35.
「いつ陛下はお戻りになるのかしら。ねえ、お強いといっても、多勢に無勢と言う言葉もあるわよね。陛下は無事にお戻りになるのかしら」
「皇后陛下……」
私は自室の窓から空を見あげた。そんな私にマリアは付き従っていてくれる。
心は千々に乱れていた。
──陛下。
私のために、行ってしまわれた陛下。
幼い頃の私の記憶を信じてくださって、私の遺恨を晴らすためにと征ってくださった陛下。
いくら精鋭を選んで行ったとしても、いくらレッサードラゴンを使って急襲するとしても、あんな人数では反撃に遭ったりはしないのかしら。
無事に戻ってきて欲しいと願う。
──無事に戻ってきて欲しい?
私は私の心の中に問いかける。
私は、陛下に、無事で健やかに、側にいて欲しいの?
私さえ関わっていなければ、アッヘンバッハ王国の暗殺や汚職は、わざわざ何も皇帝陛下御自ら行かれる必要もない案件だ。
それを、自ら征かれると言ってくださった。
──陛下。どうかご無事で。
夜に見た、彼の裸体を思い出す。傷だらけの、あの素肌を。
──どうか、傷一つ受けず、痛い思いをせずに戻って来てください。
私は祈るようにそう空に向かって願う。
ああ、私……。
──陛下を愛しているのね。
私は、陛下の無事の帰還を願いながら、初めて自分の想いに気付くのだった。
そうして部屋にこもってばかりいたからだろうか。
扉をノックする音がして、「今良いかしら」とクリスティーナさまの声が聞こえた。
「どうしますか、陛下」
「大丈夫よ」
マリアにそう答えると、マリアが扉を開けに行った。
「どうぞ、クリスティーナさま」
一礼をしてから、クリスティーナさまが私の方へやってくる。
「外を見ていたの?」
「ええ。……いつ、陛下が空からお戻りになっても良いようにと……」
そんな私の背を、クリスティーナさまが優しくさする。
「気持ちは痛いほどよく分かるけれど、根を詰めすぎては体に毒よ? 外のテラスかどこかで、少し私たちとお話しでもしない?」
クリスティーナさまは、私が部屋にこもりきりなのを見かねて外に誘い出しに来てくれたようだ。
「皇后陛下、気分転換も必要ですよ」
マリアもそう言って勧めてくる。
「そうね。お言葉に甘えようかしら。ハンスの可愛い顔も見たいし」
そうやって笑うと、不安もどこかに紛れていくような気がした。
私は階下の居間を通り、テラス席へと出る。
「コルネリアお義姉さまぁ!」
ハンスが嬉しそうに駆け寄ってくる。
そして、隣には優しいクリスティーナさまがいる。
空を見あげる。きっと、陛下は無事に私の元へ戻ってきてくれる。
──私の場所はここなのね。
ようやくそう思うことが出来たのだった。
◆
毎日毎日、空を見あげていたある日。
「皇帝陛下のお戻りです!」
やっと衛兵からその吉報を聞くことが出来て、私の心は踊った。そして、皇后としてはしたないにもかかわらず、心の赴くままに、陛下を少しでも早く出迎えたいと、廊下を駆けていった。
そうして、宮殿の出口にまで駆けて行った私の周りには、いつの間に揃ったのだろう。使用人、文官、騎士、兵士たちが位の順に逆Vの字にずらりと並んでいた。そうして、私はその真ん中に立っていた。
あの、離婚を突きつけたあのときのように。
レッサードラゴンから降りた皇帝陛下が、ゆっくりと私の方へ歩いてくる。
一度見た、見慣れた光景だからだからだろうか。陛下が笑っていらっしゃる。
「コルネリア。また離婚してくれというのか」
陛下が悠然と笑って言った。
「いいえ、いいえ」
私は首を横に振って、涙を眦に溜めて陛下の元へ駆け寄った。そして、背の高い彼に飛びつくように首に腕を回す。
「お帰りなさいませ。あなたのお帰りをお待ちしておりました」
「ああ、愛しい妻よ。ただいま帰ったぞ」
私は逞しいその腕で、強く抱き留められるのだった。
私たちの背後から、わっと歓声が上がった。
◆
私は、その夜、陛下がいらしても良いよう仕度をして待っていた。
陛下がいらっしゃると前触れがあったのだ。
湯浴みをして、香りの良い香油を塗って。そして、薄い寝衣を肌に纏って私はベッドに座って待っていた。
お帰りになったばかりなのに、お疲れではないのかしら? 今日くらいはひとりでお休みになっても良いのに、と思っていたら、続きの部屋へと繋がっている扉が開いて、陛下がローブ姿でいらっしゃった。
「お疲れさまです、陛下」
「ああ、さすがに急行軍で疲れたな。……コルネリアの隣に座らせてくれないか」
そう言って、私の隣に腰を下ろした。そして、コツンと額と額を触れ合わせられる。
「……どう、なさいました?」
「お前に言って置かなければならないことがある」
しん、とした部屋に響く、その真面目な声音に、私はコクン、とひとつ頷いた。
「お前の義両親だがな。お前の父母を殺した対価として、私の判断で断首した」
その言葉を聞いて、私は一瞬息を呑んだ。
「……私が怖いか? 私はそういう男だ」
『冷酷無慈悲な銀狼』の名を思い出す。その彼は、そういう人なのだとまざまざと思い知る。
「他の、者は……?」
「王太子夫妻はこの帝都の牢に永久投獄だ。子には罪はないが、出自を知って育つのも難しかろうから、平民として育てるよう言いつけてきた」
「そう、ですか……」
ドクン、ドクンと胸が鳴る。
私は『冷酷無慈悲な銀狼』の妻で在ることが出来るのだろうか。
「私が怖いか」の問いは、それを問われているような気がした。
「私はこれからも大陸平定のために人を斬ることもあるだろう。まだ、東征が済んでいないからな。父の遺恨を晴らすため、この大陸から争いをなくすため、私は生きている限り大陸平定を目指す。どうだ、コルネリア。それでも私の妻でいられるか?」
心を静めようと、大きく息を吸い、吐いた。
「……私は、陛下に、父母の件での遺恨を晴らしていただきました。感謝こそすれども、恐れることはありません」
そう言うと、私は陛下の右手を取る。剣ダコだらけで固い、剣を振るう方の手だ。
そして、その手に唇を落とした。
「この手で、私の義父母を断罪なさったのですよね」
「ああ」
「私も、その業を共に背負います。私のために、してくださったことですから。ありがとうございます。大陸平定も、大きな大義のため。そこに何らかの業が生まれるのであれば、私も共に背負いましょう。……私はあなたの妻なのですから」
それから、陛下の目を見つめる。
「愛しています」
まっすぐに想いを伝えた。
「コルネリア……やっと愛していると言ったな」
「はい、陛下」
どちらともなく顔が近づいて、唇が触れ合う。
初めは啄むように、そして、吸い付くように、さらに深く求めていく。
「もっとお前に触れたい」
耳元に囁かれれば、私はそうして欲しいと願い、請うようにはいと頷く。私は耳朶まで赤くなってしまっているだろう。だって熱を孕んでいるのが分かるのだから。
「赤くなった」
それはすぐに陛下にバレてしまう。陛下はそれを指摘すると、蕩けるような笑みを浮かべて耳朶に口づけをする。
「んッ……陛下ぁ」
すると、唇に指先を宛がわれる。
「ヴォルフと。……名を呼べ」
「ヴォルフ……」
「そうだ」
良く出来たと言わんばかりに、こめかみにキスを受けた。
ベッド脇に腰掛けていた私を軽々と横抱きにすると、ヴォルフは私の体をベッドに横たえる。
寝衣を剥ぎ取られる。ヴォルフは私を見下ろして目を細めた。
「何度見ても綺麗だ。……愛している、コルネリア」
「私も愛しているわ、ヴォルフ」
「あッ……ねえ、ヴォル、フ。……賭け、はどうしますか……?」
私はヴォルフに責められながら彼に尋ねる。
「……子が出来るまで、すれば良い……ッ」
「なら、陛下の、お子を……くだ、さい、ま、せ……ッ」
そう言うと、それが合図だったかのように、ヴォルフが私に覆い被さった。
私たちの睦み合いは、そのあとも飽きることなく続けられた。そうして、やがて窓から朝日が差し込んできた。
私は、ヴォルフの腕の上に頭を乗せて、彼の横に寝そべっていた。
「ヴォルフ……」
愛おしくて、すり、と彼の二の腕に頭を擦り付ければ、ヴォルフは私をさも愛おしそうに目を細めて、それから額にキスをくれる。
「コルネリア、愛している……」
そうして私たちはふたりで眠ってしまった。
侍女たちも誰も、起こしに来ないで欲しい。
今はふたりだけの時間。
そうして、私は初めて情だけでも、愛情だけでも、快楽だけでもない、夫婦の在りようを知ったのだったのだった。




