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第十五話

 息が漏れてしまった。聞こえてきた声に、耳に届くはずのない音が、声が聞こえてきたことに、はっ、と俺は唖然と息を吐き出すことしかできなかった。


 それは俺が望んでいた声だっただろうか。望んではいなかった声だろうか。それとも何一つとして考えが及んでいない声だっただろうか。そうして左右する感情を前に考えを巡らせても、そのどれにも分類をさせることは難しいような気がした。答えにたどり着くことはできないようだった。


 そこにあった声に信憑性を持つことができなかった。現実味のないことだと思っている、そういった浮ついた夢のような感覚がある。あまりにも唐突過ぎるのだ、そんな声が耳に届いているのだ。そんな容易に切り離した人間の声が聞こえてくることはないはずだ。望んでいても、望んでいなくとも。それほどまでに都合がいいことが目の前に起こることはない。現実が浮ついているようにしか思えなかった。


 ああ、これは夢なのだろう。そう思う方が道理だ。それ以上も以下もない。そう考えた方が自然でさえある。


 だがそれでも目にしているすべての情報は、感じている身体の熱は、足の少しの疲労は夢と言うだけでは誤魔化せなかった。夢のような場面の中であっても、細部に感じる感触はどこまでも本物だ。これは偽りの中にある夢の世界では絶対になかった。


 ねえ、と声が聞こえた。耳がそう音を拾った。それは何度も聞いたことのある声掛けだった。


 それは俺が何度も無視を重ねようとした声だった。結局無視をすることができなかった声掛けだった。無視をすればするほどに、相手は更に言葉を重ねようとする。そんな本質に気づいてからか、それとも自分がいたたまれなくなってしまったからか、俺はその声をいつからか無視できなくなっていた。


 だから、その声に衝動的に振り向きたくなった。そうすることを自分で選択をしようとして、そんな自分を堰き止めるために拳を強く握りしめて堪えた。


 俺は、どうするべきなのだろう。


 彼女はいつだって、深夏はそうやって俺に声をかけてきていた。二人の関係が分かたれる前、分かたれた後、そのすべてでその声掛けを崩すようなことを彼女はしなかった。


 それはまるで悪戯をするような声掛けだった。最初がいつだったかを思い出すことはできない。だが、こちらにちょっかいを出すように、振り向いてほしいことを願うような、そんな真意が含まれている声だったことは、幼心からでも理解できていた。


 俺は、どうするべきなのだろう。


 声は後ろから聞こえてきていた。それは目にしなくとも理解できることだ。そうでなくとも、目のしていれば俺はただ視線をそらして逃げることしかできなかったはずだった。


 それを相手が理解しているのかは知りようもない。だからこそ、背後から俺を留めるように声を刺してきたのかもしれない。別に何も考えずに声をかけていたのかもしれない。そのどちらでも構わない。結局のところ、俺が彼女の声に対して逃げることは、そのような思考が働くことはないのだから。


 俺は、どうするべきなんだ。


 いつまでも過ちに対して向き合っている、向き合っていない、そんな中途半端な姿勢を作り続けている。いつまでも中途半端な振る舞いしかできていない。そんな中途半端でしかない自分が──どこにも存在しない自分が──どうすればいいのか、何一つとしてわからない。頭が働かない。


 酔いは冷めている、覚めている。酔っていない。酩酊していない。そもそも酔えない人間でしかない、そうであるのに、地面が反転したような感覚に引きずられる。重力に身体を持ち上げられるような感覚がある。背中からすべてを落としそうな感覚がある。だが、本能としてそれに従ってはいけないことを理解して、俺はようやく一つの息を、重苦しくて仕方がなかった息を吐き出した。


 どうするべきか、なんて考えても仕方がない。無駄な思考は、無駄なことは考えない、と定義づけたはずだ。そうして毎日を過ごしていたはずだ。


 そうならば、そうであるのならば。


 目を閉じた。目を閉じて、祈るような気持を抱えながら、後ろへと振り返っていった。何を祈っているのか、具体的な気持ちを感情に並べることはできず、どうか、どうか、とただ三文字をひたすらに繰り返すだけ。その祈りに結末を見出すことはできず、俺は声のほうへと振り返ってから、目を開けた。


「や、やっほ」


 当時から変わっていないような、それでも少しだけ大人びているような。ただそれだけの変化しか感じ取ることのできない彼女が、薄着の深夏がそこにいた。


 外の空気は冷たい。夏はまだ遠く感じるような温度だ。昼が熱を逃がさないような空気を演出していても、それでも夜だけは暖かみを取りこぼすような闇を世界に放っているのだ。俺の体の芯でさえ冷えてしまい、凍える気持ちで帰ろうとしていたのに、そんな中で彼女は肩を晒すような薄い服を着ていた。


 震えている声、だと思った。それは寒さからだろうか、それとも……、と考えたところで苦笑を浮かべそうになった。いくら考えたところで、当人でもない感情をはかっても正しくあるはずがないのだから。


「お、おう」


 気丈に振舞おうとした。何も動揺をしていないことを示すように、何も感じていないことを誇示するように。それを日常的に行っているように、俺は誰かにとっての自分を演じようとした。


 だが、それでも彼女と同様に、俺も震えた声を返すことしかできなかった。いつも通りの自分ではないことを改めて認識して、心にあった苦笑ははっきりと形になった。心の中でだけ浮かべようとした自嘲を表に出して、口角を緩めてしまう自分がいた。


 震えた声を、深夏は笑うことはしなかった。


 彼女の表情はいつまでも捉えきることはできなかった。そうして俺が向けている視線に、彼女と目が合うことはなかった。そうやって視線で彼女を探ろうとしたところで、俺は容易に彼女の顔を見つめることができていることに驚いてしまった。


 今までは忌避するようにしていた。少なくとも、高校の頃は彼女とまともに顔を合わせようとはしなかった。だからこそ、そんな驚きを噛み締めて、苦笑は更に綻んでいった。


 そんな自然な笑みが、苦笑であっても漏れたのはいつぶりだっただろうか。目の前にしている景色には気まずさしかなかったはずなのに、俺はそんなことを震えた息を繰り返しながら考えていた。


 やはり、これは夢ではない。


 ずっと感じていた現実感を、俺は今一度踏みしめるようにした。



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