第十六話
何か声をかけなければいけない。そんな圧力が自分の底から生まれているのを感じていたが、それでも言葉を紡ぐことのできない自分がそこに存在し続けている。
先ほどの震えた声は風に吹かれて紛れていった。消えてしまったような錯覚さえ覚えるほどに、その返事ともいえる声音はどこかに行った。その声は彼女に届いていただろうが、特に何か反応があるわけでもない。震えている俺の声を笑うわけでもなく、ただ聞こえなかっただけとして振舞っているのかもしれない。
深夏は俺から視線をそらしてばかりいる。何か会話をする、という雰囲気を彼女自身から感じることができない時間が続いている。声をかけてきたのは彼女だった、ねえ、といつまでも聞き馴染んでいた声掛けをしたのは彼女からのほうだった。それに対して続きの言葉を待つ俺の姿勢は何一つとして間違えていないとは思う。だが、その中に万が一でも、彼女が俺の声を聞き逃してしまったのであればどうすればいいのだろうか、そのような心配が眩暈を呼ぶような苦しさを伴っていく。
勝手な寂しさを抱いた。それをどのように整理すればいいのかわからないままだった。俺が出す声の一つ、これから紡ぐかもしれない言葉の一つでも彼女には届かないのではないだろうか。ただ、一つの返事に反応がないだけでそれだけの不安を抱いてしょうがない。
いつまでも、いつもの自分じゃない。他人の中にいる自分を見出すことができず、裸の自分がそこにいるだけ。そのような状態が、状況が不安でしかなかった。
二人でいるのに孤独だった。二人でいるこの場所で、彼女の呼吸は耳に届きそうなくらいに近かった。結局風が荒れているせいで、それらは錯覚のようになっているけれど、それでも彼女の表情は眼前にあった。すぐに触れられる距離に彼女はいた。
それでも、二人とも孤独だった。二人でいるのに一人でいようとしている。互いが互いに関わろうとしているような場面であるのに、場面であるからこそ、その始まりを互いに行って始まらない。二人は孤独でしかなかった。
いつまでも言葉を吐くことができなかった。何を紡げばいい。これ以上待っていても時間が経つだけで何も始まらないことは明白だった。どこまでも暗がりにある世界も、時間が経てば明るくなっていく。俺たちの姿を白日の下へと晒していく。そんなことになってもどうしようもないだろうに。行動をしなければいけない、俺はそれを理解しているはずなのに、やはり言葉を見つけることはできないままでいた。
相手にしてほしいことならわかる、とそう思っていた。事実としてそうだった。経験則ではかることができていた。そうやって今までを過ごすことができていた。自分自身を演出し、何も考えないような時間を過ごすことが自分にとって心地が良かった。でも、その心地よさはいつまでもやってこない。それは深夏という彼女だからこそなのだろうか。俺はその要因を考える頭でさえ回らないことに気づいては首を横に振った。
素直に感情を紡ぐことが苦手だった。恋人といえる人間に対しても同様だった。そもそも感情を抱いているのかさえ疑問であった。喜び、怒り、悲しみ、楽しさ、そのそれぞれを抱くことはあっただろうが、それが本当にその方向へとはっきり向くような、れっきとした感情を抱いたことはあっただろうか。色合いを持つ感情を抱くことができていただろうか。
そんな実感は、いつまでも持つことはできていない。
いつまでも俺と、目の前にいる彼女は孤独のままで過ごしている。想定していることであれば、それなりの振る舞いをすることができる。だが、想定していない状況しか眼前には広がっていない。心の準備を何度しても、それを飲み込むことなどいつまでもできていやしなかった。
「……」
「……」
互いに言葉を交わすことができずに、立ち尽くすだけの時間を過ごした。数分くらいのものだろうか。気まずさだけが理由ではない目の前の状況に、俺たちはただ黙りこむことを続けていた。
黙りこくっているだけの時間は苦しかった。きっと、話していたとしても苦しかっただろう。彼女といる時間が俺にとっては苦しいものだった。その理由を考えるのも苦痛につながる。彼女は俺にとっての禁忌のようなものだった。意識したくないから意識を向けない、とそう意識をしてしまう矛盾を繰り返していた。そんな禁忌の象徴でしかない彼女との対峙は、確実に自分の心を擦り減らすような行いであったはずに違いない。
そうして、再び風が荒れ始めた。
身体の中に帯びていた熱はとうに冷めている。冷え切っていた。冷え切った身体をさらに凍えさせるような強い風が春を攫っていくように吹き荒れている。
「寒いな」
唯一、吐き出せる言葉があるような気がして、誤魔化すように俺はそのままをつぶやいていた。沈黙の時間も、話していくであろう時間も苦しいだろうが、これ以上思考に身を費やしていても自責の念が強まるようにした。自分の意識を空に逸らすためにも、俺はそんな言葉を吐いていた。
「えっ。……ああ、うん」
そうだね、寒いね、と深夏は相槌を打つようにした。彼女も彼女で誤魔化すように、頷きながら空を眺めていた。困惑が混じっているような声音ではあったものの、それでも少しだけ表情は穏やかなものになっていた。
先ほどから彼女の視線は俺の表情をとらえていなかった。いつまでも地面をなぞるようにして、俺がその目をとらえても一切視線が合うことはなかった。それが俺にとっては少しだけ苦しさのあることだった。
そんな表情に比べれば、互いに誤魔化しあうような空気は存外悪いものでもなかった。そこに表出しない感情を並べるだけでも、会話をしている、という過程を踏んでいるような気がして──その本質が互いのそれに届かないとしても──きちんと関わりあうということができているように思えたのだ。
それが少し面白いように感じた。
何一つとして事態は進展していない。何も解決につながるようなことはない。俺たちは互いに呼吸を交換するように息を吐いては、互いに気まずさだけでは収まらない空気を肺に取り留めている。それを繰り返している時間の中、偽物のような演出を振舞って互いに安堵を浮かべている。
どこか似ているのかもしれない。そんな安堵を抱いている自分がいる。それに安堵を抱いている自分も、そんな妄想としか言えない感情を抱いている自分も馬鹿らしくて、再び苦笑は形になっていった。
それが彼女に伝わったのかはわからない。俺に合わない視線はようやく俺の目を覗くようにしていた。目を見てくる彼女に、俺は思わず視線を逸らしそうになる。それでもこらえるようにしながら、俺は彼女と目を交わしあった。
互いが必死に見つめあっている、そんな状況。
「なにこれ」
俺の口から感想が漏れた。二人で何をやっているのか、よくわからない状況に対する一言をつぶやいた。
「なんだろうね」
ふふ、と彼女は笑みをこぼしながら首を傾げる。とぼけるような動作を繰り返しながら、そんな様子に懐かしさを感じて俺も笑った。
ようやく、何かが取り払われたように、俺たちは互いに笑いあった。
散歩をするみたいに、互いが互いに歩調を合わせながら、行く先もなく道の奥へと進んでいく。それは俺が先ほどまで歩いていた場所かもしれないし、そうじゃないのかもしれない。目の前の状況に浮ついている意識はそれを認識することも難しくなっていて、俺はただ前を見据えることしかできなかった。
互いが同じ方向を見定めていたものの、それでも目的地のようなものは見出せることはなかった。そもそもが偶然なのかわからない邂逅である。俺も彼女もそれらしい場所を提示することはかなわず、自然と歩みを進めていくだけ。
歩くたびに風が吹き荒れるような感覚があった。歩行する向きに対して立ち向かうような強い風。俺たちの身を凍えさせるような、そんなひたすらに冷たい感触を頬で味わっていると、その行く先に屋内を求めてしまうのは道理ともいえるかもしれない。
だが、どこに行けばいいのかはわからない。どこにも行きつく場所などないような、そんな気持ちを抱えてしまう。
近くにあったのは公園、そして住宅街ならではの住宅の並び。このまま真っすぐに道を行って、右に行けば深夏の家に近づいていくはずだ。逆の方向へと歩いていけば自ずと俺の家にもたどり着くことができる。
だが、それでも俺の家へと進んでいく勇気はない。そもそも彼女を自室に招くことに違和感を覚えてしまう自分がいる。そうでなくとも、こんな夜の時間帯に異性を部屋に入れることには抵抗がある。……今まで、恋人を招き入れたことさえない。
まだ怖がっている自分がいる。彼女が自室に入ることに躊躇いと称して恐怖を誤魔化そうとしている自分がいる。互いに沈黙を選んでいるこの状況を良しとして、その上でただ見覚えのある道を歩き続けている。考えれば考えるほど、自室に対する距離は遠くなっていくような気がした。
「寒く、ないのか」
それでも、俺は彼女にそんな言葉を呟いていた。
肩を並べて共に歩いている彼女の肩は晒されている。その寒さを気にしない、というように洒洒落落と往来の真ん中を歩いてはいるものの、たまに身をよじるように自らの肩を包むように手が触れていた。その様子を見て、俺はそう声をかけるしかなかった。
「寒い、よ?」
「そう、だよな」
俺と彼女、その吐き出す言葉はすべてが区切られたように稚拙だ。並べるべき言葉を一瞬の間で思索しながら、それが正しいものであれば素直に吐き出す。それを繰り返しているせいか、継ぎ接ぎのようにしか言葉は並ばない。
「どこか、……いや」
どこか行くか。そう声を出そうとしたものの、それは正しくないような気がした。それは彼女を屋内へと誘う行為だと思えば、それだけで正しくないような気がする。不自然としか言いようのない流れに巻き込んでしまうような気がする。それを感覚的に正しくない、と俺はそう思ってしまった。
……そもそもが、不自然な流れでしかないはずなのに?
「なあ」と俺は声を出した。少し息を溜め込んでから吐き出した声音は低くなった。風に紛れてしまいそうなそんな声、だが声量は大きかったはずだった。それに彼女の顔がこちらに向いたのに気が付いた。だから、彼女に声は届いていた。
「どうして──」
どうして、こんな夜に。
そう言葉を連ねようとした。彼女の瞳は俺の質問が紡がれる中で、わざとらしく外の世界へと逸らされた。
俺の言葉に、その質問に、深夏は理解が及んでいたのかもしれない。おおよそ想像がついていたのだろう。だからこそ、彼女は取ってつけたように視線を逸らした。都合が悪いことでもあるかのように。
まあ、そうだろうな、と俺は思った。
そうでなければ、こんな夜に彼女が道を歩いているはずがない。いや、そういう偶然だってあるのかもしれないが、それにしたって不自然でしかない。道筋が正しくない。あまりにも都合がよすぎるような、そんなここまでの展開に俺は理由が欲しかった。
「──こんな夜に」
そして、言葉を続けようとした。彼女の視線を伺いながら、拭く風の強さを感じてはその冷たさを忘れようとした。なんで、という気持ちが強かったからこそ、特にその寒さを意識することはなかった、が。
──くちゅんっ。
「……」
「……あは、は」
張り詰めた空気に水を差すように、もしくはそれを割り切るように、彼女は勢いのあるくしゃみをした。
「……寒いもんな」
照れたように、もしくはそうして意識を外に持っていくような彼女の振舞いに、俺は理由をつけるように言葉を吐いた。彼女は、うん、とそれに頷いた。
「とりあえず、そうだな──」
結局、俺が吐き出したかった言葉のすべてを吐き切ることはできないまま、寒そうに振舞っている彼女に従って、俺は悩むように声を出す。
「部屋、……来る、か?」
躊躇いや恐怖、それを抑えた上でようやく吐き出すことができた、勇気のあるとも言えない微妙な言葉。
彼女はそれに、やはり「うん」と頷いた。……頷いてくれた。