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第十七話

 躊躇う気持ちが抜けたわけではなかった。自室に彼女を案内することに躊躇いはいつまでも拭うことはできなかった。それは深夏という人間が対象というのも強くあるかもしれない。今まで、……中学生の頃まで共に自室で過ごしてきた彼女だからこそ、その憂いを忘れることはできそうになかった。


 それでも、俺は彼女を自室に案内するための道のりを歩み始めた。方向を反対に見定めて、そこから追い風に感じる風の強さを確かめた。俺自身が寒いという気持ちがあったのも確かではあったが、それでも深夏が寒そうにしている振る舞いにそのまま従いたくなった。例えそれが気まずさをごまかすための演出だったとしても、それでも構わなかった。場所を変えることができるのであれば、それでいいと思ったのだ。


 懐かしいね、と彼女は言った。


「こうやって二人で歩くの、懐かしい、ね?」


「……そうだな」


 曖昧な返事をした。彼女の言葉の通りでしかないはずとわかり切っているはずなのに、そういった言葉でしか返すことはできなかった。そんな返事をすることしかできなかったのは、最後に彼女と一緒に歩いていた帰り道、別れた道の光景が、いつでも記憶の中に想起されているからに他ならなかった。


 あの時の光景はいつまでも心の中に焼き付いていた。それを何度も忘れようとした。無関心であることを意識するために、彼女のことをないものとして扱うようにした。それでも拭い去ることができなかったのだ。自分の身の振り方を考えるたびに、それはどうしても自分の根源にあるものとして沸き立つ風景だった。だからこそ、懐かしい、という感情を抱くことはなかった。


 覚えてる? と彼女は言いながら止まった。


「この公園さ、小学生の時はよく遊んだよね」


「そう、だったかな」


 そうして公園の横を通り抜けていく。先ほど彼女がいないときに歩んだ景色をそのままに、公園は、遊具たちは揃っていた。


 だが、やはり俺にそんな記憶はなかった。いつも彼女は俺の部屋で隣にいてくれた。それだけの記憶しか残っていなかった。話題はあったのかもしれない、話題はなかったのかもしれない。他人が見れば気まずいと思うような空気が自室の中に紛れ込んでいたのかもしれない。だが、ただ言葉が不要なだけでいた時間は俺にとっては救いに近いものだった。それだけの記憶を忘れることはない。それ以外の記憶も同様に。


「そうだよー」と彼女はこちらに同調させるような息を吐いた。


「ほら、あの滑り台とかで鬼ごっことかやったじゃん。君、ずっと滑り台の上から降りなくてさ、私がタッチしようとしてもできなくて、すっごく泣いたときがあったもん」


「……そんなことも、あったかもな」


 覚えていない。そんな記憶はひとつも残っていない。それを自分自身で不要な記憶として片付けてしまったのだろうか。覚えていない。思い出すことができない。


 それでも、彼女に言われれば容易にその光景を想像することはできた。自意識がそこまで育っていない餓鬼だったころ、彼女にそんな悪戯をしている自分。きっと、深夏が泣き始めてから気まずくなって、それで滑り台を降りた、とか、そんな過去の自分に対しての予想が生まれる。


「でもね、私が泣き始めるとさ、君、いちいち降りてきて私の近くに来てさ──」


 そして、想像通りに言葉は運ばれる。実際にあったことだからこそ想像ができたのかはわからないけれど、それでも頭の中にあった景色を彼女はそのまま言葉に並べた。それに相違はなかった。


「あの時、嬉しかったんだよなー」


 そうして、深夏は一抹の思い出を間延びした声で語り終えて、公園から視線をそらした。既に遠くにあった景色を心の中に取り留めるように、彼女は大きく、それでいて静かに息を吐き出した。


 どこか違う、と俺は思った。


 俺と彼女の中にある景色のそれぞれは揃っていなかった。それは当然のことであると理解しているはずなのに、そのすれ違いを強く悲しいと思ってしまう自分がいた。


 彼女の中にいる俺は外にいたのだろう。俺の中にいる彼女は、いつだって自室の中にいたというのに。


 そんなすれ違いを、印象の異なりを感じるだけで目を強く瞑りたくなった。それに意味がないことを考えてからは、結局前の景色を見定めた。




 家の前にたどり着いてから、俺は慎重にドアを開けるようにした。


 携帯が手元にないから時間帯がいつなのかは予想でしか成り立たない。そうであったとしても、体を包む寒さが夜の深さを象徴しているのだから、家族や隣人を起こさないためにも静かにすることを心掛けた。


 口の前に人差し指を持ってきて、それを深夏に見せるようにする。静かに、というジェスチャーを、深夏は少し戸惑うような表情で頷いた。


 静かにする、ということへと意識を向けているはずなのに、そういう時に限って大きな音が出そうになってしまう。ドアノブを押し込んだ時のガチャリ、という音、ドアを開けた時の蝶番の軋む音、踏み込んだ先に靴が片付いていないが故に転んでしまいそうになる衝動。その衝動をこらえるようにしながら、俺と深夏はゆっくりと家に入っていった。


 家の中は真っ暗だった。電気をつけるくらいはよかったのかもしれないが、家族が起きる可能性を考えるほど行動のすべてが制限されるような気がして何もできなかった。


 家族に見られたくなかった。深夏と一緒にいる姿を、深夏が自室へと向かう姿を。それを見られればどのような視線が俺たちを包むのか、想像するだけでも痒くなった。


 お邪魔します、と深夏は小声で言った。その小声は俺の耳元で囁かれていた。背中をなぞるようなくすぐったさを強く感じては、震え出す身体全体の感触を忘れるようにして、俺は指先を階段のほうへと向ける。


 自室のほうへ、と深夏に合図をするみたいに。そんな身振りをしなくとも、彼女は俺の部屋に向かうだろうが、それでも俺はそんなことをした。俺自身が彼女を自室に招いていることを強く意識していたから。


 そして階段をゆっくりとのぼる。体重のかかる床の軋みを抑えることはできなかったものの、それでもあからさまな物音は響かないでいてくれた。後ろに続く深夏からも音が聞こえることはなかった。一瞬、本当に後ろに彼女はいるのだろうか、と不安になるほどには。


 階段をのぼり終えて、すぐ目の前にある扉を開く。自分の部屋であることを後ろにいる彼女に対して強く意識をしながら。


「……?」


 扉を開けるとき、物音はしなかった。古い造りの家ではあるものの、自室の扉が、その蝶番が軋むことはなかった。だが、中から物音が聞こえてくるような気がした。それは扉を開く前から少し感じ取っていたことではある。


 何とも言えない気持ち、それは恐怖や不安に近い彩りで描かれている感情に違いなかった。なぜ音が聞こえてくるのだろう、という少しの恐怖を抱きながら、俺は部屋の中へと彼女を誘いつつ、そうして自分も部屋の中に身を置いた。


 そして、物音の正体を理解した。正体をあらわにするように深夏も「あっ、携帯」とつぶやいていく。


 何のこともない。単に携帯がベッドの上で震えているだけだった。柔らかいマットレスの上で振動するそれは位置を変えることなく、誰かから電話が来ていることをこちらへと知らせている。


「こんな時間に誰だよ……」


 時間なんて把握していないのに、それでも深夜であることを理解してそう息を吐いた。そう言葉を吐いたときに深夏が気まずそうに俺から視線をそらしたのが傍らに覗けた。もしくは俺の部屋を眺めているだけかもしれない。俺はそれらを何も考えないまま、とりあえず未だに振動を続けている携帯を手に取った。


 表示されていた名前は『田口』だった。


(ああ、そういうこと)


 俺は察していたここまでの事態にようやく理由付けができるような気がして、ふう、と深く息を吐いた。


 それから少しの文句を返す気持ちでその着信に出ることにした。




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