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届かない気持ち

 夜のウルフネストは、静かだった。


 史狼はひとり、ダイニングの椅子に腰を下ろし、麦茶の入ったグラスに口をつけた。


 氷がほとんど溶けかけた水は、少し味気なくなっていて、喉を通っても冷たさしか残らない。


 昼間の調査で感じた違和感が、まだ身体にまとわりついている。


 ——あの部屋には、確かに“何か”がいた。


 音でも、光でも、触れるものでもない。もっと曖昧で、でも確かに存在する気配。


 壁に触れたときに感じた“熱”。


(……このまま帰るわけには、いかねぇ)


 史狼は無言のままスマートフォンを手に取り、履歴から兄の名前をタップした。


 通話音が鳴る間、ほんの一瞬だけ、指先がためらった。


 けど、どうせ明日になれば連絡は来る。だったら、先に伝えておいたほうがマシだ。




「おう、シロ。どうした、東京は満喫してるか?」


 耳に届いたのは、変わらない兄の声。相変わらず豪快で、どこか強引な響き。


「……まあな。けど、ちょっとあって、しばらくこっちに滞在する」


「……は?」


 その一言で空気が変わる。


「“滞在”って何だよ。まさかまた、妙な依頼に首突っ込んでんじゃないだろうな」


「妙って言うなよ。ちゃんと仕事だって、言ってんだろ」


「誰にだよ」


「……海都さん」


 沈黙が落ちた。


 ほんの一瞬。でも、長く感じる。




「……はああ!? お前、あいつと何やってんだよ。まさかまた“霊がどうの”って話に付き合わせてんじゃねーだろうな」


「“付き合わせてる”んじゃねぇって言ってんだろ! 頼られたから、オレがやってんだよ!」


 言い返した声が、大きくなったのが自分でもわかった。


 けど、止められなかった。


「兄貴だって知ってるだろ。オレがこの仕事してんのは、“見える”からだ。誰も気づかねぇもんに、オレが気づけるなら——それで誰かが助かるなら、それだけで意味あんだろ!」


「……お前、それで本当に取り返しのつかないことに巻き込まれたらどうすんだよ」


「心配してるフリして、結局は否定かよ。昔からそうだったじゃん。『自分には見えないから信じない』って。それで終わりだよな、あんたは」


「シロ——」


「もういい。オレ、帰んねぇから。ここでやることあるから、戻らない」


「おい、待て——」


 返事が届く前に、史狼は画面をタップして通話を切った。


 静寂が部屋に戻る。

 麦茶の氷がコトリと崩れて、透明な音が響いた。


 怒りじゃなかった。たぶん、疲れてた。

 けど、言わなきゃ気が済まなかった。


「……はあ」


 ソファに身体を預けて、史狼は天井を見つめた。

 兄の声が、まだ頭の中に残っている。


「取り返しのつかないことになったら——」


(……なったら、どうすんだろうな、オレ)


 思った以上に、その問いは重たく響いた。


 でも、それでも。

 海都が「君だから頼んだ」と言ってくれた。


「やってやる。ちゃんと最後まで」


 史狼は誰にも聞こえないように、小さく呟いた。


 窓の外では、雲間からぼんやりと月が顔を覗かせていた。


 ◇


 通話を切ったあとも、しばらく史狼はソファに沈んだままだった。


 握っていた拳が、じんわりと汗ばんでいる。


 “帰らない”なんて、本気で言うつもりじゃなかった。

 でも、兄の声を聞いたとたん、勝手に言葉が出た。


 麦茶に手を伸ばすと、指がかすかに震えていた。


 そのとき——


「……全部じゃないけど、聞いちゃった」


 背後から届いたのは、静かな声。

 史狼が振り向くと、廊下の影に海都の姿があった。


 照明を背にして立つその輪郭は、どこか柔らかく、あたたかかった。


「ごめん。聞くつもりなかったけど……声が、聞こえてきて」


「……あ、いや。こっちこそ、変なとこ聞かせて、悪かったな」


 史狼は眉をしかめて頭をかいた。視線をどこにもやれず、落ち着かない。


「気まずいからって、無理に謝らなくていいよ。僕はただ、心配で……」


 海都はそう言って、そっとテーブルの端に腰を下ろした。


 手には、湯気の立つマグカップが二つ。

 そのうちひとつを、史狼の前にそっと置く。


「ホットミルク。蜂蜜少し入れてある。……寝る前に、ちょうどいいかなって」


「……オレに気ぃ遣いすぎだって、海都さん」


「気遣いたい人がここにいるんだから、しょうがないでしょ」


 言葉が、詰まった。


 マグカップを両手で持ち上げて、唇をつける。


 ほんのり甘くて、やさしい味がした。熱が喉を通って、胸の中を満たしていく。


「兄貴の奴さ、昔からああなんだよ。正論ばっかで、いつも上からでさ」


 ぽつりと、言葉がこぼれた。


「でも、昔は嬉しかったんだ。なんでも知ってて、強くて、格好良くて……ずっと、“追いつきたかった”って思ってた」

 

 気づけば、声が少しだけ掠れていた。


「でもさ、追いかけてるうちに、どんどん“違う”って言われてく気がしてさ。オレが“視える”ことも、変なもんに興味持つことも……全部、否定された気がして」


 ふう、とひとつ息をついた。


「それでも嫌いになれねぇんだよ。結局、あいつはオレの“兄貴”だからさ」


 ひと呼吸分の沈黙。


 海都は何も言わなかった。ただ、隣で静かに時間を共有してくれていた。


「……なあ、海都さん」


「うん」


「オレさ、今ここにいて……迷惑じゃない?」


 言葉が震えていたのが、自分でもわかった。


 強がる余裕もなかった。けど、今だけは、本音が顔を出した。


 海都はマグカップを置き、まっすぐ史狼の目を見る。


「迷惑なんか、あるわけない」


「……」


「ここは、“ウルフネスト”って名前だけどさ。君が来てから、初めて“寝ぐら”らしくなった気がするんだ」


「……なにそれ。綺麗ごとすぎ」


「綺麗なつもり、ないよ」


 海都は少しだけ笑ってから、静かに言葉を続けた。


「向き合えるまで、いていい。どこにも行かなくていい。


 もし君がまだ、帰る場所を決められないなら——ここが、その途中でいい」


 視線が、ふと揺れた。


 ありがとう、って言葉が喉の奥まで上がってきた。でも、うまく言えなかった。


 だから代わりに、マグカップを強く握りしめるようにして、ぽつりと呟いた。


「……オレ、やっぱここが好きだ」


 海都は、静かに頷いた。


 ふたりのあいだに流れた沈黙は、やさしく、あたたかかった。

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