第二話
夕焼けというものは既に空には存在していなかっただろう。暗がりだけが景色を染め上げていて、夜であることを世界に知らしめようとしていたのだから。そんな暗がりの中、ひとつの糸を垂らすようにして、薄明りの街灯がじりじりと音を立てながら光をこぼしているのが目に付いた。
俺は彼女の顔を見ないまま、ただ茫然と道を歩いていた。後ろから重なってくる足音のリズムを気にしながら、各自がバラバラになるようにして足を前に出していく。そのひとつでさえも重なることに躊躇いがあって、時折彼女にはばれないように後ろに視線を追いやりながら、自分が自分だけでいられることを実感する。
俺以外の誰かであったのなら、何かしらの言葉を吐くことを選択していたのかもしれない。だが、俺にそんな気概はなかったし、そうする義務もなかった。気まずいとも思っていないし、そうする必要性は見いだせない。なんなら、彼女に対して言葉を並べること自体が不要なことなのだ。だから、俺は口を噤み続けていた。
すでに会話は尽くされている。必要な言葉はどこにもない。それでも、それでも彼女に一緒に帰ろう、なんて言葉を言い出したのはなぜだったのだろう。彼女の呆れた顔の中に、いつか見たことのある寂しそうな表情を感じてしまっただろうか。それでも結局こうして逃げるような視線の躱し方しかできないのに、どうして俺は彼女に声をかけてしまったのだろう。そんな後悔が心臓を刺したが、それを気にしてもしようがないことに俺は気が付いている。
暗がりの道、確かに彼女の言うとおりに冬が近づいていることを実感する。夏場であれば夕焼けか、それとも日中に近い太陽がすぐそばまであったはずなのに、今では太陽がその身を隠す速度も尋常じゃない。誰もそれを追いかけることはできないし、追いかけることもしない。一日の終わりをそれぞれで祈り続けながら生活を繰り返しているのだから、それ以上に何かを求めることはしなかった。
「ねえ」
取り留めのない考え事ばかりを繰り返しながら、一切彼女に同調しないように歩いていた。歩幅もその靴音も。それでも一定の距離以上のものを開くようにすることはしなくて、つかず離れずの距離のままで互いを尊重している。そんな微妙な塩梅の中、彼女は声を出していた。
「なんだよ、会長」
「……それ」
「上の役職の人間には相応の敬意と振る舞いを。……だから、会長なんだ」
俺の言葉に彼女は押し黙る。きっと、彼女は『それ、やめてよ』と言いたかったに違いない。昔からの付き合いだからこそ理解している言動。その予測がつく言葉を精査して、そのうえで遮るように言葉を並べた。
答えを明かすようにした言葉、俺はそれを並べた後、さらに答えを明確化するための言葉を紡ごうとしたが、結局それはやめてしまった。夏服から切り替わったばかりの黒い制服、その裾を掴まれて動きを止められてしまったから、言葉はそれ以上には並べない。彼女自身で理解しているからだろう、そうであるのならば、これ以上に言葉を並べる必要がない。
暗がりの中、静かに呼吸が耳元で騒ぐような気がする。もう後ろを振り向くことはできないまま、彼女がすぐそばにいる実感を覚えては、さっさと感じてしまう気まずさのようなものから逃れたくなる衝動に駆られる。冗談の一つでも吐いてしまえば、きっとそれだけでこの空気は霧散してくれるはずだ。……そうだろうか、そもそも気まずさなんてものが俺たちの中に介在しているのだろうか。わからない。考えるだけ無駄なことを考えてもしようがないだろうに。
「やめとけよ。“彼氏さん”に悪いから」
こんなところを俺たち以外の他人が見たら、それだけで邪な想像を働かせてしまうかもしれない。それも、俺の裾を掴むようにしている彼女の恋人であれば尚更だ。そんな想像は本意ではないし、実際に誰かが想像するようなことなど何一つ俺たちの間には起きていないのだから、さっさと手を放してほしかった。
俺の言葉に、彼女は息を漏らした。苦しそうな声音だった。浅くなっていく息遣いを続けては、その苦しさをこちらに共有させるような、そんな息苦しさを近くに感じた。
「ほら、さっさと行こうぜ。……暗い場所、怖かっただろ」
俺はそれだけ言って、彼女の手が離れることに期待をしながら前へと足を踏み出した。その期待通りに力なくその指先は裾から離れて、次第に息遣いが遠くなる。それを無視してはいけないのだろうが、俺たちの間には何もないのだから、それを無視するしか方法はない。
ああ、何もない。いつだって、どこにでも、何もない。俺たちの関係性というものさえも存在なんかしていないのだから、気にする必要なんてないのだ。
今日は、家に帰って何をしよう。
そんな適当すぎるほど在り来たりに見出した考え事ですべてから意識を遠ざけてみる。とうとう遠くなってしまった足音の開きに、俺は何も考えないことに成功をした。
互いに思いあっている、だなんて幻想だと知った。
人の感情なんて想像でしか解釈することはできず、同じものを抱えている、だなんて個人の期待でしかないこと。それを中学三年生の頃に知った、知ってしまった。
どれだけ近い距離、同じ場所で長い時間を共にしたところで、その性格が似通うことはないように、気持ちでさえも似通うことはない。同一が重なることはいつだってないし、そのうえで俺が言葉を並べても、誰かは違う感情を抱くこと。俺はそれをよく知っている。
「好きな人、できたんだ」と彼女はそう言っていた。
「こんな気持ち、初めてでね。なんというか、その」
彼女は言葉を並べようとした。一瞬、俺は彼女の言葉に意識が飲み込まれそうになってしまって、口から声を吐く方法を忘れてしまいそうになったけれど、それでも平然を装うために言葉を紡いだ。彼女が紡ぐであろう言葉を想像しながら、それに合わせるようにして「わかったよ」と言葉を吐いた。そうすることが正解であると思っていたし、それ以上の正解などないことを今でも固く信じている。
「好きな人に、男と一緒にいるところなんて見られたくないもんな。わかった」
シンプルにそう言葉を並べていた。それまで彼女に連ねていた感情や恋慕としか言えない切ない気持ちを瞳の奥に隠しながら、それがしずくとして零れないように気を付けた。彼女の顔を覗くことはできないまま、一瞬唖然とする彼女の声を聞いた。その声音に冗談のようなものを期待していたけれど、結局、彼女は長く感じる間を置いた後、躊躇うように頷いた。期待していたものは何もなかった。
それまで、いつだって一緒にいた。いつまでも時間を共にしていた。同じ部屋で、同じ場所で、同じ距離感で、同じ関係性で。それらはいつまでも続くことを信じていたし、それがかなうことに期待をしていた。時期というものがあれば、俺も彼女に気持ちを言葉に並べて紡いでいたと思うし、それに彼女も応えてくれると、そう信じて疑わなかった。
でも、結局、行動しなかった自分が悪い話だ。
時期というものは自分で見出すべきものだった。自分から行動を始めなければ何も始まりはしない。いつだって世界は勝手に事態を発生させていて、俺はそこに巻き込まれるだけなのだ。
俺は、言葉を紡げなかった。
だから、それからは彼女と距離をとった。彼女がその好きな人とやらと仲良くすることを心の中で願いながら──嘘だ、さっさと壊れてしまえばいいと願っていた──彼女とのかかわりを薄くした。
そうすることが最善だったし、きっとそれが功を奏したのだろう。
いつかの帰り道、彼女と距離を置くことを意識しながら見ていたその後ろ姿は、どこぞの誰かと、どこぞの男子と肩を並べていたものだった。だから、それでよかったのだ。
それを見てから、すべてを諦めるようにした。勝手な気持ちを人に投影してはいけない。勝手な願いを抱いても行動しない自分がすべて悪い。これ以上彼女のことを考えるだけ空しくなるだけだし、そうすることは彼女にとっての不都合でしかない。
だから、何も考えない。もっと有意義なことを、自分に生かせることを。無駄を省いて、適当なことを考える。自分の感情が空しくならないように大切にする。それだけを考えて、毎日を過ごすことを決めたのだ。
そうして距離をとっていた。距離をとり続けていた演出はいつか本当になって、彼女から声をかけてくることはなくなった。いつもの集合場所である俺と彼女の部屋は、適切に俺の部屋になった。心配そうな目で見つめてくる両親には「彼氏ができたんだよ」と俺は事実を漏らした。同情的な視線を見守られるのは苦しかったが「ま、そういうこともあるよ」とこちらを慈しむような声には救われた。せめて彼女のことを悪く言わない両親の振る舞いに、俺はちょっとだけ前を向いてもいいかな、とそう思った。
高校は別のところに行くつもりだった。だが、それは結局かなわなかった。偶然にも彼女は俺と同じ高校を志望していた。彼女であればもっと成績の良さから行ける高校の幅こそ広がっていたはずなのに、それでも同じ高校へと通うことになっていた。それを両親の口伝で聞いた。
もしかしたら俺と同じように、近い場所であれば楽だから、という思考で同じ高校を選んだのかもしれない、と俺の中にいる彼女像を見出せてうれしくなる自分がいた。だが、理由はそれ以上に単純なものだった。あいつの好きなやつも同じ高校を志望していたから、というものに違いなかった。
時折、帰る姿を見かけてはその背中に隣り合っている男子生徒を見かけてしまう。なるほどね、そういうことか、とそう心の声を吐いては素直に納得できてしまう。高校生になってからは、シンプルなくらいに状況を理解できるほどには、彼女との精神的な距離、その執着さえも薄くなっていた。