け止める。何も気にしないようにしながら毎日を過ごす。自分自身の弱さで彼女に帰宅を誘ったとしても、それでも結局諦めたようにして俺は前を進む。それが例え彼女の恐怖である暗がりの世界であったとしても、俺には関係ないことだと決め込んで、目の前の暗い世界を静かに歩く。
もう足音は聞こえない。彼女の息遣いも聞こえない。どこまでも遠くなった景色がそこにはある。どこまでも遠ざけてしまった景色がある。
もう既に手を伸ばすことはできない。その手を伸ばすには、あまりに時間が遅すぎる。そして、あまりにも時間が足りなさすぎる。
俺の声は、彼女の声はどこまでも届かないし、伝わらない。そうすることを俺が選んでいる。彼女がどうしたって、俺はそれを受け止めることができないのだ。いつまでも、どこまでも。彼女が近くにいても、遠くにいても変わりはしない。彼女は彼女で、俺は俺でしかない。
もう、離別は済ませた。
俺は、それからも孤独のような生活を繰り返していくのだ。
生徒会最終日、という名目で集まりはしたものの仕事は特に残されていない。大概の人間、俺と彼女を含めてすべての仕事を終わらせることができており、ほぼ集まることだけを名目にした集まりが広げられた。
最後まで俺と彼女の間に会話はなかった。それを鬱陶しいような見つめる視線、もしくは諦めたような視線で見てくる目を躱しながら、俺は特に意味のない集まりの中「それじゃ」と声を出した。
憎まれ役、というものを俺はになっていると思う。かかわろうとする彼女を躱すように、それらを周囲が俺へと促していくように、それでも無視をした俺は悪役でしかない。実際、悪いことはしていると思っているが、それも無関心の故だと言い訳をしたい。そうするためには過去を開示しなければいけない。結局、そうするための関係性を作ることさえも放棄してしまったのだから、きっとすべてに意味はない。
周囲からどう思われているのかもどうでもよくなって、俺はそれだけ言葉を吐いて生徒会室を出ることにした。いつもであればかさばっていた学生鞄の中身は落ち着いており、肩に提げても特に重みを感じるようなことはなかった。
座っていた椅子を無理くりに机へと押し込むようにする。床を引きづった音が耳に障る。それも今日で最後だと晴れ晴れしたような気持ちを抱きながら、俺はその場にいる全員に背を向けて、さっさと生徒会室を後にしようとした。
そうして、声はかかった。
「ねえ」
指が扉に触れるかどうか、それくらいのタイミングだった。俺はその声に指を止めてしまって、声の続きを待ってしまった。
声の主は彼女であった。やはりその声の中には躊躇いのようなものが含まれていて、少し震えたような息が耳に届くような感覚。俺はなにも答えないまま、背を向けて待っていた。
「最後だし、打ち上げとか、ど、どう?」
躊躇いがち、俺に向けて、というよりも生徒会室にいる全員に対して言葉をかけているような、そんな振る舞い。
なんだ、結局変わっていないじゃないか。いつまでも独り言を俺に向けてつぶやくように、誤魔化した方法でしかやり切れていない。
そうであるのなら、そうであるのならば。
俺はそう思いながら、その指先を扉のほうへと向けていく。指先が扉の鉄先に触れようとした、そんな頃合のタイミングで。
「……生徒会、全員で。絶対、ぜったい、全員で」
背中から聞こえてくる声に、顔だけ向けて視線をうかがう。
その顔は、確実に俺へと向けられていた。その視線は俺の体を貫くようにして、じっとこちらをうかがっている。なんなら、その言葉は生徒会役員に向けられたものではなく、俺にだけ向けられたような、そんな言葉。
彼女は、そんな言葉を、震えた声で、そう吐いた。