36.タイムリミット
それからは、戦もなく、ヴォルフが宮殿にいる生活が続いた。
ヴォルフがいて、クリスティーナさまがいて、ハンスがいて、私がいる。家族がみんな揃って、幸せな生活だ。
だけど私の心には次第に憂いが陰っていた。
もう少しで、約束の一年になろうとしていたのだ。
──離婚の時が近づいている。
だけれど、子供が出来た気配はついぞ感じられなかったのである。
賭けには勝とうとしているのに、嬉しくないなんて。
私は、陛下を愛している。
陛下も私を愛していると言ってくれる
共にいたいと思っている。
でも、あの誓約書はどうすれば? あれは神に誓ったもの。そう簡単に覆すことなど出来ないだろう。
ぽろり、と私の頬を涙が伝う。
「あ……、私どうしたのかしら……」
ぽろぽろぽろぽろと涙が溢れて止まらない。
「どうしてあんな誓約してしまったんでしょう……」
そうして私は顔を手で覆い、肩をふるわせて泣くのだった。
◆
しかし、誓約は破れない。であれば、大切な家族の思い出が欲しくなった。
微かな愁いを感じる日々を送っていたある日、せっかくだから何かこの家族の思い出を作ろうと、朝から色々と準備をしていたのだった。
「コルネリア、朝からやけにいそいそと何をしているんだ?」
ちょっとやりたいことがあって、こっそり仕度していたら、見つかってヴォルフに問われた。
「お昼の仕度をしようと思いまして」
「は?」
ヴォルフが目を丸くする。
「昼って、昼食のことか? 皇后が?」
「変っているかもしれませんが、私の産みの母が、ときどき食事を自分で手作りする人だったのです。ですから、料理人のオイゲンに頼んで厨房を借りているのです。……まあ、趣味のようなものですわね」
「皇后にしては変った趣味だが、そういう理由があるなら止めはしない。お前の母との思い出だからな。……お前の手作りの昼食、楽しみにしているぞ」
そう言って、唇にバードキスされた。
「わぁ! お兄さまとお義姉さまがキスしてる~!」
それを見たハンスがキャッキャとはしゃぐ。
「こら、ハンス。お兄さまとお義姉さまをからかわないの」
クリスティーナさまが優しくハンスを窘める。
ヴォルフはといえば、まるでハンスに見せつけるかのように私の腰を引き寄せる。
「うらやましいか? ハンス。ならばお前もコルネリアのように美しい妻を娶ると良い」
そう言って再び私の唇を塞いだ。
「もう~。見てらんないよぉ~!」
両手で目を塞いで真っ赤な顔でそう言うと、ハンスは駆けていってしまった。
「ははは」
ヴォルフが愉快そうに笑う。
「もう。ヴォルフったら、ハンスに対してのからかいが過ぎますよ」
私は、くい、とヴォルフの鼻を摘まむ。
「あらあら。まるで新婚さんね。私も見てられないわぁ」
くすくすと微笑ましげに笑ったかと思うと、クリスティーナさまもハンスのあとを追うように行ってしまわれた。
「……私たち、ちょっとふざけすぎましたでしょうか?」
「そうかもしれんな」
そうして、誰もいなくなった居間で、もう一度キスをくれたのだった。
そのあと、私はヴォルフを居間に残して厨房へ戻った。
今日はライ麦パンに、ハムとチーズを挟んだものと、ツナとオリーブを挟んだものをつまめるように。あとはスコーンを焼いて、クロテッドクリームとハンスの好きなイチゴのジャムを添えましょう。
お菓子が好きなハンスのために、焼き菓子も用意したいところね。そういえば、オレンジが厨房に届いたと聞いたわ。そうね。カスタードクリームの上にオレンジを飾ったタルトでも焼きましょうか。
私は嬉々として準備をする。もちろんひとりでやるわけでもない。マリアやオイゲンが手伝ってくれる。みんな、私のことを支えてくれて、とっても嬉しく思う。
やがて、昼食の時間になる。
私は、出来上がったライ麦パンのサンド、スコーン、そしてオレンジのタルトをテーブルに並べた。食事に合わせる紅茶は侍女が用意してくれた。
「おお、これはすごいな。軽食もデザートも作れるとは知らなかったぞ」
ヴォルフが手放しで褒めてくれる。
「ふふ。侍女やオイゲンにも手伝ってもらったんですけれどね」
「それでもすごいだろう。私の母は厨房になど入らなかったぞ」
ヴォルフは感心しかり、といった様子だ。
「コルネリアお義姉さま、すごい! それに僕が好きなものがいっぱいだ!」
だって、あなたが好きなものを想像して作りましたからね!
「まあまあ、上手に作ること。素敵な奥さんをもってヴォルフ陛下も幸せ者ね」
クリスティーナさまは私とヴォルフを交互に見て目を細めていた。
「まあまあ、見た目だけではわかりませんから。みなさん、昼食をいただきましょう」
私はそう謙遜して、みなに食事を促した。
すると、みなが添えられたナイフとフォークを使って食事を始める。
「んっ! オレンジのタルト、美味しいよ!」
「こら、ハンス。デザートから食べてはいけませんよ」
「まあまあ、クリスティーナさま。家族だけでの食事ですから」
「ははは。そうだな。好きな順に好きなものを食べると良い」
家族の時間は穏やかに過ぎていく。
そんなときだ。
カチャン。と音を立てて、私はフォークを床に落としてしまう。
「あら? どうしたの、コルネリア?」
クリスティーナさまが私の方に視線を送る。
「……なんだか急に眠気が襲ってきて……」
「あら変ね。朝から張り切って疲れてしまったのかしら?」
「そんなことはないと思うんですけれど……」
私は首を傾げた。マリアやオイゲンにも手伝ってもらっての準備だったから、そう負担のかかる作業ではなかったはずなのだ。なのに、妙に眠気に襲われる。
昨夜も陛下と夜をご一緒したけれど、そう遅くまでいたしていた訳でもないし、わりと早い時間に共寝をした。睡眠時間は足りているはずなのに……。
そうしていると、急に胸焼けのようなものに襲われた。
「んっ……。ちょっと、失礼します」
私は謝罪の言葉を口にしてから離席する。そして、隠れられる場所まで移動した。
「うっ……ううっ」
先ほど口にしたものが、胃から喉へとこみ上げてくる。
すると、クリスティーナさまが心配して追いかけてきてくださったようだ。私を支え、背を優しくさすってくださる。
「ねえ、コルネリア? ……もしかして」
「……もしかして、なんでしょう?」
私は首を傾げた。そんな私の耳元に、クリスティーナさまがこっそり耳打ちしてくれる。
私は、明るい未来が見えたような気がして、ぱあっと笑みを浮かべた。
「あなたたちの最近の仲睦まじさを見る限り、そっちの可能性の方が高そう。病気じゃないかもしれないわ。昼食が食べられそうだったら、それを終えてから、医官のヘミングを呼んで、診察を受けたらどう?」
「そうします!」
戻った私たちに、待っていたヴォルフとハンスが心配そうな顔をしてみせる。けれど、「大丈夫」と笑顔で答えて、昼食の時間を終えたのだった。
そうして、私は部屋に戻ってから、クリスティーナさまが手配してくださった医官の診察を受ける。
「おお、これはクリスティーナさまのご慧眼のとおり、ご懐妊に間違いありませんな! おめでとうございます、皇后陛下!」
「まあまあ、やっぱり! じゃあ、早く皇帝陛下にお伝えしないと」
クリスティーナさまも我が事のように喜んでくださる。
「皇帝陛下にさっそくお伝えしないとなりませんな。私が陛下の元へご報告にまいりましょう」
医官が買って出てくれた。
「コルネリアはここで待っていて。きっと医官から報告を聞いたら、彼、飛んでくるから」
そう言って、クリスティーナさまは私にウィンクして見せた。
「コルネリア! コルネリア!」
廊下から私を呼ぶ声がする。
──そんなに何度も呼ばなくても私は逃げも隠れもしませんよ。
クスリと笑ってヴォルフの訪れを待つ。そんなヴォルフが私の名を呼ぶ声を聞くのも幸せで。
まだ実感のない、薄い下腹部を私はそっと撫でる。
もう、いるのね。私たちの子が。
慈しみ、愛し合って出来た子が。
愛おしくてならなくて、そっとお腹を優しく何度もさする。そして聞こえてくるのはこの子の父親の声。幸せで仕方がない。
「コルネリア!」
バン! とやや乱暴に扉が開かれる。
「ヴォルフ」
「子が出来たか!」
「……はい!」
ツカツカと早足でヴォルフが私の寝ているベッドへとやってくる。そして、たどり着くと私のこめかみに口づけをした。
「良くやった!」
「はい……!」
もう一度、唇と唇を軽く重ね合わせた。
「賭けは、ヴォルフの勝ちですわね」
私はクスリと笑いながらヴォルフに告げる。
「ああ、私の勝ちだ」
「ところで、一年で子が出来なかったらどうなさるおつもりだったのですか?」
「そんなもの決まっている」
「……?」
私は首を傾げた。
「神の名の下に誓った誓約書を、私の、帝国皇帝ヴォルフ・ロイエンタールの名の下に破り捨てるつもりでいた!」
「……! ふふっ」
私は思わず笑ってしまった。
なんて傲慢で愛しい人なのだろう、と。
「お前は今が大事なときだ。安静にしていろ。いいな?」
「はい」
私は素直にヴォルフの言葉に頷いた。
「私は、誓約書を教会に返してくる。……誓約書はどこにしまった?」
「鏡台の引き出しに」
そう言うと、ヴォルフは私の部屋に置いてある鏡台に向かう。そして引き出しを開けた。
「……これか」
久しぶりに見るあの誓約書に感慨深そうに眺めている。そしてこう言った。
「コルネリア。これを教会に返してくる。お前は、永遠に私の妻だ。……それでいいな」
「……はい!」
そうして、ヴォルフは教会に誓約書を持っていった。賭けは終わり、神の下、処理されるのだろう。誓約は終了として。