12.
──コルネリアが愛らしすぎる。
コルネリアが朝食を食べ終えるのを見届けて、彼女の部屋をあとにしたヴォルフは、廊下の壁に背をもたれさせて、目元を手のひらで覆う。
朝食のパンケーキを、小さな切片にして口で食む様子。その艶やかな唇が小さく動く様子はとても愛らしかった。
そして何より昨夜のあのコルネリアの初心な様子だ。
恥じらい必死に声を漏らすまいとしていた唇。
性感帯というものも分からず「くすぐったい」と言っては身を捩っていた様子。
初めて感じる場所に指をあてられて驚いた様子。
ヴォルフに媚びることなく、感じるままを素直に受けとめるその様子は、全てが実に初々しく愛らしかった。
そして何より、自分が初めての男であったという、あの赤い証を見て、最初に驚きと動揺を感じ、そして何より大きな喜びを感じた。
こんなに美しい乙女が清らかなままでいるなんて。そして、自分の元にやってくるなんて。
かといって、コルネリアは男に媚びるような女ではなかった。
乱れた環境で育ったヴォルフにとっては、それは感動ものの出来事だった。
──賭けをしたのは失敗だっただろうか?
このままでいけば、彼女が妊娠しない限り一年の関係だ。
彼女は「離婚してくださいませ」とヴォルフに言った。彼女はなぜ皇后の座を手放そうとするのだろう。それがあれば、富も名誉も権力も。全てが手の内だというのに。
自分に色目を使ってきた女たちは、みんながそれを欲していたというのに。
──なぜお前はそれを手放そうとする?
わからないと思うと同時に、彼女のことをもっと知りたいと、ヴォルフは思うのだった。
だが反面、ヴォルフは自分自身のこともわからなかった。皇后として共に一生添い遂げて欲しいのは本当にコルネリアなのだろうか、と。
コルネリアを愛しいと思うこの想いが、いっときの恋煩いのようなものなのかもっと違う何かなのかまでは、正直まだわからなかった。
ヴォルフの心はまるで少年のそれのように千々に乱れる。
コルネリアは、ヴォルフにとって、未だかつて出会ったことのない未知の存在だった。
コルネリアの部屋を出て、執務室へ行こうかと廊下を歩いていると、ヴォルフはコルネリアとある約束をしたことを思い出した。
「なんなら教会に宣誓して、私のサインを入れた宣誓書をしたためてやろう」
そう。あの口約束でしてしまった宣誓書が必要だった。
「……教会に行くか」
明日にでも、と言ってしまった手前、誠実に対応しておいた方が心証も良いだろう。そう思う反面、何をそんなにコルネリアに気を遣っているのだろうかと自分に問いかけながら、一度執務室へ向かった。
「戻ったぞ」
そう言って衛兵が開けた扉をくぐって室内に入ると、中では宰相のライマーと側近のエミルが仕事中だった。
「あっ。陛下! やっと戻っていらっしゃった! もう、書類仕事を俺たちばかりに押しつけないでくださいよね」
「戦時中はそもそもライマーひとりで回せていたのであろう? ならば私は不要ではないか」
そう冗談で返せば、「戦後処理が山積みなんです!」と正論が返ってきた。
「だが、コルネリアと昨夜約束をしたんだ。『一年子が出来なかったら離婚してやる』と。それを教会で宣誓書にしてやるとな。だから教会に行かんとならん」
それを聞いて、ライマーの手が止まる。
「あの話一年という話、本当に皇后陛下になさったんですか!? 陛下はバカですか!?」
その手はわなわなと震えていた。
「私にバカとは良く言ってくれたものだな、ライマー」
旧知の仲だ。そして兄弟のように育ったエミルの父だ。自分の父のようにも思っている。だから、これぐらいで本気で怒る仲でもなかった。だが、ライマーは違うらしい。
「あれだけ賢く美しい方はいないと、あれほど申しあげたじゃありませんか」
「賢さはそんなに皇后に必要か?」
「当たり前でしょう! 皇后が愚かでは国が傾きます!」
「だが、教会に誓うと約束してしまったのだ。神の名にかけて約束してしまったにも等しいだろう? だから私は今から教会に行ってくる」
「……陛下……」
ライマーはがくりと肩を落とす。彼らは部屋をあとにしたヴォルフを見送るしかなかった。
ヴォルフは馬車で帝都にある大教会まで移動する。そうして、大教会まで来ると、馬車を降りて侍従が開けた扉を通って教会の内部に入る。
「皇帝ヴォルフだ。教皇はいるか」
そう言って、近くにいた神父に声をかける。
「これはこれは皇帝陛下。わざわざご足労いただきまして……」
「挨拶は良い。教皇はどこだ。いつもの奥にいるのか?」
「はっはい。奥の教皇猊下のお部屋におられます」
「ならば邪魔するぞ」
そうヴォルフが告げると、神父は頭を下げる。そして、ツカツカと足早に歩を進めると、ほどなくして廊下の奥まった場所に扉が現れる。ヴォルフはためらいもなくノックする。「ロイエンタールだ」と名を名乗れば、すぐに扉が開いた。
「これは皇帝陛下。随分と性急な訪れでいらっしゃる」
そう口では言うものの、その口調は咎めるようなものでもなく、教皇は温和に対応する。
「……宣誓書が必要になった。教会お墨付きの」
「これは陛下にしてはまた珍しい御用向きですな。一体何を誓われるので?」
それを問われ、ヴォルフは忌々しげに、小さく舌打ちした。
なぜだろう。
自分はコルネリアを手放すための宣誓書などしたためたくはないのだろうか。
自分の胸に問うてみても、まだヴォルフの中でも曖昧だった。
「我が后コルネリアと約束をした。一年経っても子が出来なければ、離縁すると。それを、誓約書にしたためたい」
そう告げると、教皇は目を丸くした。
「皇后陛下と離縁なさってしまうのですか」
「三年、戦にかこつけて放って置いたら、離縁したいと言い出したのでな。……仕方あるまい」
「確かに、三年は長過ぎですね。……陛下がお悪い」
柔らかな微笑みを湛えて、教皇は文机から一枚の書面を取り出す。そうして誓約書の形式に書面を整えていく。その間、ヴォルフは座るでもなく壁に凭れてその様子を眺めて待っていた。
「……出来ました。あとは、皇帝陛下と皇后陛下がそれぞれご署名をなされば、この誓約書は効力を発揮するでしょう」
「すまん。手間をかけさせたな」
「いえいえ。……それでは私は、一年以内に皇后陛下がご懐妊なされることをお祈りしておきましょう」
微笑を浮かべながら教皇はそう告げてヴォルフを見送ったのだった。
ヴォルフは宮殿に帰還すると、待っているであろうコルネリアのために、さっそく彼女の部屋を訪れた。
「コルネリア、入るぞ」
「はい、どうぞ」
上質な蜂蜜の様に艶光る金色の髪は緩く波打って燦然と輝いていて美しい。その髪から覗く項は透けそうなほどに白く、少し力を込めてしまえば折れてしまいそうなほどに華奢だ。彼女が纏うドレスが体のラインにそって彼女のなめらかな体のラインをなぞるさまは艶美だった。
改めて見れば、我が妻ながら美しいな、と思う。自ら手折った、自分だけの女だから特にそう思うのだろうか。
そうしてヴォルフがコルネリアに見とれていると、彼女から声をかけられた。
「陛下、どう言った御用向きでしょうか?」
だが悲しいかな、コルネリアからかけられた言葉は、どこかよそよそしいものだった。それもそうだろう。三年も放って置いておいて、強引に初夜を行ったばかりの間柄なのだから。
「宣誓書だ。約束していただろう」
書簡を胸ポケットから取り出し、それを開いて見せた。それは、既にヴォルフのサインを入れておいたものだった。
「まあ、嬉しい。お約束を守ってくださったのですね!」
コルネリアはその宣誓書を手に取って、文机に向かう。そして、椅子に腰掛け、ペンにインクを付け、何のためらいもなく自分の署名箇所にサインをしたためた。
「これで、サインが揃いましたね。ありがとうございます、陛下」
「ところで、コルネリア」
「……はい?」
コルネリアが、次は何を言われるのかと首を傾げる仕草も愛らしい。
「今夜は、お前の寝室には行かない」
「そうなのですか?」
コルネリアは不思議に思う。毎晩抱けば抱くほど、賭けはヴォルフの勝率が上がるというのに、今夜は寝室に来ないと言う。もちろん、コルネリアの勝率が上がるのだから、ありがたいのだけれど。
「……その、昨夜の今日だ。……体を労るように」
それだけ告げると、ヴォルフは扉に向かうためにコルネリアに背を向ける。その彼の耳は後ろから見ても分かるほどに赤らんでいた。
「は、はい。……あの、ありがとうございます……」
コルネリアはヴォルフの気遣いに感謝して礼を言う。
「ではな」
そう言って部屋をあとにするヴォルフの背を、コルネリアはほんのりとした温かさを胸に見送るのだった。
──意外にお優しい方なのかもしれない。
私はその背を見送りながら、そう思った。