第十四話
身体の中で巡っているアルコールの成分を感じていた。どこか頬が紅潮する感覚を忘れることができないまま帰路についていた。見覚えしかない道を通りながら帰路を急いだ。急いだのは、帰ってから何か行動をしようと思っていたから。
帰ってから何かをしようと思っていたのだ。感情は途方に暮れていた。何を考えればいいのかはわからなくなっていた。何かを考えようとしても、そのうちに交じるように過る一人の顔を思い出しては、それに意識のすべてを持っていかれた。何か意識をそらせるようなことがあればいい。そんなことに期待をしながら家路を急いでは、少しだけ汗ばむ感触を気持ち悪く感じた。
そうして家に帰った。実家としか言えない家に帰宅をした。両親は既に眠りについているようで、玄関先からのぞける部屋のすべては暗がりに染まっていた。物音を大きく出さないように気を付けながら、自室のほうまで上がっていく。階段を上って、少しだけ軋んだ音を立てる床にひやりとする感覚を抱いた。別に、誰が起きても構わないだろうに。
自室に戻って、そのすべてをベッドに預けたくなった。そしてその衝動に従うままに力を失って倒れ込むようにした。いつか見たドラマで誰かがやってそうな行動だな、と俯瞰で思っては、飛び込むようなこの動作が心地がいいものではないということを実感した。ただ勢いが自分の体に反発する痛さだけを感じて、それに息を吐いては自分が何をしているのか、と冷静になる。
身体の中に熱があった。紅潮している頬の熱を逃すことはいまだにできていない。服も着替える気力はない。そのまま寝てしまえばいいのかもしれない。
独りでは無駄な思考を繰り返してしまう。何事も考えたくないのに考えを巡らせてしまう。それが嫌だから寝ればいい。だが、体の熱が気になって、横になっても眠れる気配はどこにもないような気がした。
体の熱を無視するために、逃すために外に出ることにした。そうすることに意味がないことは自分で理解していた。これを酔っているといえば酔っていると表現することはできそうな気がする。悲劇の中にいる自分に、そう演出している自分に酔っている、とそういう風に。
深夜ともいえる時間帯だろうか。ポケットの中に入れていたはずの携帯はいつの間にかに見失っていた。先ほどベッドに身を投げ出したときにポケットから抜け落ちてしまったのかもしれない。だから時間を確認することはできないし、田口が言っていたような深夏のアカウントが本当に存在していないのか、それを確認することも──違う、別に、あいつのことなんか、気にしていない──できなかった。
外に出れば尚更冷えた風が吹いているような気がした。部屋の中に入って少しだけでも体の熱が冷めたことを世界が示しているような気がした。春末の空気ではあるものの、それでもその冷たさに身をよじりたくなってしまう自分がいた。その寒さを誤魔化すように、まだ熱に絆されている頬に片手だけを当ててみて、そのぬくもりを確かめるようにする。そうすることも自分自身で滑稽でしかなく、愚かでしかないような気がする。
ただ、近所を歩くだけを繰り返した。知っている道しかここにはない。ずっとここに住んで過ごしているのだから、それは当然のことでしかない。だが、見覚えしかない道を歩いているはずなのに、そこには新鮮さが孕んでいるような気がした。
何一つとして未知のものはそこにはなかったはずだ。慣れ親しんでいる景観だけがそこに広がっている。それでも寂しさと似たような新鮮さを心の片隅に覚えてしまう自分がいた。それに理由を見出すのであれば、夜に閉ざされた暗闇の中に、それらを見たことがないからだろうか。
いつも、外に出ようとしなかった。
幼い頃は両親からの頼み事であったり、外食で夜出かけることはあったかもしれない。そして、大学生になった今、夜の時間帯に帰ることも珍しくはない。だから、そのすべてに見覚えはあるはずだが、見覚えはなかった。こうして散歩をするように散策したことがそもそもなかった。
そのせいか、往路、復路以外の道を見ようとしたことがない。自主的に外に出ようとしたことがないのだ。いつでも自分の部屋だけですべてを完結させることができた。外に出る必要がなかったのだから、俺は見覚えのあるはずのこれらの、夜の景色を何一つとして知ってはいなかった。
外に出ても見いだせるものはないのだ。外に出るだけ無意味な時間を過ごすことしかできない。退屈な時間を過ごすくらいであれば、部屋の中で無為に過ごしていたほうがマシだとも思う。部屋の中で夢の世界に浸ってさえいれば時間なんてすぐに消えてくれる。日常へと俺を戻してくれる。
日常の中であれば意識は他人に向けて働く。田口が言うように、言っていた通りに、他人が求める自分を振舞うことを徹底できる。その間、自分のことは何も考える必要がない。
俺はそれでいい、と思っていた。それでいい、と思っている。そんな生活が変わることは今後もない。俺が俺のためにすることは何一つとしてない。それが他人のためになると、恋人という関係性を紡いだうえで相手のためにもなる、とそう思っていた。そう思いたかった。
そんな言い訳を続けていた。そんなことを心の中で並べては誤魔化す時間を続けていた。実際にそうだった部分もあるからこそ、それは自分にとって正当な理由だった。
目の前にある景色に、そんな新鮮さを、感慨を抱いてしまうのはたったそれだけの理由だ。
今までやろうとしていなかったこと、それを自分が行っていることに新鮮さを感じているだけなのだ。今日行っていることに、茫然としている自分に、何もしようがなく、途方に暮れている自分が道を求めた結果、そうしてその感慨は生まれたのだろう。
きっと今日、俺は初めて外に出たと言えるのかもしれない。
だからといって、前向きになれることは一つもないのだろうが。
身体の熱は次第に落ち着いていった。頬に上っていた熱も強く吹く風に押し流されるように沈黙をしていた。いよいよ寒さを強く感じたところで、眠ることのできる気配が瞼を重くしていた。
そのあたりで明日から行うべきことを整理する余裕もできていた。もともとは恋人だった人間と同じ講義をとっていたこと、朝に待ち合わせをしていたこと、そんなことを思い出すことができたが、別れを告げられた今、それはすべて意味がなかった。
明日からは誰かにとってのしんどい空気がまたやってくるのかもしれない。俺はそれを気にしないように振舞うが、誰かは気遣うような言葉をかけてくるのかもしれない。もしくは田口のように敵意を向けてくるかもしれない。
……別にどうでもいいな、とそう思った頃合いで、ようやく自分が今どこにいるのかを改めて考えた。
どれだけの道を歩いてきたのだろう。そこまで長い時間を歩いた実感はないものの、何も考えずに歩いていたせいか、巡り巡って家から近くの公園へとたどり着いていた。その間の記憶は既になく、自分がどれだけ無意識に歩いていたのか、そんな愚かさを考えては笑いそうになる。
見覚えのある公園、とは言いつつも、実際にここで遊んだことは一回しかなかった。
幼少の頃から外に出ることが嫌だったのだろう。その当時の感情を思い出すことは難しいものの、子供のころから部屋で過ごしていた気がする。だから、見覚えだけしかなく、思い出はそこにない。いつも部屋に深夏が来てくれたから、俺は……。
また、頭に過ってきた名前、顔を振り払うように、実際に頭を振ってから息を吐く。これでは夢でも彼女が出てくるような気がする。俺はそれを望んでいないのに、何も彼女には抱いていないとそうしているのに。
さっさと家に帰ろう。こんな場所にいたところで意味はない。帰って寝て、また明日のことを考えればいい。周囲の気遣いを勝手に察しながら、俺は毎日を送ればいい。その生活を、過ごし方を変えることはできないのだから、いつも通りに。
そう、足を進めた。自虐する気持ちを反芻しては、彼女のことを振り払っていた。足音の大きさを自分で意識しながら、彼女のことを考えていない、ということを自分自身に示すようにした。
だが。
「──ねえ」
そんな、聞いたことのある言葉が、声が。
──耳に転がってきたような気がした。