第一話
太陽を見ることに疲れていたのかもしれない。いつからそうだったのかは覚えていないが、空を見上げることについてはもう飽き飽きとしていて、意義を見出せないからこそ下を向いた。大概、そんな風に景色を見渡してみれば、地面の汚れや何かしらの跡が視界にちらついてくるのだが、そんな世界の汚さを無視するように歩く人の影を見て、ふう、と息をつきたくなってしまう。なんとなく、現実らしい、という気持ちになる自分がいるのだ。そんなことを考えている自分が馬鹿らしいな、と思ったタイミングで俺は窓を閉じていた。
きっと今日の空は灰色だった。夏が終わって秋に近い空気の中、早々に冬を香らせるような冷たい風が吹いていた。肺の中に血の味を感じるような乾いた空気が荒れていて、それを感じるたびに時間の流れや季節の移り変わりを実感する。そうする時間も無駄だよな、と思いながら、やはり自分の愚かさのような部分をより大きく感じて、静かに息を吐いた。
途端、埃臭さを思い出すように、生徒会室にいる彼女はひとつの咳をこぼしていた。俺が窓を閉じたからなのだろう、その行動は嫌味にも思えたけれど、結局のところ、彼女は特に何も考えていないように思った。その咳が重なるさまを見て、少しの申し訳なさを抱いたけれど、それでも寒さをごまかすためにカーテンを閉めた。彼女は尚更咳を重ねていた。
カーテンを閉めるのは一日の終わりを報せることと同義だった。これ以上に行動をすることに意味はなく、活動は終了しなければいけない、そんなひとつの合図。時間外の労働というのは表現の上では熱心さを感じるけれど、実際のところは何も美しいものなどはなく、日中の怠惰がツケとして回っただけの応酬に過ぎない。だからこそ、カーテンを閉めることによって一日の終わりを知らせて、その応酬から逃れることを周囲に約束するように、俺は、はあ、と再び息をつきながら自分の席に戻った。その頃合でようやく彼女の咳も落ち着いたようだった。
周囲とは言いつつも、このカーテンを認識しているのは俺と彼女くらいだろう。外にいる人間はこちらのほうへと視線を向けてくることはないだろうし、その興味をほかのものに分散させて、それらしい青春というものを送っていく。それが正しいことであるかはさておき、それらが普遍的なものであることは理解しているので、何かしらの文句をつけてやる気にはならない。実際、どうでもいいのだ。外にいるであろう誰かも、俺も。すべてがどうでもいいものなのだ。
この生徒会室にいるのは俺と彼女の二人だけであり、孤独とは言えない環境の中、互いに孤独に近しい空気の中で息を続けている。それを寂しいかと聞かれれば、別にそういうわけでもなかった。
「それじゃ、俺は帰るから」
自席の近くにはまとめ終わったものと、それに紛らわせて、何一つ手をつけていないもの。別にして分けないのは、気が付かなかった、という言い訳を駆使するための要素であり、時間外労働を拒否するための手段だった。
「わかった」と彼女は呆れた顔をしながら息を吐いていた。彼女が俺のそんな行いに気が付いているのかは知らない。きっと気が付いていても、そうじゃなかったとしても、彼女はいつだって呆れた表情を浮かべていると思う。いつものことでしかなかったから、結局それさえも俺にとってはどうでもいい事案でしかなかった。
自席の横に置いていた学生鞄を持ってみて、その軽さに自分で苦笑を浮かべそうになりながら、俺は足を扉へと向けていく。この鞄の中身のように、自分には何かが欠けているような、空洞のような、そんな感覚を抱きながら、さっさと帰って自分だけの時間を過ごしたいような気持ちに駆られる。
そうして扉をくぐろうとした、そんな時だったと思う。
こほん、と喉が鳴った。先ほど聞いていた咳とは異なって、こちらに何かを示唆するような、そんな咳払い。俺はそれに足を止めながら、ん、と声を出して振り返ってみる。
「もう、冬だね」
彼女は、そんなことをつぶやいている。独り言ではないのだろう。振り返ってみれば視線は俺のほうへと向けていたし、声音としても俺に言い聞かせるような声だったから。
ああ、と適当な返事をして、それからしばらく足を止めてみる。こういうとき、何かしらの話があるからこそ彼女は声をかけているのだと、昔からの付き合いで理解しているからこそ、そのタイミングをはかるようにしていた。
「……一緒に帰るか?」
まあ、結局俺が声をかけることでしか、そのタイミングというものも生まれはしないのだけれど。
俺の声に彼女は、うん、と頷きながら、そうして机上にあった書類を片付けるようにしていく。俺はそれを片隅にある存在のように見送りながら、とりあえず扉付近にかけてある生徒会室の鍵を取った。
生徒会室を施錠した後、俺たちはその足を職員室に向けて、その鍵を届けに行った。
生徒会室から職員室までの距離は離れており、その間の沈黙は耳にこだましていく。いつだって息遣いだけが隣にあるような、そんな時間ばかりを俺たちは過ごしているような気がする。きっと他人であれば気まずさを覚えそうな空気なのだろうが、互いに何かを思うことはない。いつも通りのことであるようにすべてを片付けた。
長く感じる廊下を渡り切る直前、何の気なしに外を眺めてみる。景色の暗さは灰色を突き通した黒色を陰らせている。相応の人影の数をグラウンドで確認しながら、俺は鍵を彼女に渡した。
これも、結局いつも通りのこと。俺はいつだって彼女に何かを任せるようにしていて、俺が自主的に動くようなことはしない。単に面倒くさいから、という理由をつけてはいるものの、それ以上にある理由は心の中でも考えないことにしている。
鍵を受け取った後、彼女は決められた挨拶を職員室の方に響かせては、定位置とされている場所に鍵を置いた。そのあと、何かしらの声を教師陣からかけられている姿を見て、俺はそうっと目を逸らすことにした。特に見つめる意味合いもないし、彼女もそれを望んでいないだろう。俺は適当に暗がりになっていく世界の中で、ぼうっと掲示物を眺めた。冷たい風が少しそれを揺らしているのを見るのは、きっと少しは楽しかったかもしれない。
失礼しました、という彼女の声を聞き届けてから、俺は視線を彼女に合わせた。鉄仮面のような笑顔を視界に入れながら、ぽん、と肩を叩いてみる。そうした直後に縫い付けたような笑顔は崩れて、ただ静かな真顔になった。俺はそれを確認すると、特に何か言葉を交わすことはなく、その足を昇降口の方へと向けて一緒に階段を下っていく。足音がただひたすら耳に届いていた。