第十八話
携帯には熱が帯びていた。受話するためのボタンをタップする際に見えた残量は、最後に見た時よりもだいぶと消費しているように見えた。それだけの時間を、その容量を、着信の鳴動に使っていたのかもしれない。そんなことを想像すると、いつまでも電話をかけてくれている田口に対して申し訳なさを少しだけ抱いてしまう自分がいた。
「……どんな時間に電話してきてるんだよ」
それでも、自身の姿勢を崩さないことを意識しながら、深いため息を孕ませてそんな言葉を吐き出してみる。目の前で転がっている都合がいいのかわからない状況、この事態について粗方を察していながらも、その呆れを言葉に含めるように紡いでいた。
確かに電話がつながったことを示すような、耳元に届く小さなノイズ。なんとなく、そんな雑音が今日だけは妙に耳に触れてくるようなくすぐったさを覚えた。
俺が声を吐き出し終わると、通話先のほうから、はあー、と大きなため息が聞こえてくる。あからさまに面倒くさそうな、それでも安堵をするようなため息だと、そう思った。
「それはこっちのセリフ、……っていうわけでもないけどさ。いつまで電話に出ないつもりだったんだよ。めっちゃしつこく電話してたのに」
「そう、らしいな」
通知を知らせる画面を覗かなくとも、それだけ長い時間で電話をかけ続けていたことを察することができてしまう。それは携帯の熱、というだけではない。深夏がこの部屋にいるような状況、彼女が都合よく外にいたあの光景。それを思えば、田口は本当に何度も電話をかけ続けていたのだろう、と容易に想像を働かせることができる。
「それでなんで出なかった? まさか寝ていた、とかそういうわけじゃないよな?」
「……別に。いろいろあったというか、なんというか」
ただ携帯を自室に忘れていた、とは言えなかった。携帯を忘れているような状況で外に赴いていた、というのも変な話であるような気がするし、自分の行動を田口に察されてしまうのは心地が悪い。だから、勝手にこちら側を解釈されてしまうような言葉を吐いた。そして俺の意図通りに田口は、あー、と納得したような声を出した。
「それならいいや。じゃ──」
「──いやいや、なんか用件があったんだろ?」
だいたいわかりきっているはずなのに、そんな言葉を返してしまう自分がいる。素直じゃないな、と自省をしながらも既に吐き出した言葉が返ることはない。だが、それに田口は笑い声を聞かせてくる。
「もうわかりきっているくせに」
「……それも、そうだな」
その時、俺は素直に返事をした。
実際、こんなやりとりは茶番でしかない。何かが起きた、と田口には示しているのだから、それを相手からの説明として委ねようとするのはおかしい話だった。
「ま、上手くやりなよ」
「うっせ」
田口から聞こえてくるニヤニヤとした声音、そのセリフに俺はそう返した。心置きなく話せた言葉に、それでも笑顔になる自分がいた。
深夏は気まずそうな顔を浮かべながら自室に立ちすくんでいた。扉を閉めてからというもの、そのすぐそばから立ち位置を変えるようなことはしなくて、いつまでも俺に対して何かしらのタイミングを伺っているように見えた。
そんな彼女に俺は「座りなよ」と促した。彼女はそれにこくりと頷きを返しながらいつものように、……いや、依然と同じようにベッドの方へと腰を落ち着けていく。俺は彼女のそんな様子を横目にしながら、携帯に届いていた通知のそれぞれを眺めていた。
おおよそ三十件近くになる着信の履歴。深夜帯であることを示す上部のデジタル時計。
メッセージを送って済ませれば田口の手間もそこまでなかっただろうに。
一瞬だけ彼にそう思ってしまう自分がいたが、次第に彼がそんなことを選択できる立場にはなかったことを改めて考えていた。
田口は俺に後ろめたさを抱いていたと思う。居酒屋でのあの真空のような沈黙から、彼は俺に対してネガティブな感情を抱いていたはずだ。そうでなければ、ここまで彼が俺に対して行動することもなかったはずであり、気まずそうな顔を浮かべる必要もなかった。いつもの彼の振舞いを考えれば、俺に対してあたりの強い態度をとるはずなのに、そんな彼が本音を取りこぼして気まずい空気を吐き出していた。俺がどのような言葉を吐きだそうと、彼はそれを受容してはくれなかった。
人に対して無関心であることを彼は咎めていた。俺の身の振り方について注意していた。そんな彼が、結局は深夏に対して無関心でいた、無関心でいてしまった。
それはごく普通のことであるはずだ。関わらなくなってしまった人間に、継続して関心を持つことなんて難しいのだ。それが過去の人間であるのならば尚更であり、別の道を歩いているのであれば殊更困難に近いものである。だからこそ、俺は別にそれを彼へととやかく言うつもりはない。何か哀しいような感情を抱いても、それは俺個人の感情でしかなく、田口が気にする必要なんてないのだ。
だが、彼は俺に対して本音を振りかざすような態度をとっていた。悪態をついては咎めるような言葉を紡いでいた。俺はそれが心地よかった。正しい言葉を、本音をぶつけてくれるような人間を周囲に持てなかったからこそ、彼との時間はどのようなものであれ居心地がよかったのだ。
そんな彼だからこそ、彼自身で気にしてしまうのだろう。
俺が何も気にしていないと言い切っても、実際に何か感情を覚えることがなかったとしても、彼はそれを意識して後ろめたさを抱えてしまうのだ。彼だからこそ、そんなことを意識してやまないのだ。
俺はそれを知っている。よく知っている。きっとそれは彼の上辺だけにしか過ぎない要素かもしれないけれど、その上辺だけでも彼の性質というものはよく心に刻まれている。それを知っているからこそ、彼が俺に直接的な行動を起こし続けていたことも、こうして深夏が目の前にいる状況に対しても理解が及ぶ。理解を汲みたくなる。
それを、俺がとやかく言えるだろうか?
「全部、田口のおかげ、か」
俺は独りごとを呟いた。彼女がまさしく目の前にいるのにも関わらず、それでも独り言を呟いてみた。それは俺の為の言葉だったかもしれない、田口を保証するための言葉だったかもしれない。だが、その真意は深夏こそを保証するための言葉だった。
そんな言葉を紡いだのは、ここまでの経緯については何も考えない、という意図があった。おかげ、と表現をすることで、田口がしてくれたことは俺にメリットがある、ということを示すためのものだった。
実際には、諸悪の根源として扱いたい気持ちもある。確かにこれは善行というだけではないのかもしれない。もし俺が本当に携帯を失くしていたら、寝てしまって通話に気づくことがなかったら、外に出ることもなく深夏の存在を知らないままでいたら。そんな可能性があったことも否定できない。人ひとり以上を巻き込んでおいて、それが無視される可能性があったのならば、それは善行とは言えない。
けれど、悪行だとは断じない。彼は俺を思って行動してくれた。その結果が目の前にあるのだ。それを俺は悪だとは、面倒だとは思いたくない。どれだけ混迷するような事態が、感情を惑わせるような要素が蔓延っていたとしても、それでも俺はこの状況を、場面を大事にしたかった。
「田口に、言われてきたんだろ」
とりあえず、俺は言葉を運ぶことにした。
このままだと、いつまでも沈黙の時間を過ごすことになってしまう。上手くやりなよ、と俺の背中を押してくれた田口の言葉に背いてしまう結果につながってしまう。彼がせっかく事を起こしてくれたというのに、そうして実際に彼女が目の前にいるというのに、何も行動しないのはそれこそ悪でしかなかった。
俺は頭の中で事態についてを整理しながら、そんな言葉をかけた。
頭の中で想像がついていたこと、予想がついたこと。俺に対して後ろめたさを抱えることになってしまった彼によって連鎖した行動が、そうして深夏をここに呼び寄せることに繋がっている。
誰からも事情は聴いていない。けれど、誰かに話を聞く必要はない。もうわかっている、全部、全部わかっているのだ。
俺の言葉に深夏は「う、うん」と頷いた。気まずそうに視線を伏せる彼女に対して申し訳なさを抱いた。彼女は俺たちに巻き込まれただけの存在であるはずなのに、どこか加害者のように罪悪を抱いているような気がしてしまう。それを取っ払いたい、という気持ちはあるものの、どうすればそれを除けるか、俺にはわからなかった。
いつものような俺になれない。誰かにとっての自分を演出できない。自分だけがそこにいることが続いている。こういう時だけ器用にやり切れない。昔からそうだ、いつでも深夏がすぐ傍にいる状況では、俺は俺でしかいれないのだ。
どう言葉を吐きだせばいい、どんな言葉を紡げばいいのだろうか。こんな気まずいだけの空気、肺が活動をやめてしまいそうな苦しいだけの環境の中に身を置いて、それを改善したい気持ちがある。だが、それは俺たちの間だからこそ正しい空気である、という認識もあって、それを取り除くのは誤っているような気もしてくる。
彼女が好きだった。好きだった彼女が嘘をついていた。嘘をついていることを知ったのは、あの打ち上げの日の彼女の告白からだった。
彼女は恋人がいると嘘をついた、嘘をついて俺の気を引こうとした。俺はその嘘を本当だと思った。本当だと思ったから彼女との距離を置こうとした。彼女はそれが苦しいようだった。同様に俺も苦しかった。
それを彼女のせいにした。彼女が悪いものだと断じた。心の裏側では自身が悪いことには気づいていた。彼女が嘘をついたとしても、結局は俺が彼女に行動できなかったことが悪でしかなかった。後悔を捨て去るために、俺は彼女を悪だと決めつけて、ずっと関わることをやめてしまった。
関心を持たないようにした。いつも隣にいた、いてくれた彼女をなかったことのように扱った。それは俺にとってありえない光景でしかなかったはずだ。彼女がいてこそ完成していた世界のはずだ。そんな未完成の世界で、それが新しい道筋を作ることに繋がると信じようとした。それが仮初であることに気が付いていたとしても、それでも彼女と関わることを選択することはできなかった。
なぜならば、俺は……。
「……何から、話せばいいんだろうな」
心の中で延々と続くような懺悔を打ち切った。言葉にならない言葉を独りで紡いでいても、それが誰かに伝わることはないのだから意味はない。無駄なことはしたくない、とずっと思っていたのだから、そんなことはやめるべきだった。
真空のような気まずさを取り払うことはもうやめた。俺たちだからこその空気に身を包んでいるのだ、そうであるのならばこの空気のままで会話を運ぶしかない。下手な冗談を呟いたところで、視線を逸らすような話題を用意したところで、この場においては何一つとして意味はなさないのだから。
「そう、だね」
俺はようやく素面になった気がした。彼女に動揺を見せることはなく、言葉に息の切れ間を見出すことはなかった。彼女はそんな俺とは異なって、それでも気まずさをしんどいように切れ目を見出して言葉をぶつぎりに運んでくる。こんなことを聞いても、実際に彼女は何を呟けばいいのかなんて、わからないはずなのに。
それでも、深夏は相槌を打ってくれる。それが彼女の優しさであることを知っている。こんな俺を肯定してくれる優しさがあることを俺はずっと覚えている。生徒会を終わらせたあの日でさえ、仲間外れにしないように、まるで手を引っ張るように連れ出してくれた優しさがあることを、俺は忘れることはできない。
美談にするな、と心に囁く自分がいる。
あの時に想っていた感情が今と同一でないことは知っている。だからこそ、あの時の光景を、その思い出を現在の自分の基準で語るな、と反骨を持ち合わせた自分がいる。そんな幼いだけの、モラトリアムに囚われている裏の自分がいる。
わかる、わかっている。そんな感情を、彼女に対して憎しみのような感情を覚えていた自分がいることは、よくわかっている。そんな自分を許せない自分がいることを、あの当時こそは彼女を憎んでいたことも、憎もうとしていたことも、全部わかり切っている。未来からの主観でそれを美しいものであるかのように騙ることがどれだけそれぞれの過去を破壊するものなのか、俺はよく知っている。
けれど、それでも彼女には優しさがあったのだ。
深夏は優しかった。優しい存在でいてくれた。中学の時まではいつもそばにいてくれた。高校になってからもそばにいてくれようとしていた。俺がそれを拒んだだけだ。別の道を歩いている、とそう思って彼女を遠ざけていった。
いつも、彼女が俺のことを連れ出すように手を引っ張ってくれていたのに。
彼女のそんな優しさを、俺は無碍にしていた。それを、どう償えばいいのだろう。
「──ごめん」
彼女に悪いことをした。罪を犯した自覚はいつまでも拭えることではない。拭ってはいけない。罪を犯した自覚があるのなら拭い去ってはいけないものだ。だからこそ、俺はそう言葉を吐き出すしかなかった。
許されたいとは思っていない。彼女に悪いことをした。彼女の優しさを無碍にし続けていた。そうして周囲に迷惑をかけ続けた。そんな振る舞いをつづけた。そんな自分こそが正しいものだと誤り続けた。何一つ正しくないことを道理だと納得しようとした。
だからこそ、謝罪を紡がなければいけない。
田口がこうして用意してくれた状況は、この場面は謝罪を介してこそ成立するべきものでしかない。この場面では謝罪しか用意することは許されていない。それはあの時にとっての未来である今やっても遅いであろう。当時の状況で紡がなければいけないものでしかないはずだ。
だからといって、今言葉を紡ぐことができなければ、更に罪は大きくなるだけだ。清算したいわけじゃない、許されたいわけじゃない。それでも、謝ることこそが道理であると理解しているがゆえに、当時にとって未来である俺が謝罪を紡ぐしかないのだ。
「ごめん、……本当に、ごめん」
ごめん、という三文字を紡ぐことだけに、俺はどれだけの時間をかけたのだろう。彼女に対して紡ぎたかった言葉、その気持ち。その大部分がこの三文字だけに詰めきれるのに、俺はどうして言葉にできなかったのだろう。
──行動することができなくてごめん。言葉を紡ぐことができなくてごめん。気持ちを伝えることができなくてごめん。すべてを台無しにしてごめん。迷惑ばかりかけてごめん。気持ちを拒絶してごめん。自分勝手にし続けてごめん。深夏は何も悪くないのに、そのすべてを無碍にするように振舞い続けてごめん。
こんな謝罪の気持ちでさえも身勝手すぎる言葉でしかない。そんなことをしている自分が、許されたくないのに、それでも許してもらおうとしているような自分が、気持ち悪くてしようがない。
それでも。
「ごめん、ごめんなさい」
俺はただ、謝りたい気持ちを言葉に込めて、ひたすら彼女へと言葉をかけ続けた。




