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最終話

「──それで?」


 いつも誰かしらと屯をしている講義室。静寂が雑音として耳に届くような空虚な部屋。実際には名ばかりでしかない講義が行われない空間の中で、田口はニヤニヤとした顔を浮かべながら、俺を揶揄うように声をかけてきた。


 俺たち以外に人が見当たらなかったのは、単に早い時間というだけだった。早くに通学したのはいいものの、一限目の講義までにはだいぶと時間が余っているし、なにより俺の履修している講義は二限目からである。だから早く来たことに意味なんてないし、人がいなかったとしても気にする必要もない。だが、それでも自分と田口だけがここにいる、という感覚にそわそわと痒くなる感覚は拭えないでいた。


 どうして早く来たのかと聞かれれば、田口に呼び出されたに他ならない。


 呼び出すにせよ、もっと遅い時間で会ってもいいと思うのだが、それでも彼は早朝とは言えない深夜に近い時間帯で『話聞かせろよ』なんて文面を俺に打ち込んできた。それに従う義理はないようなきもしたけれど、実際には義理しかない。だからこそ、俺はそれに従うようにして、こんな早朝から講義室に出向いているのであった。


「……それで、とは?」


「疑問に疑問で返すなよぉ。わかってるくせにさぁ?」


 けけ、とこちらを揶揄う雰囲気を田口が崩すことはない。見下しているようにも思えるにやけた表情で俺のことを見つめてくるのが少し、……いや、かなり鬱陶しいように感じた。


「せっかく俺があんたのために色々とりなしたんだぜ? 話してくれるくらいの褒美があってしかるべきだろうよ」


 さも偉大なことをしてやった、と言わんばかりに田口は雄弁に語る。にやにやとしている表情もそうだが、行儀悪く座っている椅子から足をはみ出して、これ見よがしに机へと体重をかけている姿は本当に偉ぶっているどつきたくなる。


 けれど、実際に彼の言っていることは理解できているからこそ、そんなことはしない。何かしらがあったことを彼には語らなければいけないのだろう。彼はそうして俺と深夏を引き合わせるようにしてくれたのだから、そこにつながるまでの話を、つながったときの話をきちんと説明する義理がある。それがたとえ混迷を招いてしまうような出来事に変わりはないとしても、それでも俺にとってはありがたい状況でしかなかった。そういう巡り合わせを彼が作ってくれた。だから、きちんと彼に言葉を尽くしたい気持ちこそはある、あるのだが──。


「別に、何もないよ」


 俺は彼に申し訳ないような気持ちを思いながらそう返した。田口はそんな言葉を耳に入れてもなお「またまたぁ」とこちらを煽るような口調で返してくる。


「そんなことあるわけないっしょ。一週間もすれば恋人作っているような下品な人間が、格好の機会と場面に巡り合って何もない、なんてことは──」


「……本当に、何もないんだよなぁ」


「──えっ? ……マジで?」


 まじ、と彼の言葉に合わせるように返してみる。そんな俺の様子が意外だったのか、彼はそれからあからさまに「えぇ?!」と大きな声を出した。誰もいない講義室でそれは反響したのだが、それでも続けて彼は何度も同じように反応を繰り返した。


「なにも? これっぽっちも?」


「……なにも。これっぽっちも」


 実際、本当に何もなかったのだ。なにも、これっぽっちも。田口がニヤニヤと期待するようなものはどこにもなく、だからこそ彼に語れるものは何一つとしてない。いや、もしあったとしても、個人間のプライバシーでしかないのだから語るものでは無いのだろうけれど、それでも俺には、彼女との間には何もなかったのだ。


「……まあ」


 田口は、へへ、と誤魔化すように笑う。


「どん、まい?」


「……うっせ」


 俺は彼の同情するような言葉に、そんな反発をすることしかできなかった。




 実際、あの後に深夏との間で劇的に関係が変化する、ということはなかった。


 俺たちは幼馴染だ。幼馴染でしかなかった。疎遠になった、疎遠にした幼馴染でしかなかったのだ。知人ではあるが友人ではない。友人でないのなら恋人に波及することもない。関係性に発展がみられないのだから、それ以上のこともない。


 ただ、俺たちはあの場で仲直りをしたに過ぎない。仲直りをするために互いに手を伸ばして、互いが抱えている罪を共有した。共有して、互いに誤ったことを謝って終わらせた。それだけでしかなかった。


 深夜という時間帯、寒くなっている外の環境を思って彼女を家に帰すようなことはしなかった。


 積もる話はあったかもしれない。言葉を交わさなかった期間が長かった。言葉を交わそうとしない期間を自身で作り上げていた。だからこそ、言葉を必要とする場面を俺たちは抱えていたはずだった。けれど、あれ以上に言葉が空間に生まれることはなかった。


 正直、照れくさかった。


 彼女の手を握って、その冷たさにびっくりした。それは外の温度に絆されているから、というのもあったかもしれない。俺の頬に流れていた涙を、くすぐっていた息は温く感じていたものの、それに反して握った手は冷たかった。それは外の環境というだけではないだろう。俺に相対することに緊張していた故に冷たかった、というのもあるかもしれない。


 そして、俺自身も手の震えを押さえつけることができなかった。彼女に対して想像したような緊張が、同様に俺の中にあったのかもしれない。だが、それ以上にあった気持ちとしては、本当にこれで清算されていいのだろうか、という気持ちだった。


 許されたいわけじゃない、許されたいわけじゃないからこそ、そうして仲直りをするということは清算をすることに繋がってしまっているのではないか。そんな不安と恐怖が入り混じっていた。


 深夏なら俺の行いを、その愚行のすべてを許してくれる。彼女が彼女自身を罰しているように罪を抱えていたからこそ、俺の罪などどうでもいい、というように優しさで俺の心を絆していく。そんなことが、俺は怖くて仕方がなかった。


 だから、互いに手を取り合った後、言葉を運ぶことはできていなかった。しばらく手を握り合って、俺はその肌の冷たさを身に染みて感じていた。きっと彼女は震える俺の手を確かめていたのかもしれない。背中に重力が張り付いているような重みはいつまでも拭えないまま、数分ほどじっと手を握り合っていた。


 手を離してからも、やはり会話は生まれなかった。


 だんだんと白けてくる空が見えてきた。同様に感情だけが目の前を左右していた空間も白けたように虚が介在しているように見えた。それほどまでに何もない空間を二人で味わっては、窓から見える外の景色を呆然と見つめていた。


 それが楽しかったわけでもない。けれど、寂しさに繋がっていたわけでもない。満たされるような感情は何一つなかったとしても、それでも同じ空間で、同じ時間を共有していた。同じ視界を共有して、互いに罪を確かめ合っていた。


 本当に仲直りができたのだろうか。


 今となってはもう、それさえもよくわからないような気がした。




「……いやいや。いやいやいやいや」


 事のあらましを田口に語った。酒で熱くなっているように感じた体を冷やすために外に出たこと、その帰りがけで深夏と出会ったこと。それから部屋の中で会話をしたこと。


 話したくないことは話さなかった。端的に、仲直りをした、とだけ彼には語って、詳細を話すようなことはしなかった。できなかった。……恥ずかしかったから。


 だが、それをよく思わなかったのか、田口はそんな拒絶で口を挟んでくる。何が言いたいのかよくわからなかった俺は、表情に疑問符だけを浮かべて彼の言葉を待った。


「なんかいい風に言っているけれど、それって誘い待ち、みたいなやつだったんじゃないの?」


「……誘い待ち?」


 何を待っていたのか、とそれっぽい言葉で田口に言葉を返してみると、彼はそれを気まずそうに視線でそらした。


「ほら、あれだよ。その。ええと、あ、あの」


「……?」


「……だ、男女の営み、というか、さ。というかあんたならよくわかってるんじゃねぇの?」


 男女の営み、と彼は語った。それだけでようやく彼の言いたいことは分かった気がするけれど。


「そういうんじゃないんだよ」と俺は言葉を並べる。


「そういうのじゃ、ないと思うんだ」


 これはただの憶測なのかもしれない。予想の範疇を抜けられるものでもないのだろう。だが、確信めいた気持ちが俺の中にはある。


 それは具体性のないもので、抽象的でしかない曖昧なこと。それについて説明をしろ、と誰かに聞かれても、俺はそれに答えることはできない。だが、それでもあの時の俺と深夏の間には、そういうものがあったわけではない、と断言できる。


「その心は?」


「さあ? どっかにあるんじゃないか?」


 田口の言葉にそれだけ返して、俺はその会話を終わらせた。




「そういや」


 俺がもう既に話せることはないと示すように口を噤むと、彼は思い出したかのように口を開いた。


「昼、学祭関係で学友会で集まりがあるらしいんだけどさ」


「……あー」


 あったなぁ、と返しながら俺は今朝覗いた通知を頭の中で思い出す。


 携帯は田口からの着信通知に埋め尽くされてしまって、他の表示されるべき通知が見えなかったが、ふと一人になってアプリを見返した時に、そんな文言が記されているメッセージがグループのチャットに届いていたような気がする。


「いやあ、いつもあんたには申し訳ないんだけど、今日も俺出れなさそうでさ。なんか上手く言っといてくれないかなぁって──」


「──ええと、ごめん」


 俺はそれをやんわりと断るような言葉を挟んで、それから気まずい空気に視線をそらしてしまった。


 えっ、と驚くような田口の表情。先ほど驚いたときとは異なって、心の底からびっくりしていることを示すような、唖然とした声音だと思った。


「え? なんでなんで?」


「……いや、別に」


「別に、じゃなくて。いつもだったら文句のひとつも言わないで参加してるじゃん」


 ……実際、田口の言う通り、学友会での集まりがある日には、だいたい俺も適当に顔を出しているのだけれど、ただ、今日に関しては都合が悪かった。そして、その詳細を田口に言いたくはない気持ちがある。


 だって、揶揄われることは目に見えているから。


「ともかく、今日に関しては無理。明日とか、今日以外の別の日だったらなんとかするけれど」


「……別の日に学友会があるかどうかは俺も知らんし。……それにしても、ふーん?」


 そして彼は何かを察したかのように、再びニヤニヤとした表情を浮かべた。


「別に、何もないぞ」


「何もないやつは、何もない、なんて言わねぇんだよ」


 彼はそう言いながら、これ見よがしにポケットからスマートフォンを取り出していく。俺には画面を見せないように、携帯を立てて操作をしているようで、俺はそれに嫌な予感を覚えた。


「……何、してる?」


「べつに? ……あんたからは何も聞けなさそうだから、先輩に連絡でも──」


「や、やめ──」


「──ほーら、なんかあるんじゃねーか!」


 揶揄うような彼の表情は憎らしいくらいに輝いた。


 俺はそれを無視した。




 結局、事の次第を彼に語ることはしなかった。話すべきところは話したような気もするけれど、そのあとに発展したことについては彼に話せていないような気もする。だが、こういったことはプライバシーでしかないのだ。俺だけならともかく、俺以外の人間を巻き込んでいるのなら、そう簡単に口を開くべきものでもない。


 だから、俺は知らないふりを決め込んだ。田口もそれからは深夏に連絡するようなことはしなかった。『あんたのそういう反応だけで満足だわ』とけらけら笑っていた。……今度、何かしらでやり返してやる、と密かに誓った。


 それから特に会話をすることもなく、田口は満足そうな表情を浮かべて『それじゃ』と俺に背を向けて講義室を出て行った。彼の時間割については知らないものの、きっと一限目に講義でもあるのだろう。俺は彼の背中を見送ったが、最後に聞こえた言葉に痒さを覚えた。


「よかったな。先輩」


 田口はそう言葉を吐いていた。今さらすぎる敬称というか代名詞に、俺は苦笑を浮かべることしかできなかった。


 


 二限目を中途半端に参加した。講義中、携帯で乗り換え案内を開きながら、時間に合わせるために動くにはどのタイミングがいいかを勝手に伺っていた。さもトイレに行く学生を装いながら、俺は鞄を持って講義から抜けていく。それに誰かが気づいている様子もなかった。講義の主に気づかれたとしても、大して欠席したことがないからこそ気にする必要もなかった。


 バス停、そして駅へと乗り継いでいった。これから大学に向かっていく学生の背中を見て、どこか晴れ晴れとしている自分に気づいた。どうしてそんな気持ちになっているのか、自分自身で理解できなかったけれど、特段悪い気分でもないのだから無視をした。無駄なことは考えすぎない方がよかった。


 電車で乗り継いて地元の駅へ。本来ならば三限目にも俺は講義があるのだから大学に残るべきだった。だが、単位については不足はないし、一度の欠席で落とすほどのようなことはしていない。もしつつかれるようなことがあったとしても、それっぽい理由で誤魔化すことができる。


 いつもならいるはずのない場所にいることに違和感を覚える。明るい空の下、見慣れているはずの駅の階下は、どこか違う世界のように華々しい。暑さをほどよく感じる空気の中、次第に夏がもうすぐそこまで来ていることを実感する。


 待ち合わせ場所はどこだっただろうか。そんなことを携帯で確認しながら、目立つような場所に立ってみて、それから再度携帯を覗いてみる。


『ついた』


 それだけを打ち込んで、必要なことは済ませておく。


 少しがわが剥がれているような時計がついているポールの下。この下にいればすぐに見つけてくれるだろう。そう思いながら、あいつが来ることを待っているけれど、次第に俺の付近に人が集まってくる気配がある。駅付近、待ち合わせ場所としてはここ以外に目立つような場所はないからこそ、他の人間も集まってきているのかもしれない。


 だんだんと自分の影が薄くなったところで、俺は場所を変えようと思った。そうだ、コンビニの前とかであればちょうどいいかもしれない。気分的にも煙草を吸いたくなったし、そこで気を紛らわすようにあいつを待てばいい。そうすれば、あいつも俺を見つけてくれるだろうから。


 そうして俺はコンビニへと足を運んだ。既に空になりかけている煙草を思って、新しいひと箱を購入した。外に出て、ようやく空になった煙草の箱を片手で潰しながら、それをポケットに詰め込む。店内に入ってまで捨てるのが面倒くさかった。


 煙草に火をつけた。火をつけるために吸った最初の呼吸はそのまま吐き出していた。いつもそれを飲み込んでしまえば、途端にむせてしまうから。そんな普段通りの行いをすることで、俺はいつもと変わらない、ということを示すようにする。


 誰に? ……自分自身に。


 自問自答を繰り返す。眠気が勝っている意識の中で、そんなことをしながらでもないときちんと立てないような気がした。


 そうして二度目の呼吸で煙を肺に運んでいく。淀んでいるとしか思えない重い空気、それを体に取り込んでは、ゆっくりと味わうようにそれを吐き出していく。既に慣れ親しんでしまった煙であるが故に、いつか感じていた快楽に似た眩暈はやってこない。


 そんな折で。


「──煙草吸ってるんだ」


 少し意外そうな表情で、俺の姿を見て言葉を並べる。そんな深夏の姿が傍らから現れた。


「少し、意外だったかも」


「何が?」


 聞かずとも深夏が煙草を示唆していることには気づいていたが、それでもとぼけるようにそう返した。そう返したのは、彼女と交わす言葉がわからなかったから。


「悠月はそういうの、やらないタイプだと思ってた」


「そうでもない。酒も飲むし、煙草も吸うよ」


「へー」


 深夏は楽しそうな微笑をうかべながら、どこか田口と似ているようなニヤニヤとした表情をする。


「私も吸ってみたいな」


「……やめとけよ。別に美味しいものでもないし、身体にいいわけもないから」


「わかってますけど」


 俺の言葉に彼女は苦笑する。俺もわかりきっている反応に同様の苦笑を浮かべた。


 深夏がもう来ているのだから、と俺はまだ半分も吸い終わっていない煙草を吸い殻入れの方へと投げ込んでいく。普段の俺であれば少し名残惜しいような気持ちを抱えるものの、今日に限ってはそんな惜しさはどこにもなかった。


「それで? どこに連れてってくれるの?」


「……うーん、そうだな」


 特に俺の中に考えはなかった。ふとした思い付きでしかなく、俺は彼女と別れ際に約束をしただけだったから。






 そのまま彼女と別れることが怖かった。手の握り、その温度を忘れることが怖かった。いつしか清算したような関係性、その後ろめたさを忘れるように、俺は彼女に声をかけていた。別れ際に彼女の背中に声をかけていた。


『また明日』


 そう、俺は彼女に言葉を紡いだ。


 何の脈絡もない、考えもない、衝動的な言葉でしかなかった。だが、俺は彼女にそう声をかけたかった。明日、と約束をすることで、また彼女と会えることができるきっかけを作りたかった。それ以上の感情はなにもなかった。


『また明日……、って、なにか、するの?』


 深夏は苦笑を浮かべながら、少しだけ訝しむようにそう返していた。


『わからない』と返した。『その時になればわかるかもな』と付け足して、それから彼女の言葉を待った。『そっか』と彼女は相槌を打った。こんな不明瞭な約束に従う道理なんてないのに、それでも『それなら仕方ないね』と頷いてくれた。俺はそれが嬉しかった。


 そうして携帯で連絡先を交換した。連絡先を交換して、それから適当なスタンプを送り合ってみた。彼女が送りつけてきた芸人のスタンプを見て笑った。俺が送ったスタンプに彼女は『なにこれ』と笑ってくれた。それだけの時間でも心地のよさが間にはあった。






 適当な約束から始まって、そうして昼間に集まることにした。目的は結局見つからなかったけれど、それでも彼女は俺のもとへと来てくれた。俺に講義があったように、彼女自身にも予定はあっただろう。それでも、彼女はそれらを無視してでも来てくれている。それが嬉しいのだから、これ以上煙草を吸って時間を無駄にしてはいけない。無駄なことは正しくないのだから、一所懸命に時間をひとつひとつ確かめるように歩かなければいけない。


「とりあえず、散歩でも行くか」


「えー? こういうときはお洒落なスポットで食事とかなんじゃないのー?」


「行きたいのか?」


 俺が深夏にそう聞くと、彼女は「ぜんぜん?」と返してくる。だろうな、と俺も返して、二人で再び微笑を浮かべた。


 それから、駅から離れるようにして自宅へと帰る道程を歩んでいった。


 昨日も歩いた道の通り、たまに遠回りをするみたいに足を運んでは、それぞれの景色を互いの視界に閉じ込めていった。特に会話はなかったものの、昨日のような、昨日までのような張り詰めた気まずさはどこにもなかった。


 ただ、空気を味わっているだけの時間。昨日までであれば、その空気が棘のような痛みに変わっていたのかもしれない。けれど、今はそれが心地いいように感じていた。


 きっと、この道の行く先は他愛のないものかもしれない。いつも通り、いつかのいつも通りに自室へと向かうものになるかもしれない。


 自室で何かを会話することはあるだろうか。会話をしなくても心地がいい。清算しているようにしている自分に対する後ろめたさは拭えない。だが、別にそれでもいい。どうでもいい。どんな結果であれども、彼女は隣にいてくれている。


 いろいろな場所へと足を運んだ。互いの時間を、忘れようとしていた記憶を補完し合うように、街の景色を自分たちの中に閉じ込めていく。


 きっと、こんな世界を見る可能性も過去の中にはあったかもしれない。それを歩めなかった悲しさがある。悔しさがある。互いに抱えていると思っている罪の結果、そんな感情が蟠る。


 でも、それでもいい。


 そんな罪があるからこそ、今のような結果にたどり着いている。そこにどんな禍根が残っていたとしても、どれだけの感情が募っていたとしても、結果として世界を見ることができている。だから、それでもいいのだ。


 俺は、空を見上げた。本当に久しぶりに空を見上げていた。


 雲はまばらに存在している。点々としたような雲が存在していた。それは星座の並びのようにも見えてくるから、それらを繋げてしまいたいような気持ちにも駆られる。そんな衝動が子どもみたいだなと自嘲した。




「──ねえ」


 そうして、帰り道につながる空の下。


 いつも通りの、いつかと同じような、いつもと変わらない彼女の声掛け。


「私を許してくれる?」


 深夏は確かにそういった。そう言っているのを耳で聞いた。目で見た。鼓膜を揺らしたその言葉を感じた。


「なあ」


 俺も同様に言葉を紡いでみた。


 彼女の言葉を、声を真似するように。


 昨日まで抱いていた罪悪を、それを許される後ろめたさを忘れるように。その上で言葉を紡いでみる。


「俺を許してくれないか」


 互いが互いに共有するための、許しを乞う言葉。


 相互で行うからこそ果たされる受容の言葉。


 それ以外に言葉を並べることはしない。


 俺たちはそれで許し合っていたのだから。

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