第十三話
田口は途端にばつが悪そうな顔を浮かべた。この前まではあったはずなんだけどな、と独り言を漏らすような小さな声を吐き出して、俺に向けようとした視線をさらに逸らそうとした。
「それって、どれくらい前?」
俺は何の気なしにそう聞いた。何の気なし、というか、無意識に言葉を運んでいた。
だが、田口はその言葉に対してさらに気まずそうな表情を浮かべた。彼の中でも関心を取り留めていないことがはっきりと表れることだったからだろう、俺に何かしらの言葉を吐こうとしても息が漏れるだけで、それ以外に音は流れてこなかった。
途端に目の前にある空気が凍り付いたように思えた。いつか味わったような真空のような空気、いつかは自分が持ち出してしまったその真空のような重み。呼吸をすることも躊躇ってしまうような、そんな感覚。別に大したことを話していたわけでもないのに、互いが話す言葉を失ってしまって、ただ酒を飲む手が動くだけになる。
実際、そんなものでしかなかった、と俺は思ってしまう。田口は別に深夏と密接にかかわっていたわけでもない。ただの生徒会役員としての仲間、先輩と後輩という関係性だけに終わる仲。そんな彼を責めることは俺にはできない。
そもそも、それが本来の人間としての正しい生き方だ。忘れることは忘れて、覚えることだけ覚えていればそれでいい。そのような過ごし方をしている田口は正しい、何も悪くはない。俺もそうでありたい、と心の底から願っている。
だが、田口はそれを自分自身で許せないのだろう。ただグラスをテーブルに押し付けるはじけた音が響いて、静かに注文パネルへと触れていく。俺もそれに同調して指を運ぼうとしたが、こんなことばかりを考えている自分に嫌気が差して、結局手が伸びることはなかった。
彼が再び注文をしようとした頃合で、店員がラストオーダーを告げてきた。沈黙が始まってから数分間、何かしらの言葉を選べばいいだけのはずなのに、真空のような空気を互いに肺に取り込んでいた。それだけの長い時間を彼と過ごしてしまったこと、彼に過ごさせてしまったことに申し訳なさを抱いた。
「別に、大丈夫だよ」と俺は彼にそう呟いた。何が大丈夫なのかはわからない、なにも保証はない、どこにもそんなものはない。だが、ただただ申し訳なさそうにしている田口を思ってそう言葉を吐いた。
ああ、またこの繰り返しだ。
彼の言う通り、相対している人間の、そうしてほしい姿を自分自身で演出している。本音で語らえると思った人間でさえもこんなことを繰り返している。
いつまでも成長はない。進歩はない。いつまでも俺は変わることができていない。
そんな空しさを反芻しては、より苦しくなる心臓の鼓動を俺は確かめ続けることしかできなかった。
会計は約束通りに俺が持った。田口は何か言いたそうな顔をしていたが、結局それが言葉になることはなく、俺たちは無言のまま店を出ていった。
夏の香りを感じていた日中の空気は夜の風に吹かれて流されている。寒ささえ感じそうな空気の中で、しばらく俺たちは出入り口でわだかまった。
出入り口付近にある喫煙所とは言い難い場所、吸い殻入れだけが置かれている寂しい場所に二人で立ちすくんでいる。
俺がポケットに忍ばせていた煙草を取り出して、それに火をつけようとすると、田口は慌てたようにライターを取り出そうとする。そんなキャラじゃないだろ、とようやく俺が吐き出せた言葉に田口は苦笑を返した。
「なんとなく、やりたくなったんだ」と田口は言う。「そっか」と俺は適当な相槌を打った。
「別に、大丈夫だから」
二度目になる言葉を吐き出して、それから互いに煙草を吸った。肺によどんだ真空の気まずさを入れ替えるように、苦くて重いだけの煙を肺へと取り込んでいた。息を繰り返すだけの時間、ため息を吐き出すような所作をお互いに作りながら、俺たちの沈黙は不自然ではないものだと刻みつけるようにした。
それこそが気まずさだと俺は理解していた。別に何も悪くない、別に大丈夫、本当にそれだけのことでしかない。
だが、それでも、それでもだ。いつも本音のように怒りをぶつけていた彼が、少しでも申し訳なさを俺に抱いていることが、どうしようもなく悲しく感じてしまった。
夜の静けさの中に世界はあった。その静けさはいつかの出来事を思い出してしまいそうな、そんな寂しさを孕んでいる。
暗がりの中にあった空を見上げた。こうして空を見上げるのはいつぶりのことだろう、そんな思考をしてはみるものの、それで思い出せる記憶はどこにもなかった。そもそも空を見上げるようなことをした記憶がなかった。それもそうだ、見上げることに疲れてしまっていたのだから。
夜空には雲が存在していなかった。暗闇の中で自分だけが輝いていることを誇示するように月だけが歪な形をしてそこにいた。それはあの時と同じような月だっただろうか。それさえも結局は思い出すことができていない。きっと、空なんて見ていなかっただろうから。
田口とは反対方向を見定めて離れていった。それじゃ、という言葉を交わしあって、それから沈黙を延長し続けるように背中を向け合って去っていった。そんな別れの最後まで、特に俺たちは言葉を挟むことはしなかった。
静かな世界が嫌いだ。独りでいる時間を認識してしまうから、静けさにまみれていく目の前の景色に嫌悪感が生まれた。
独りになればなるだけ、自分の意識が尖るような感覚を抱く。それだけ自分の意識が浮つくように眼前にあることを認識してしまう。それを思うたびに俺は苦しくなる。働かせたくない思考が勝手に働いて、その度に自己嫌悪は重くなる。だから、独りになることがいつまでも嫌いでしょうがなかった。
今日別れた彼女と一緒に過ごす時間は嫌いじゃなかった。こうして俺が独りで考える時間を彼女は減らしてくれた。だから、相応に彼女に対する振る舞いを考えていた。彼女の中で臨んでいる俺の姿を投影した。それでいい、と俺は思っていた。
それでも、結局別れは告げられた。彼女のその言葉に悲しみを持つことができなかったのは、俺は彼女のことを好きじゃなかったからに違いない。既に慣れてしまったやりとり、というだけではなかったはずだった。
言葉を告げられても喪失感がなかった。恋人という関係性であったはずなのに、それでも離れることを当然だと思っている自分がいたのかもしれない。
恋人であっても他人は他人で、自分は自分でしかない。俺は相手を所有しているわけでもないし、彼女は俺を所有しているわけではなかった。他人だから。
だが、恋人という関係性はその所有という感覚に近いはずだ。心の隙間に入り込むように、互いに同じものを、それぞれの存在を食い込ませるような、棲み込ませるようなものだろう。だが、俺の中に彼女はいなかったし、それ故に喪失感なんて覚えることはできないのだ。
そして、ふと彼女に言われた最後の言葉が蘇ってくる。
「やっぱり」
そんな言葉を残していた。さも当然とでもいうように、彼女はわかり切っているようなそんな言葉を残していた。俺のすべてを把握している、とでも言わんばかりに。
彼女は何を理解していたのか、何かを期待していたのか。それを考えればこの心に巣食う靄は晴れるだろうか。わからない。それでも、わかり切っているように冷笑する他人になった人間の声が、ひどく心に触れてくる。
止められたかった、とそう思うのは自分の傲慢でしかないのかもしれない。それでも、やっぱり、という言葉の裏にはそれがひとつ噛んでいるような気もする。だが、そう思う自分が気持ちが悪い。彼女が実際にそう思っていたとしても、俺は引き留めるようなことはしなかっただろうから、なおさら自分のどうしようもなさを自覚して舌を噛みたくなってしまう。
わからない。何もわからない。理解を放棄したくなる。苦しい、何かを吐き出してしまいたい。身勝手だ、身勝手じゃないか。俺はどうすればいいのか。
考えたくない、何も考えたくはない。自分で整理できない感情を目の前にしている。それを認識することがどうしたって面倒で仕方がない。乱雑にちらばったそれを眺めるだけで並べることができないのだ。いつまでも理解ができない状況が苦しくて仕方がない。
そうして、頭に過る、いろいろなこと。
いろいろなこと、と乱雑に思えるようなことであるはずなのに、ひとつに限定して思い浮かべている。
ひとりの顔、もう見ていない顔、知らないようにしている顔。どうしようもないこと。取り返しはもうつかないこと。振り切ったこと。振り返らないようにしたこと。気にしないようにしたこと。無関心を貫こうとしたこと。そして、真に無関心へと近づいてしまったこと。
そして今、関心を抱いてしまっていること。
暗がりの空、そんな闇の中へと映すように瞼の裏には深夏の顔が広がっている。
……そんな錯覚があるような気がした。




